本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年2月1日

 二月一日 金 (欧洲出張日記) 朝 Camille 昼めしは佐と門前でやる 腹具合よろしからず ソツプに玉子位でごまかす 二時 Augt. 来 佐野仕事をしオレハモデル気分悪く寝て居る 夜佐と昨夜の残の汁をやる 小林 久保田来 オレは寝て居る 十一時過医者ゴツク来

1901(明治34) 年2月2日

 二月二日 土 (欧洲出張日記) 大分気分はいゝが医者の命ニよつてねて居る 朝中丸に頼で薬を買つて貰つた Camille は朝から来て居たが仕事が出来ない為ニ看病をしてくれた 佐野ハ午後 Augt. 相手で仕事す 来訪者は午後 Beneget 久保田 岡田 和田 中丸 レガメ 夜 Camille モ再来る 一時半ねる

1901(明治34) 年2月3日

 二月三日 日 曇 (欧洲出張日記) 今日は腹具合平常ニ復した様也 門番の娘に頼で茶を入れさしてのむ 十時頃クロノ来 十二時頃ルゴツフ来 午後モデル・チチヌ来 佐野が仕事した 昼めしは門前屋から取りよせて食ふ 晩めしは昨夜の残物で久保田と佐と三人でやる 久は昼過ニ来 夜岡来 中丸が十二時少過に来て薬を取りに行てくれた

1901(明治34) 年2月4日

 二月四日 月 (欧洲出張日記) 病気もいよいよ全快らしい 併し外出せず 終日 Cam. 相手に仕事す 昼めしは内に取りよせてCと佐と三人で食ふ 寺島君が十二時頃に来て日仏協会の話をした 午後久保田君が引越して来た 晩めしハ久 佐としほで魚の料理をやる 中丸 重野 岡田来 ドミノ

1901(明治34) 年2月5日

 二月五日 火 (欧洲出張日記) 朝少し雪ふる Camille 来 佐野は久米の処に行た 伊太利行の相談也 昼めしは内でC 佐 久と食ふ 午後暗くして充分仕事出来ず Couronneau 来 日仏協会一件で公使館へ行く 晩めしハ岡 中 佐 久 今晩 中が醤油を持て来た 夜和田も来

1901(明治34) 年2月6日

 二月六日 水 (欧洲出張日記) 今日は霰などが降て中々寒い天気であつたが終日外へ出ず 内に居て朝からモデル相手で仕事す 午後樋口君が見舞に来て呉れた 岡も来た 昼めしは内で佐 久 Cと三人でやる 晩めしは久 佐 岡と四人でやる 夜 中 小林来 皆去 十二時半頃久米来 旅の事を話 久米ハ一時間程話して行た

1901(明治34) 年2月7日

 二月七日 木 (欧洲出張日記) 今朝八時に佐が立つた 九時の東停車場の汽車で久米と伊国へ向ふ 終日C相手に仕事す 午前菅氏来 夕方岡田が写真の道具をかつて来てくれた 昼飯はアトリエで久 菅 Cとやる 晩めしハ岡 久 菅と日本めし 後中が来 久ハ或人が来て外出 中ハ写真をやり岡と菅は去る 又MB来 後久と二時頃まで話す 三時頃ねむる

1901(明治34) 年2月8日

 二月八日 金 (欧洲出張日記) 終日モデルで画をかく 午後重野来 夕方岡田来 重 岡 久等と日本飯 食後中 小林来 中ハ早く去る 皆帰つて後久と二時頃まで話 今夜藤島 長原 中村 磯野等よりの年頭の手紙着 昼めしは一人でポツネンとアトリエでやる

1901(明治34) 年2月9日

 二月九日 土 (欧洲出張日記) 今日も終日モデル相手にやる 昼めしは久 Cと三人でアトリエで食ふ 午後早目に仕事をやめてコラン氏を訪ひ画の評を聴く 晩めしは中 久と例の如く日本めし 小林がテンプラをこしらへて持て来て一緒にめしを食ふ 久ハ終日かゝつて写真をこしらへてくれた 夜食後小林の義太夫 中丸の狂言歌などが出た 小林も中も一時半過まで居た

1901(明治34) 年2月10日

 二月十日 日 (欧洲出張日記) 朝モデル来 昼めしに中が其モデルを連れて来 久 中とモデル二人とオレと五人でアトリエでやり食後しばらく雑談 夕方再中が来 要談 六時過 Mme B の処に行 晩めしハ門前 中を訪 小林が居二人共内へ来る 久と三時まで話 今晩久 佐から電信来 ミランより

1901(明治34) 年2月11日

 二月十一日 月 (欧洲出張日記) 今日よりは画をかゝないから気楽で十時半頃までねる 十一時過 Camille 来る Cと久 中と四人でアトリエでめし 二時半頃から Lombard の処に要談に行く 帰りがけに Cook に寄つて切符を買ふ 中 久で味噌の汁などこしらへて小林はテンプラを持て来てくれた 女子理想美術学校の規則なるものが出来中々面白く四時にねる 午後中が部屋の片着をやつてくれた

1901(明治34) 年2月12日

 二月十二日 火 (欧洲出張日記) 今朝は久し振ニいゝ天気だつたが午後は曇つた 十一時頃に寝床を出 ぐづぐづして居つて一時過ニ煙草屋でめしを食ひ二時半頃に馬車を雇ひ先づ久米へ電信を出しサンゼルマン通で帽子を三十五仏で買ひ医師 Legoff の処へ行く 石川巌氏ニ出遇ふ 後サンミセルのシヤツ屋で腹巻のフラネルなど買ひ夫れより Cook へ行たが時間がをくれた 夜食ハ内で岡 久とやる 後中 和来る 今夜 中が手伝つてくれて少しく荷造をやる

1901(明治34) 年2月13日

 二月十三日 水 午後雪 夜寒し (欧洲出張日記) 朝十時頃馬車屋が来 十時半より銀行 Cook 等へ行き又買物などして帰る 午後荷造を為す 夕方より岡田 中丸等来 岡 中 久等と食事 夜和田と岡田□□□□□(原文不明)まで話 岡泊る 午後雪 夜寒し

1901(明治34) 年2月14日

 二月十四日 木 マーコン (欧洲出張日記) 中丸が七時過ニ来 珈琲などこしらへてくれた 九時半の気車に乗る 中が送つて来てくれた マーコンにて晩めし 十時過再マーコンを発す

1901(明治34) 年2月15日

 二月十五日 金 チユラン (欧洲出張日記) 今朝未明にモダーヌ駅で伊太利領に入るので手荷物の税関検査や汽車の乗換をする間に熱いシヨコラーを一杯飲んで暖まつたお蔭で伊太利の汽車に乗込んでから心持よく一と寝入りやつて目が覚めたのは七時過であつた 車室の水蒸気が窓の硝子に凍りついて真白になつたのを爪の先でガシガシやつて外をのそひて見ると前には雪の積んだ山が聳えてゐる まだスニイ山の近所か知らん そうすればチユランに着くには大分間があるからもう一ト息やらうと思ひ眠らうとして見たが股のあたりがイヤに寒むい様でねられず 其内に向ふに座つて居る仏人が話をし始めた 此男は肺病専門の医者でアレキタンドリヤ辺に招かれて行くのだそうだ 全体昨日の午前に巴里を立つ時に乗込んだ汽車は馬耳塞への直行列車であつたから一ト走りで午後三時過にはマーコンへ着いたが是からは真直に南へリヨンの方へ行つてしまうので伊太利へ行くには此処で他の汽車に乗換へなければならぬ 処が其汽車は夜に入らなければ来ないというので止むを得ず茲で下りて市中を見物に出かけた マーコンという地名は葡萄酒の名で随分おなじみになつてゐるが其土地を踏むのは始めてだ ひつそりした田舎の一都会なれどラマルチンの生地と聞けば床しく思はれる ソオヌと云ふ大きな河の両側にある町で停車場から川の方へ段々に下り坂になつて居る 川向ふは平地でそこにも町がある 川の手前は片側町でカツフエやホテルなどが軒を並べた処があるが何れも大いに不景気な様子に見受けた 其中の一つの宿屋にはいつた ホテル・ソーバージユといふので此ホテルの入口の左の一部は咖啡店になつてゐる 客も八九人許りゐた 皆商人らしい風体である 此咖啡店の一隅に陣取つて日本や巴里にやる手紙を書いて時を過す 晩飯も此宿屋の食堂でやつた ターブル・ドートで食事をするものは十七八人も居た これも皆商人連らしかつた 色々くだらない議論などしてゐるのを聞いて独りで別のターブルで食つた どうしてこう云連中は皆自分が一番物事を能く知つてゐて一番智慧のあるものだと人に見せてやろうという様に話をするのだろうか 妙なもんだ 九時半にチユラン行の汽車が出る筈だつたが三十分程後れて発車し其上モダーヌで又一時間ばかり手間を取つたからチユランへ着いたのは十時過だつた 尤も伊太利の時刻は巴里の時より五十五分丈進んでゐる 昨夜マーコンのステーシヨンから電信をかけて置いたから久米と佐野が迎に来て居た 一番先きに聞いたのは久米のミランの自慢さ ホテル・テルミニユスで一緒に昼飯を食べて直に三人でミユゼを見に行く 久米と佐野は既に一度見たのだそうだが是非もう一度行けといつてとうとう一緒に行く事と為つた 一つの博物館で古代部と絵画部との二つに別けてあつて一方の縦覧料が一人一フランだ 杖の代は取らない 是れは巴里とは全く反対だ 先づ絵画部には入る 間取りの具合は悪くないが陳列は雑ぜこぜで国別にも時代別にもなつて居ない 又非常な名画という程のものは少ない ボチチエリの画も三四枚ある ドナテロの石も一つ見当つた 尤も彫刻物は殆んどない 肖像のやうなものがあちこちに少し許りある丈だ 一寸面白いと思つたのはレムブラントの油画で小さな画だが年寄りが火にあたりながら何か考へて居るか居眠りをして居るかと云ふ体の図がある 是れは中々気持よく出来てゐるやうだ 珍らしいと思つたのは日本の工部大学校時分の画の教師であつたと云フオンタネジという人の画が二枚ある 二枚共人物入りの小さい風景だ 是等のものを見ると決して上手と云程のかきてゞは無かつたらしい 三時の汽車でゼノワへ立つ 伊太利の鉄道では仏蘭西や日本での様に何キロとか何貫目かまでは乗車券を見せて無代で手荷物を送るといふことが出来ないから一寸した物でも荷物として預けた日にはそれ丈の賃銭を払はせられるのである 又此国の汽車の時間の勘定は一風変つて居る 午前何時といふ事をやらないで午前の一時が第一時で昼の十二時までは其儘で午後一時は第十三時で十四 十五 十六時と二十四時までぶつこぬきに数へるから慣れないと一寸分らないでまごつく事がある

1901(明治34) 年2月18日

 二月十八日 月 リユック 雪 (欧洲出張日記) 九時五分の気車でリユックへ行き寺を三ツ見る 三時半ピサへ帰り六時頃ピサを立つ 夜一時十五分ローマ着 二時宿屋

1901(明治34) 年2月19日

 二月十九日 火 ローマ (欧洲出張日記) 十時半起る 食後一時頃外出 Villa Borghese を見る 帰路茶見世に寄り公使館へ行く チーブル河畔散歩 六時過帰る 夜食後芝居見物 十二時過帰る

1901(明治34) 年2月20日

 二月二十日 水 (欧洲出張日記) 九時半頃起る 朝めし後直ニシキスチーヌを見る 一時頃昼めし 又サンピエールを見る 公使館にて御馳走 十一時頃帰宿 二時にねる

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