1901(明治34) 年4月30日
四月三十日 火 曇 (欧洲出張日記) 二十八度半にて涼し 海は静也 夜に入つて空晴れ月出ズ
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
四月三十日 火 曇 (欧洲出張日記) 二十八度半にて涼し 海は静也 夜に入つて空晴れ月出ズ
五月一日 水 晴 サイゴン (欧洲出張日記) 正午メーコン河に入る 寒暖計三十度 三時過サイゴン着 四時過上陸 アルバレス街九二歳の日本婆の家に行く 食後市中散歩 又安南芝居を見る 十時頃林氏を訪ふ 陸上一泊 同行四人 佐 久 鈴木
五月二日 木 晴 (欧洲出張日記) 早朝雷雨 昼飯後湯に入り四時頃より四人にて公園を見 芝居前のカツフエにて林氏に遇ふ 五人連で林氏の知人の方に行く 夜食は林氏の馳走なり 十一時頃船にかへる
五月三日 金 晴 (欧洲出張日記) 午前三時出帆 正午二十九度 少しく風あり涼し 終日安南の陸を左方に見る 夜月よし 久米と甲板で二時近くまで話す
五月四日 土 曇 (欧洲出張日記) 風なくむしあつき事甚し 午前二十度に上る 午後少し涼しく為つて二十九度となる 今日は海南島の沖を通る 島は見へず 午後五時頃有名なる暗礁を遠くに見る 夜此の暗礁に就ての話を林氏よりきく
五月五日 日 曇 午後雨 香港 (欧洲出張日記) 今日は風あり 昨日よりしのぎやすし 昼過に為つて尤も涼し 寒暖計二十七度也 香港に近寄り雨ふる 四時半着 六時上陸 林 鈴 久 佐と野村と云家に行 夜日本村を見 野村へ一泊
五月六日 月 曇 (欧洲出張日記) 朝支那町より欧洲町を見物 恵良写真館にて紀念の為佐 久 鈴と四人にて写真を写す 林氏にハ昨夜日本村にて別れたり 公園を通り抜け野村方へ帰り食事 一時半頃船へ帰る 二時過出帆 夜同船の日本へ行く仏人と林と麦酒を飲で話す 林氏英米両国人の性質并に生活の事を語る
五月七日 火 雨 午後三時頃より霽る (欧洲出張日記) 海は鏡の面の如く平也 雨の為か大に涼しく二十四度位となる 午後三時頃台湾海峽の真中程に到る 夜九時頃に月出づ 十一時過より林氏の室にてウヰスキの振舞にあつかる 久 佐は早くねる
五月八日 水 霧と雨 (欧洲出張日記) 昨夜より今日へかけての気候の変化は非常にて今日正午十八度となる 外套を出して被る 午後少しく波立つ 四時十五分頃海の色一変し楊子江の水となる 此頃浪尤高く気分悪し 夜食後船を止む 十五度でさむし
五月九日 木 霧雨 (欧洲出張日記) 寒暖計十四度に下る 霧が強く潮時が悪いので此の岩礁の多き場所で船を動す事の出来ぬとかで昨夜は其儘で今朝まで居すわり漸く十一時に進行を始む 此処から呉淞までハ七十マイル位有り 午後四時頃呉淞に着 検疫彼是にて暇を取り食後ハシケに乗り九時上陸 林 久 鈴 佐と五人にて直に東和洋行に行 東和の主人吉島の案内にて十一時頃より日本料理屋六三亭にて飲む 十二時に切上げ林氏を残して帰る 間もなく林氏も帰り来る
五月十日 金 曇 夕方より雨 (欧洲出張日記) 昨夜は林氏と同室に寝る 久 鈴 佐の三人は廊下を隔てた向ふの部屋也 八時頃起皆で朝めしを食ひ佐々木と云人を案内者として城内の哈少夫を訪ふ 林氏の知己の道具屋也 是より哈氏の案内で城内を見物し又同氏ノ御馳走で順源楼と云支那料理屋に上る 後又哈氏馬車を雇ひ二時半頃より愚園 張園等を見る MMの小蒸気は五時に出帆なりと聞たる時ハ巳に五時五分前にて遂ニ乗り後れ別に汽船を雇ひ本船に帰る 時に九時也 十一時頃より林君の部屋に行て一時頃まで話した 十五分程立つて出帆
五月十一日 土 晴 (欧洲出張日記) 朝九時頃に目がさめたらもう大洋に出て居た 風も浪もなくいゝ天気だが寒い 寒暖計十五度也 明部屋が出来たと云ので荷物は元の処に残して置て引越す 序に少しカバンの中を片着け被物を被更たり
六月八日 今晩琵琶会を催す
六月十日 今晩久米と米福にて飯
六月十二日 中丸へ手紙を出す(昨夜ノ日附)
六月十四日 五時頃久保田米斎氏の留守宅をたづぬ
六月二十日 久保田と和田へ十九日附で手紙を出す
七月三日 今晩竹沢太一を呼で赤坂八百勘にて馳走 連中ハ久米 佐野 岩村 合田 小代等也 巴里にて御馳走ニなりし返礼なり
七月十八日 今晩学校の庶務会計等の官吏七名及洋画科助教連を久米と二人で上野精養軒ニ招待
七月二十三日 品川沖にて網打の催有り 主人ハ竹沢也 朝約束の時間に会する事能ハず 午後合田と二人にて出掛く 遂に連中ニ出遇ハず