本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年6月12日

 六月十二日 (欧洲出張日記) 朝七時頃起て見ると左の方ニかなり近く陸が見えた これがスマトラ島だ 十時頃に益近く為つてそれからとうとう離れて船はベンガル湾の入口に出た 海面にはたいした高低は見えないが船ハ随分ゆれて来た

1900(明治33) 年6月13日

 六月十三日 (欧洲出張日記) 今日は丁度ベンガル湾を横切つて居る そうしてスマトラ島とセイロン島との真中位の処を行く 此の辺の海の深さは四千メートル近くだ 即ち我一里位のものだ 船の動く事ハ矢張昨日のやうだ 昨日ハ縦ゆれが多かつたが今日は横の方だ 風も少しく加つて来て西南の方から吹く 之れが彼の有名なムーソンの端くれだらうと思ふ 夜窓から水を打ち込だ 寒暖計ハ三十一度位の処だが風が有る為めに甲板に居るとさほど暑さを感じない 夜寝てから汗をかいて手拭をびしよぬれにすることは不相替だ 兎に角毎日体がだるくていけない

1900(明治33) 年6月14日

 六月十四日 (欧洲出張日記) 今日は海上にハ波が多く立ち又波の姿も大きく為つた 左側の甲板には時々潮を打ち上げた 午後日本の宅へ出す手紙を書いた 船の中にこんなにぼんやりして暮らして居るのだから友達や何かに随分細かな手紙をかいてやる暇が有るのだが今日位ゆれるとはく程に酔ハないまでも気分が重く本を読む事さへ六ケ敷只 ぼんやり長椅子に寝転んで海を見て居る丈だ 又今日程ニゆれない時でも一日として気分のはつきりした事はない 始終熱の有るやうな心地がしていてこれは夜安眠が出来ない故かもしれない 何しろ此の船中に居る間は病気で入院して居るのだと思つて居るより外はない 体の具合がよくない為めか気分が何となく鬱して愉快な考は丸で出ない

1900(明治33) 年6月15日

 六月十五日 (欧洲出張日記) 午後一時にコロンボニ着いた 日本語の一寸分る土人の案内者が来た 先づ其者を連れて会社の小汽船で上陸 直ニオリヤンタルホテルといふのに行き水など飲んで少しく休息した 此の時去る十三日に日本の公使館員が北京で暗殺されて軍艦派遣などの事が始まつたと云事を聞た 本当の事なら一大事だ 馬車を二台雇ひ恒藤 青山 鴨下 佐藤 飯塚 岡崎の三氏と七人連で釈迦の墓を見ニ行た 港から此の墓までは七マイル有るといふ事だ なる程中々遠いがしかし途中は海岸の波の盛に打ちかける我七里が浜に立派な道路をつけたやうな処や又木立の中に別荘の有るやうな処を通つて行くのだから余り体屈しない 夫れに此の地の気候はサイゴンなどのやうなむしあついのでないから心地もわるくない 只閉口なのは馬車のあとからうるさく児供がかけて来てハングリ ボイ マスタといふて腹をさすつて金をねだるのだ ハングリ ボイ マスタは印度語かと思つて聞てゐたがそうぢやなかつた 英語の Hungry boy master といふ事をいふのであつた 何ニしろ此の地のものは大抵乞食根性が有るやうだ 釈迦の墓所には寺と墓と有る 又入口に井戸のやうなものが有る 神水だそうだ 皆古い建物とハ見えない 就中お寺は極く新らしく造つたものらしい 小さい堂で中ニ石で造たと云ふ黄ろく塗つた寝て居る釈迦の像が有つて廻りの壁には一杯まづい絵がかいてある 戒めのやうな絵らしい 此の世でうそをつくものは先きの世で鬼から舌をぬかれるといふやうな種類で此の世に在る時の姿と先きの世のところと二た通りづゝかいてある 鬼などハ日本の絵の鬼と大同小異だ 是等の絵の内で戒めとして尤も不思儀なのは髪の虱を取つて居る図があつて其戒に手をくびられてひつくりかへつて苦るしんで居る人がかいてある 此の世で虱を取つて先きの世でこんな目ニ逢つちやたまらない 墓は一壇高い所ニ築いて有る 風りんを伏せたやうな形のもので白く塗つてある 此の墓には釈迦の歯が入れてあると云ふ事だ 僧も一二人居たが僧といふより堂守といふものらしい つまり此の墓所は信仰の為めニ出来たといふより外国人を引く為めニこしらへたものらしい 此の寺は往来より横ニ一寸入り込む処だが其入口で馬車より下ると直ニ児供や大人まじりの乞食体のものがたかつて金を替へてやらうとか又花を買へとか綿の実をかへとか又平たく金をくれと云て付てくる 実ニうるさい だが其ついて来る乞食は主ニ十一二位の男や女の児供でかつたい坊のやうなものなどが居ない丈ハ仕合せだ ホテルに帰つてめしを食ふ前ニ飯塚氏と二人で雑貨店などを少し冷かし食後に七人連で馬車で少しく市中をかけ廻つたが一向つまらなかつた 十時に又会社の小蒸気で船に帰つた 今日北京の変を聞たが果して此の電報が真で有つたとすれば之れが導火線に為つて我国が充分の利益を得ん事を企望するので先づ其前祝と皆で盃ヲ拳げて万歳を唱へた 十二時ニ運転が始まつて一時過ニ港の外へ出た 波止場をはなるゝや否船がゆれはじめた

1900(明治33) 年6月17日

 六月十七日 (欧洲出張日記) 今日は船のゆれ方が昨日より強い 又夕立の来る事が昨日より度々で雨の量も昨日の比でない 雨風はつよく船はゆれるから丸で地震と嵐と一緒に来たやうだと飯塚君が云た 地震と嵐丈のことならまだいゝが其上ニ体の具合が丁度熱病でもやつて居る様だからたまらない

1900(明治33) 年6月18日

 六月十八日 (欧洲出張日記) 今日も雨風だ 甲板の散歩場は布で包み回ハしては有るがびしょぬれだ 昨夜も少し雷が鳴つたが今日十二時頃に非常ニ大きいのが二三度鳴つた 午後ハ夕立の数も少なく為つて海も少しハ静ニ為つた

1900(明治33) 年6月19日

 六月十九日 (欧洲出張日記) 今日は雲は多いが天気はいゝ 二三日雨でじめじめして居た処だから日が出て一寸いゝ心地だ 風は絶へず有るから甲板の上はさほど暑くない 今日はセイロン島とスコトラ島との半分途位の処だ 夜十二時過まで甲板の長椅子ニ寝ころんで居て見慣れない星などの南の方ニ一杯出て居る空をながめたりして日本はもう今頃は夜の明け方だらうかなどと云ふ事など考たりした アヽ先づ今日などはいくらか気分のはつきりして居る方だ

1900(明治33) 年6月20日

 六月二十日 (欧洲出張日記) 今日も天気はいゝが風は中々強い 其為めか波も中々高い 今日通る辺は海の深さは四千五六百メートルだ 先づ今迄の内では今日が一番船がゆれる 晩めしの時などは皿を手ニ持て居てソツプを吸ふやうな次第であつた

1900(明治33) 年6月21日

 六月二十一日 (欧洲出張日記) 朝の内は船のゆれが昨日ニかわらない 十二時頃に漸くスコトラ島の北に来た 此のスコトラ島は中々大きなもので又かなり高い頭のぎざぎざに切れた岩山が見える 白い砂が谷間から海岸へ流れ出したやうな処も二ケ処程見えた 此の島にはアロエスと云ふ木が少し有る計で其他の樹木ハ何もない 島中には三四百人位づゝのアラビヤ人の村落が有るそうだ 此処ニ来てから海が少しく静ニ為つた 昨夜サイゴンから乗つた一人の病人が死んだので今晩六時ニ水葬をやつた 棺をドブンとしづめてそれでお仕舞だ 終日風が有つて少しも暑いと思ハない 部屋の中ハ暑いやらくさいやらで安眠は出来ない

1900(明治33) 年6月22日

 六月二十二日 (欧洲出張日記) 亜弗利加の北の角のガルダフユヰの岬を廻つたと見えて五六時頃から海が非常ニ静ニ為つた 其代りニ暑さが加つた 午後ニは寒暖計が摂氏の三十四度ニ昇つた 華氏の九十三度余だ 今日は所謂アデン湾といふ処を通つて居るのだ

1900(明治33) 年6月23日

 六月二十三日 (欧洲出張日記) 天気快晴 海も至而静なり 午前十一時半頃から右手にボツボツ岡が見え始めた 是れが亜弗利加の北岸ヂブーチ港の入口ナルオボツク地方が見えるのだ 海の色はあいでかもめが多い 一時頃に左手の水際に極平たく白つちやけた陸が出て来た 今日は中々あつい 船の上で摂氏三十六度五分 華氏の九十七度余に為つた 陸上の暑さハ思ひやられる 午後二時少し過ニヂブーチニ着いた 余り暑いのと町がいかニも下らないと云ふので日本人は一同上陸を見合せた ヂブーチは仏国領で石炭置場の様な処だ 木も草も無い焼け地の実にいやな処だ 何ニしろ水気のない処だから木の育つ気遣がない 仏人が他国から持て来て植えて楽しんで居る木がヂブーチ中に七本丈だそうだ サラジーも此処で石炭を積み込で午後の九時に出帆した ヂブーチの近辺で水の色は緑色の薄いのだ そうして遠山の色は桃色がゝつて居て中々色はいゝ 又水に飛込で銭を貰ふ黒坊の色と水の色などハ非常に面白い 今日は少しく頭が痛いから折角いゝ色のものを見ても愉快に感ずる事が少ない 尤も頭が痛くなかつたならつまらない処と聞ても上陸して見るのだつたけれどもマアマア用心して船にじつとして居た 残つて居たのはいゝが少し風の有る方へ行くと船へ積込で居る石炭の粉で真黒に為る そうだと云て風のない方へ行けば目がくらむやうに暑かつたので一時は大ニ閉口した 晩めし頃から頭がよく為つた 夜ハ甲板の椅子の上ニねこんで岡崎氏の経歴談をきゝ一時半頃に部屋に這入る

1900(明治33) 年6月24日

 六月二十四日 (欧洲出張日記) 晴天だ 今日は所謂紅海を通つて居る 寒暖計は摂氏の三十五度 時々焼土の島を見かけた かもめはいくらも船に付て飛で居る 其声は丸で赤子か猫がなくやうだ 海の平かなる事は池の水に更ハらない 風はなまぬくいが断へず少しづゝ吹て居る 三十五度でもさ程には思ハない 三十五度は華氏の九十五度位だ 処が今日は夜に為つて却て暑いやうだ 佐藤 青山 岡崎の三氏とかるたをやつて仕舞つて丁度十一時に寒暖計を見ニ行つたら三十二度に為つて居る さすがに熱帯だ

1900(明治33) 年6月25日

 六月二十五日 (欧洲出張日記) 先月の今日日本を立つたのだが考れバ随分長い道中だ 今日も寒暖計は三十五度だ 明日船でお祝をやると云ふ事で其祝の番附の表紙の画をオレにかいてくれと云ふので午後其画をかいた 又先日水葬された男の遺族へ贈る為めに寄附金を募つて居たから夫れに日本人一同で加入を申込で一人で十仏づゝ出した 夜青山 佐藤 岡崎の三氏と共に二十一をやつて十一時まで遊んだ ヂブーチからついて来た鳥が今日は全く見えなく為つた

1900(明治33) 年6月26日

 六月二十六日 (欧洲出張日記) 午後二時頃から船員の肖像をかく 此の男は大層画好で自分でも少しなすくるのだが中々得意なのだ 先日からオレにかいてくれと云て居たからとうとう今日始めた 四時半頃ニ一と通り出来て額に入れて窓の上につるそうとしたらくぎがぬけて其男の頭の上に落ちて画は半分消えて仕舞つた 夜食後は祝宴で大騒ぎ オレは十一時過ニ寝床に這入つた 今日の午後は寒暖計が三十二度だつた

1900(明治33) 年6月27日

 六月二十七日 (欧洲出張日記) 昨夜は珍らしく汗をかゝなかつた 昨夜は一時半頃まで皆をどりをやつたそうだ こう云遊ニなるとどうも夷人のお附合は出来ない 今朝六時頃ニ起て見ると窓から陸が見える アヽもう大分スエズに近寄つて来た 八時頃から左右に陸がずうつと並んで出て来た なんでも此の辺が話ニ有る Passage de la Mer Rouge と云処だそうだ 今朝は寒暖計が二十八度に下つて居る 又風が有つて涼しい 風の為に波は可也立つて居るが船は一向ゆれない 午後八時頃に船がスエズに着いた スエズの港の日入後の空の色は誠ニきれいだつた 地平線の上は薄赤いやうな霞がかゝつて其上は少し黄葉むだやうなすき透つた色でそれから次第次第に青に黄色と赤と入れたやうな至極おとなしい色でそうして其中に明るい星が光つて居た 此のスエズといふ処はミラージユといふものゝ多い処だと云ふ事だ ミラージユは我国の蜃気楼の事だ 空中に町の姿が出現するのだ 此のサラジーの運転手の一人の話ニ或る時空中に異なものが有ると思つてよくよく見たら汽船が波を切つて進んで来るのが例の如く空に写つて居るのだつたそうだ 支那の暴徒一件が益はげしく為つて北京ニ於ける英 米 白の三公使館の外は皆焼け失せ公使の行衛ハ分らず太姑の砲台ハ日 露 英等の為ニ占領されたと云ふ事をきいた

1900(明治33) 年6月28日

 六月二十八日 (欧洲出張日記) スエズ港で浮ながら一夜を明かした 朝五時頃に同質の仏人のぢゞいが起て行くので目が覚めた 又つるつるして居ると六時頃に検疫医が来たから甲板ニ出ろと云てボーイが起しニ来たから仕度をして甲板ニ出た 此の検疫と云ふのは只乗客の頭数をしらべる位の事だが中々手間が取れて吾れ吾れが調らべられた時ハ八時頃ニ為つた 色々な物売がやつて来たからスエズの写真だの又古銭などを少し買た 此の地の海の色や山の色などは朝の内も中々面白い 山は赤つちやらけたやうで水は七宝焼の浅黄色だ 昨日アラビヤと亜弗利加の陸を左右に見て通る時アラビヤの山々に日の当つて居るのを見て或る同行の人が雪の山に夕日が当つて居るやうだと云つたが成る程至極尤だ 此の辺の禿山を日中に見れバ日本の雪山の日に照らされているのを見るやうな感がする 午前九時頃に出帆して堀割の中に這入つた 今朝は寒暖計が摂氏の二十五度位で大層すゞしかつたが堀割に這入つて段々進むに随つて暑く為り真昼間はとうとう三十六度まで上つた 華氏の九十六度八分だから暑い筈だ 十七年に此処を通つた時と今と両岸の様子は左程変つた処は無いやうだが其時までは夜は船を進めなかつた為二日かゝつて此の堀割を通り抜けたが此の頃は船のへ先に大きな電灯をつけて夜でも進行する事が出来る 尤も以前は船室など只の油の灯であつたがそれが盡く電灯に為つて仕舞つた 十時半頃ニ寝床ニ這入つて仕舞つた処がいかりをおろす音で目が覚めた 時計を見ると一時前ニ為つて居る 今ポルトサイドに着たものと見える

1900(明治33) 年6月29日

 六月二十九日 (欧洲出張日記) 昨夜は蚊が居たのと夜中石炭の積み込みでがたがたやるのでゆつくり眠る事が出来なかつた 四時頃に船が動き出したやうだからポルトサイドを一と目も見ないで立つのも残念だと思ひいそいでヅボンをはき上着を引かけて甲板ニ出た そうするともうポルトサイドははるかに為つて高い塔や町の全体が殆んど平たく空に切り抜画のやうに為つて居るのを見た 此の時ニ寒暖計を見たら二十一度であつたが午後ニ為つては三十度まで昇つた 今日は向ふ風で夕方から夜へかけては随分船がゆれた ポルトサイドを出てから陸は少しも見えない

1900(明治33) 年6月30日

 六月三十日 (欧洲出張日記) 八時一寸過ニ甲板ニ出たら右手ニ至極はるかにカンヂ Candie 島が見えた 此の島は古のクレトといふた処で二三年前に宗徒の争から希と土と戦争をしたのなどは即ち此の島で始まつた事だ 段々近く為つて十一時過ニは大層島ニ近づいて終日此の島を右にして進んだ 望遠鏡で見る 処々に人家などのある処も有る 人家は丸で角な石がならべて有るやうで墓場を望むやうだ 森林のやうなものは一つも見えない 山は云ハヾ禿山で小さな木が有る丈だ 山の上には処々に少しづゝ雪が残つて居る 此んなあつい処の焼け土の山におまけに今頃に雪とは少し不思議に思つた 猟船が一つも見えない所を以て見ると此の島の者は牧畜位で食つて居るものか知らん 今日は終日海は至極静だ 風も余程つめたく為つたから今日から白い服をやめにした 寒暖計は二十八度まで上つた(八十二度四分) 午後三時過から二時間計かゝつて船の三等運転手のヴイダル Vidal の肖像をなすくつてやつた 先日一寸かいたのだ わるくなつたから今日それを直してやつた 夜恒藤 佐藤 青山の三氏と少しく二十一をやつて遊んだ 地中海の海の色は非常ニ青いと云ふ事だが此の前ニ通る時はそんな事には気が附かなかつたから今度は気をつけて見る 処が余り青いと云ふ程でもない 先づ昨日今日の処では日本の南海の色と同じやうだ 空の色も日本東京近辺の空合と変らないやうだ 今日夕暮の空をながめると四日五日かと思ふ位の月が出て居た 月と云ふものは妙に人に遠方や過去の事を思ひ出させる

1900(明治33) 年7月1日

 七月一日 (欧洲出張日記) 今日も天気はよく静かな日であつた 寒暖計は昼間が二十七八度夜は二十四五度位で中々涼しく為つた 終日陸を見ないで夕方ニ為つて晩めしがすんで甲板に出るとシシリー島が見えた 伊太利の方は雲ニかくれて見えず 此の頃から風が少し強く為り波の音も高く為つた メツシーヌ海峡の流に向つたものと察せられる 夜十一時から十二時へかけて大陸と島との間を通りぬけた 右ニレツヂオ左にメツシーヌの市街の沢山のあかりを見た 暗夜の事だから只ポツポツあるあかり丈で市街の形は見えなかつた 此の海峡に入る前ニ大きな灯明台と覚しきものが見えたが段々近づくニ随ひあつちこつちにこんなあかりが幾個も出て来た よくよく見ると軍艦だ 伊国の艦隊が演習でもやつて居る処か何かであつた 此の暗夜の此の多数の軍艦の中を通り抜けるのは生命をなげうつて大変な危険をおかして居るやうな具合で甚だ愉快であつた 先日より支那の一件が気に為つて居る最中これに砲声さへ加ハれバ丸で海戦だ

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