本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年7月1日

 七月一日 (欧洲出張日記) 今日も天気はよく静かな日であつた 寒暖計は昼間が二十七八度夜は二十四五度位で中々涼しく為つた 終日陸を見ないで夕方ニ為つて晩めしがすんで甲板に出るとシシリー島が見えた 伊太利の方は雲ニかくれて見えず 此の頃から風が少し強く為り波の音も高く為つた メツシーヌ海峡の流に向つたものと察せられる 夜十一時から十二時へかけて大陸と島との間を通りぬけた 右ニレツヂオ左にメツシーヌの市街の沢山のあかりを見た 暗夜の事だから只ポツポツあるあかり丈で市街の形は見えなかつた 此の海峡に入る前ニ大きな灯明台と覚しきものが見えたが段々近づくニ随ひあつちこつちにこんなあかりが幾個も出て来た よくよく見ると軍艦だ 伊国の艦隊が演習でもやつて居る処か何かであつた 此の暗夜の此の多数の軍艦の中を通り抜けるのは生命をなげうつて大変な危険をおかして居るやうな具合で甚だ愉快であつた 先日より支那の一件が気に為つて居る最中これに砲声さへ加ハれバ丸で海戦だ

1900(明治33) 年7月2日

 七月二日 (欧洲出張日記) 今日はコルシカ島の方角へ向つて進む 今の様子ではコルシカ島の脇ニ行くのは多分今夜の十二時以後だらう 午後一時頃に寒暖計は二十七度の少し上に為つて居た 華氏の八十度一寸上だ 海は青白く至而平だ アヽもう今日明日でいよいよ仏国ニ着く事と為つたが気持の上からは一向に平気だ 五六年前に仏国から帰りたてにあれ程に再び行き度いと思つた其仏国ニ近づいたとは更ニ思ハれない 此の事は吾れながら不思議ニ思ふ 同じ処を見ても同じ事ニ出逢つても人と云ふものは只其境遇でよくも悪しくも思ふものだ 五六年前には日本へ帰りたてゞ総ての事が気ニくハず夫れに今少しせめて三四年丈でも修業して立派な者ニ為りたいものだと云考が有つたもんだから再び行き度いという念が火の燃えるやうにさかんであつた ところが色々な事で時が立つて仕舞ひ今日でハ日本の方でする仕事も段々出来てくる それに修業の為め又三四年も行くと云ふ事ハ兎ても叶ハぬ願と知り望といふ事ニも限りをつけてあきらめなけれバならぬ次第と為つて来た 此の時ニ当つて或る限りある仕事丈の為めニ仏国へ行くのだから今では仏国ニ近づいても案外ニ冷淡であるのだらう 今日五時半頃ニ支那へ送る兵士を乗せた仏国政府の運送船二艘に行遇つたそうだが吾々は室に居たが為めに見なかつた 今度の一件ニ就て日本ではどんな騒をして居るか知らん 夜十二時頃にコルシカ島の海峡を通つた

1900(明治33) 年7月3日

 七月三日 (欧洲出張日記) 今日午後に馬耳塞に着くと云のだ 船客が皆被物など被更て甲板ニ出た 吾れ吾れも荷物の片附などした 十一時頃から雲の中に仏国の陸が見えて来たので皆其方に向て一生懸命に見て居る いつもの様に甲板を往たり来たり散歩して居る人が少ない 今日は日は当らないではないが雲の多い日で海はどろりと白つちやらけて居る 寒暖計は午後一時頃に二十四度(七十五度二分)で益涼しい方だ 二時前後から雨に為つて来て景色が丸で北海のやうだ 二時半過ぎに船がシヤトウヂフ島の前に繋つた これから検疫と云騒ぎでしばらく立つて医者殿が見え夫れから人数調が済んでよごれものゝ消毒荷物の検査など下らない事で非常ニ手間取り六時半ニ為つても誰れも上陸する事不叶 とうとう七時に今一度船で晩めしを食ハせる事と為つた めしを食て居る間に総ての検疫事務が済で船はマルセイユの港に這入つた 八時頃馬耳塞ニ着した 荷物の世話をする男を頼で荷を運バせたりなんかして税関の検査を済ませてグランドホテルといふのに落着いたのは十時過ニ為つたと思ふ 一夜七仏といふ一寸綺麗な部屋に這入る

1900(明治33) 年7月4日

 七月四日 (欧洲出張日記) 朝十時頃から谷口と云ふ案内ヲ連れ七人揃つて四台の馬車で見物ニ出かけロンシヤン ブレリの二博物館及びノートルダム・ド・ラ・ガルド寺を見物して七時少し過ぎ宿屋へ帰る 昼めしは海岸の Giroudy といふブイヤベス(avenue du onado)の上手な料理屋で食ひ夜食は宿屋でやつた 〔図 写生帳より〕

1900(明治33) 年7月5日

 七月五日 (欧洲出張日記) 今朝九時二十分の急行で青山 恒藤 鴨下 飯塚 岡崎の五氏が里昂へ立つ 此の諸氏を送つて停車場ニ行き夫れから名誉領事 Sérène 氏をを訪問したが不在で其代理人から紹介状を貰つて領事館員を案内に連れて美術学校を見ニ行く 幸校長が居て面会し又一寸コンクールの結果の判決をやりかけて居るから一緒に見ないかと云ふので其れを見た 大ニ利益した 昼めしニ宿屋に帰り二時半頃から又美術学校を見ニ行た 今度は各教場を見た 夕方散歩して居た時エイマール兄弟とフアルブルの娘達に出遇ひ彼の人達の泊つている Hôtel de Genève まで行て帰つた 町の一度分三仏といふめしやで一人でめしを食ひ 佐藤君と二人で町の中をあちこち散歩した とうとう仕舞に同船の人ニ二三人出遇つた 其内ニ舟万と云ふ名をつけた女とセンセン婆々といふ奴とにも出遇つた 舟万はとうとう舟の事務長の次の奴と連れに為つた センセンと佐野君とニ別れてオレは事務副長等と珈琲ニ腰をかけて麦酒などのんだ

1900(明治33) 年7月6日

 七月六日 (欧洲出張日記) 朝九時二十分の気車で立つ 同じ車にフアーブル兄弟が乗合せてリヨンマデ一緒ニ行た リヨンのステーシヨンに飯塚 岡崎の二氏が来ていた 夜の十時十分に巴里着 久米 小代 河北 和田 海野其他の人が出迎ニ来ていた 其内佐藤の為ニ来た人も多かつたから名を知らない人も見えた オレは(以下欠)

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