1900(明治33) 年6月15日


 六月十五日 (欧洲出張日記)
 午後一時にコロンボニ着いた 日本語の一寸分る土人の案内者が来た 先づ其者を連れて会社の小汽船で上陸 直ニオリヤンタルホテルといふのに行き水など飲んで少しく休息した 此の時去る十三日に日本の公使館員が北京で暗殺されて軍艦派遣などの事が始まつたと云事を聞た 本当の事なら一大事だ 馬車を二台雇ひ恒藤 青山 鴨下 佐藤 飯塚 岡崎の三氏と七人連で釈迦の墓を見ニ行た 港から此の墓までは七マイル有るといふ事だ なる程中々遠いがしかし途中は海岸の波の盛に打ちかける我七里が浜に立派な道路をつけたやうな処や又木立の中に別荘の有るやうな処を通つて行くのだから余り体屈しない 夫れに此の地の気候はサイゴンなどのやうなむしあついのでないから心地もわるくない 只閉口なのは馬車のあとからうるさく児供がかけて来てハングリ ボイ マスタといふて腹をさすつて金をねだるのだ ハングリ ボイ マスタは印度語かと思つて聞てゐたがそうぢやなかつた 英語の Hungry boy master といふ事をいふのであつた 何ニしろ此の地のものは大抵乞食根性が有るやうだ 釈迦の墓所には寺と墓と有る 又入口に井戸のやうなものが有る 神水だそうだ 皆古い建物とハ見えない 就中お寺は極く新らしく造つたものらしい 小さい堂で中ニ石で造たと云ふ黄ろく塗つた寝て居る釈迦の像が有つて廻りの壁には一杯まづい絵がかいてある 戒めのやうな絵らしい 此の世でうそをつくものは先きの世で鬼から舌をぬかれるといふやうな種類で此の世に在る時の姿と先きの世のところと二た通りづゝかいてある 鬼などハ日本の絵の鬼と大同小異だ 是等の絵の内で戒めとして尤も不思儀なのは髪の虱を取つて居る図があつて其戒に手をくびられてひつくりかへつて苦るしんで居る人がかいてある 此の世で虱を取つて先きの世でこんな目ニ逢つちやたまらない 墓は一壇高い所ニ築いて有る 風りんを伏せたやうな形のもので白く塗つてある 此の墓には釈迦の歯が入れてあると云ふ事だ 僧も一二人居たが僧といふより堂守といふものらしい つまり此の墓所は信仰の為めニ出来たといふより外国人を引く為めニこしらへたものらしい
 此の寺は往来より横ニ一寸入り込む処だが其入口で馬車より下ると直ニ児供や大人まじりの乞食体のものがたかつて金を替へてやらうとか又花を買へとか綿の実をかへとか又平たく金をくれと云て付てくる 実ニうるさい だが其ついて来る乞食は主ニ十一二位の男や女の児供でかつたい坊のやうなものなどが居ない丈ハ仕合せだ
 ホテルに帰つてめしを食ふ前ニ飯塚氏と二人で雑貨店などを少し冷かし食後に七人連で馬車で少しく市中をかけ廻つたが一向つまらなかつた 十時に又会社の小蒸気で船に帰つた 今日北京の変を聞たが果して此の電報が真で有つたとすれば之れが導火線に為つて我国が充分の利益を得ん事を企望するので先づ其前祝と皆で盃ヲ拳げて万歳を唱へた 十二時ニ運転が始まつて一時過ニ港の外へ出た 波止場をはなるゝや否船がゆれはじめた