本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年5月25日

 五月二十五日 晴 (欧洲出張日記) 朝五時半頃ニ起きて仕度を為し氏神様を拝み六時少し過ニ内を出て新橋へ行く 送る者は佐野 菊地 中村 矢崎 中澤 篠塚也 安藤ハ神戸まで一緒ニ行くとて昨夜荷物を持て来て今朝亦来て一緒ニ立つ 新橋にハ磯谷 白瀧 湯浅 小林 安斎 伊藤 長原其ほかに時事の堀井卯之助君及び美術学校の生徒某が一人来て居た 長原君ハ昨夜中村 菊地の二氏と内にとまつたが何か用が有つて今朝吾れ吾れの出る前に何処かへ廻つて来ると云て出かけ停車場で再び一緒ニ為つた 六時五十分新橋発の気車ニ乗る 篠塚 堀井及生徒某にハ此処で別れた 今度同船で仏蘭西へ行く人達で此の同じ気車ニ乗る人が有る それハ農商務の商品陳列所長の佐藤顕理君だ 日本美術院の岡崎雪声氏も此の気車で立つ だから停車場ハ見送り人で一杯だ 吾れ吾れはこそこそと赤切符で乗り込だ 横浜に着いて一寸六橋桜に立ち寄り安藤の乗船切符等の事を頼み直ニ船へ行く 横浜の西洋人で国へ帰る者の見送人や又佐藤 岡崎其他の渡航者の見送人で桟橋ハ勿論船中ハせき合ふ程にぎやかだつた 九時ニ船が動き始めた 見送りの十二人は桟橋の上に立つて居つてハンケチを杖の先ニ付けて振つたりなんかして居たが段々小さく為つて誰れが誰れだかよく分らなく為つて来た 此の時にハ向ふからも此方の形も知れなく為つたと見えて十二人の一と塊りが散り始めた 兎ニ角安藤が一緒だから皆ニ別れても心細い様な感ハ起らない 此の船は仏国のメサジユリー・マリチーム会社のサラジーと云船だ 吾れ吾れハ中等ニ乗つた 同船の日本人ハ上等ニ佐藤氏始め四名計り 中等ニは吾れ吾れ二人と岡崎氏のほかに三人 尤も二人ハ女だ 此の女供ハ綿羊的で西貢迄行くものだそうだ 中等の室ハ一室ニ四人づゝ這入るのだ オレハ岡崎氏等と三人同室する事に為つたが今ハ全体乗客が少ないから多く為つたら又元へ帰ると云約束で部屋を替えて貰ひ安藤と二人で一室を占領する事ニして貰つた 食事ハ一日ニ五回だ 第一は茶か珈琲かシヨコラで六時より八時の間に食ふ 第二は十時で本当の昼めしだ 第三は一時でソツプの外に冷肉にチイス位 又ソツプがいやなら茶でも飲ませる 第四が六時でこれハ夜食だ 之れが一番念入りの食事だ 第五が九時で茶にビスケツト位のところだ 海が静な上ニ安藤と一緒だから雑談など云てのんきに暮らす 夜遠州灘でも思ひの外静でよかつた

1900(明治33) 年5月26日

 五月二十六日 (欧洲出張日記) 朝九時頃に神戸に着いた 京都の堀江君からの電信を受取つた 直ニ上陸して内と堀江とに電信をかけた 日野敬全氏が安藤の迎ひかたがたオレの別れにわざわざ京都から来た 三人連で元町を散歩し買物など済ませ夫れから日野氏の指図で天王と云ふ所ニ行た 天王と云ふ処ハ湊川の上の山の麓で温泉が有り連込用の茶屋が沢山有る 三川屋といふのを撰んで這入つた 先づ湯かたに被更えて風呂ニ行く 風呂は何か鉱泉で少し臭い 三川屋の直く下に小さな家が有つてお宮の拝殿の様な姿の建物が見ゆる それが湯やだ 湯壺は美麗で深い 胸の辺まで湯がある 湯から出て食物を命じ又芸者を二人呼びニやつた 芸者は柳原と云ふ処から出張するのだそうだ 三四時頃ニ為つて芸者が来た 地ふた(上り下り)といふものをひいてきかしたが静な調子で中々面白いものだ それから大あばれニあばれて七時頃まで居た 安藤と日野が船まで送つて来た 又餞別ニ二人から葉巻煙草を百本呉れた 船で仏蘭西の麦酒を御馳走してお土産ニ仏蘭西煙草を日野氏ニ贈つた 九時半ニ二人ニ別れた 正十二時ニ船が出た

1900(明治33) 年5月27日

 五月二十七日 (欧洲出張日記) 朝から雨で瀬戸内のいゝ景色は一切見えない 四時頃ニ赤間ケ関の前ニ来た フアーブル・ブラント氏が御維新前の話などしてあすこに長州の陣の有つた処だなどと指示してくれた 白い幕ニ黒い丸をかいて外人ニ大砲と見せる積でやつて居つたなどハ随分可笑い話だ 夜の入らぬ内ニ瀬戸を通り抜けて仕舞つた 今日は雨の上ニ風も少しあるから玄海でハかなりゆれるだらうと思ふ 今晩の食事ニはエイマールの兄弟の頭の者が一人とオレと二人切りだ

1900(明治33) 年5月28日

 五月二十八日 (欧洲出張日記) 玄海も思ひの外静であつた 今朝三時に船が止まつたので目がさめた 窓からのぞいて見ると陸が近く見える 長崎港の入口ニついたのだ 又寝床ニ這入つて六時頃に再び起きた 長崎港ハ今朝の九時ニ出帆だといふので上陸する暇がない 内と鹿児島とへ出す端書を書いて三井物産の人ニ頼で出す 其内ニ三井物産の小汽船が有るから一寸町へ行て見様かと云話が起り佐藤 岡崎 飯塚の三氏と上陸 皆一寸した買物を為し又オレハ内へ安着の電信かけた 船へ帰つてから安藤へやる手紙をかき三井物産の人ニ頼で出した 三井の人ハつまり佐藤氏の為めニ来たものと見える 今日ハ午前の内ハいゝ天気だつたが午後曇て来た 又沖ニ出るニしたがつてうなりがつよく為つて四時頃ニハ船が随分つよく横にゆれた 今晩の食事にハエイマールと岡崎氏と長崎から乗つた希臘人だと云ふ奴とオレと四人丈だつた

1900(明治33) 年5月29日

 五月二十九日 (欧洲出張日記) 今日ハ曇だ 朝六時半ニ起き風呂などニ這入つた 海ハ至極穏かで病人も段々よく為つて甲板ニ出て来た 午前十一時前頃から支那の猟船がぼつぼつ見えはじめ又海の色が一変して黄色を帯て来た 之れハ揚子江の入口の印だそうだ 又右と左に小さな島が遠くに見えた 二時頃ニ為つて左右ニ条を引た様な陸が現れた 即ち吾れ吾れの船は揚子江の川口ニ這入つたのだ 水の色は全くどろ色だ 雪どけか又は嵐のあつた時の川水の色だ 之れハ今日ニ限つてこんなのではなくいつでもこういう色だそうだ 検疫の為めニ一時船をとめ英人の医者が小蒸気でやつて来て船員船客の頭数を調べた これが四時頃でこれから又船を少し進めて錨を下した メサジユリー会社から小蒸気をよこして皆其船に乗り移つた 此の時ハ五時頃だつた 丁度二時間計川をさかのぼつて上海に着いた〔図 写生帳より〕 吾れ吾れ日本人一同東和洋行の番頭に案内されて人力車で其宿屋に行た 此の東和洋行といふのハ日本人がやつて居る宿屋で下女なども日本人だ 下女は今六人居るそうだが皆日本服だ 此の家の主人が佐賀人だそうで雇人も大抵同国者のやうだ 日本語の分る支那人も一人居る 直ニ案内者ニ連れられて人力車を五台連ねて支那料理に出かけた 泰和館とか云ふ家だ 一とテーブルで六円と云料理を云ひつけて食た 兎ても五人でハ食ひきれない 燕の巣といふものなどを始めて食つた 此の料理屋は一寸大きな家だ 先づ此の地屈指のものだそうだ 這入て突き当りに座花酔月といふ時が書いて有る 座敷と云のは二階だ 往来の側に一と部屋一と部屋にしきりがしてあり部座と部座との間は硝子障子の様なものだから隣は無論のぞける 一体に実ニきたならしいが芸者などをよぶのは矢張こう云ふ処で呼ぶのだそうだ 此処を出て四馬路の寄の様な処ニ這入つた 栄華富貴楼といふ処だそうだ 舞台の左右に扇子形の額がかけてあつて栄華富貴とかいてあり又正面ニハ横長の額が有つて響過行雲とかいて有る〔図 写生帳より〕 此処ハ一人前四十銭だ やかましい音楽をして其節ニ合ハして歌ふのだが芸人ハ皆若い女だ 其女を自分の机の処ニ呼ぶ事が出来るのだそうだ 此処ニ這入つて腰をかけると銘々にお茶を出した 又コツプ形の白い茶碗に紅茶のやうなものを入れて出し舞台の芸人の前にも此のコツプ形の白い茶碗がならべてある 此の辺のにぎやかさは実に想像外だ こんな見世物の中ニも人が多いが往来も一杯の人だ ぶらぶらして居る人の中を大いそぎで籠ニ乗て通る女が有る これハ芸者がお座敷に出る処だそうだ 籠の先にハ提灯をつけた人足が走つて行く 此処を散歩して居るものハ大抵皆支那人で西洋人ハ殆んど見えない 今這入つた寄の前に大きな珈琲屋の様なものが有る 此の家ハ客が一杯だ 又縦覧随意といふやうな風で出る人入る人がせき合つて居る位だ 中ニハ一つの机に二三人四五人づゝ居つて女ニ雑談などして居る 女ハ女郎の様なもので云ハバ遣手婆と云ふ種類の老婆が若いのに附て居て客を引く 若い女ハ十五六とも見ゆる位のが沢山居た 驚く程の美人といふべき奴ハ見えなかつたが其代こんな奴がといふ程の醜婦も居なかつた 此処ハ即ち春江評花処といふ家だ 亜片を飲む部屋ニハあやしげな目付をした男がいくらもごろごろして居て見て歩いて居る人にハ一向気もつかないで一生懸命ニ吸ひつけて居る 亜片ハ必ず寝ながら吸ふものと極まつて居ると見え椅子の大きな様なものがあつて其椅子の中央部に朱檀の盆の様なものがはまつて居る 即ち其盆の上に亜片の道具を置き其両側に寝ころんで亜片を吸ふのだ 此の亜片をのむ処ハ一種不思議な臭がする 此の四馬路 五馬路といふ所は東京で云へバ新橋とか吉原とかと云ふやうな処で色町だそうだ 古道具屋を冷かし夫れから西洋料理屋ニ行てラムネを飲だ 古道具屋ハ中々懸値を云ふ 先づ一円五十銭とゆふたものなら五十銭位にハまける 西洋料理屋ニハ机の上に硯と紙と備へてある 其紙にハ活字で老爺……勿遅と書いたものが何だと聞たら芸者を呼びニやる札だそうだ 其札の中ニ自分の呼びたいと思ふ女の名を書き入るれバ使の者が持つて行くのだそうだ 又此の料理屋ニ芸者の名のかいてある帳面が有つた 此地ハ遊ぶ方の事ハ中々開けて居るらしい 芸者を呼ニやる札ハ桃色の西洋紙にして老爺叫の下に女の名をおき第と号の間ニ部屋の番号を入れて送るのだそうだ 中々便利な仕方だ 芸者で尤も有名なのは(原文数字空白)と云ふのだそうだ 支那でハ芸者の事ヲ何々先生と呼び芸者屋の事ヲ何々書屋と云ふそうだ どうしても支那ハ文字の国だナ 此の西洋料理を出て帰りがけニ広東女の居る家を一寸見る 至て下等なものらしい 様子なども之れぞと云て面白い点がない —- 老爺叫 至四馬路東首一品香 第  号房内侍酒速 速勿遅—-

1900(明治33) 年5月30日

 五月三十日 (欧洲出張日記) 中々今日は暑い 佐藤 岡崎 飯塚の四人連で馬車を雇ひこの東和洋行ニ居る日本語の分る支那人を案内ニ連れて市中見物ニ出かけた 愚園 張園などを見る いづれも支那の金満家がこしらへた遊び場処で人の縦覧を許すのだ 愚園の方ハ入場料が一人前十銭だ 支那風の楼閣が出来て居て其中をあつちこつちと通る様ニ為つて居る 廊下や建物の周囲に大胡不流の岩がセメント固メデ出来て又建物は中ニ蓮池を取り囲でどうしても唐詩選中の或るものを形ニした様だ 蓮ハ未だ花ハない 漸く新しい葉が少し許出た処だ 張園の方ハ丸で趣が異つて居る 此の方ハ欧洲風だ 三つ許離れ離れの建物が有るが重なものは集会所ニ使ふ為めのものか椅子や机が沢山列べてある 之れに附属して西洋料理屋が有る 此の部分ハ西洋人がやつて居るのだそうだ 此の洋風の張園に不似合なものは支那の人相見が一人園中の奥の家ニ居る事だ 支那で人相を見て貰ふも亦一興と忽ち二十銭憤発スル事と為つた 其処で案内に連れて行た支那人が筆を採つて人相見の爺が云ふ事を記した  尊相骨格清高今歳僅交眼運部目像鳳形三停相配六府相匂五官端正乃是富貴相局眼生威厳可惜鼻太低以致富厚貴子息先女後子為寉寿元古稀有余子ト三人団円福寿双全 在上海張園内 清国醒世道人評 光緒二十六年夏月 東和洋行華人代筆 昼飯はホテルデコロニーといふ仏国風の宿屋でやらかし後買物などして午後五時半頃MM会社の小蒸汽にて本船へ帰つた

1900(明治33) 年5月31日

 五月三十一日 (欧洲出張日記) 今日もいやな暑さだ おまけに昨日あついのニ上海を見物して歩いた結果の例の持病の頭痛が始まつた 船の看護人に云て氷を貰つて頭を冷した 又看護人がレモン水や熱さましの薬なと持て来て呉れた 昼めしハ食ハず ソツプ丈部屋で飲で寝て居た 早く用心したから早く気持がよく為り晩めし時ニハ平常の通に為つた 午前十一時ニ出帆した

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