1904(明治37) 年7月27日 Wednesday 七月廿七日 晴 午後溜池に合田を尋ね、それから一緒に上野に自転車で行く。岩村の俸給を受取るためなり。今日は文部省から検査に来て大混雑であつた。又会計で岡田の差押一件を聞込む。校長も来て居て少時話す。三時半頃より帰路に就く。途中霊南坂上で杉竹に出会ひ久し振で立話をした。近日尋ねよふと約した。今朝京都浅井へ石膏事件答へる。 引用の際は、クレジットを明記ください。 例)「1904/07/27 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/871671.html(閲覧日 2025-04-28) 同日の「黒田清輝日記」より 七月二十七日 水 曇 むしあつし 御容体ハ終日宜シキ方ニ非ズ 夕刻小西氏来診 心臓最モ気遣ナル旨被申 此点ニ注意スル以上ハ先ヅ御回復ノ期モ遠カラザルノ理ナリ 今日ハ父上御出勤日ニテ正午御立寄リ御一緒ニ午餐ヲ喫セリ 一時頃小倉氏ノ妻君来訪 二時過ヨリ手紙書ヲナス 五時頃直綱来ル 点灯時吉井来リ例ノ侯爵訪問ノ件ニ付相談アリ 夜食後下山芳子殿来訪 九時頃井田女慰問ニ出掛ケントスル矢先キニ合田来ル 半時間許語リ後チ井田女ヲ訪フ 病気大ニヨシ 十一時頃帰宅 十二時就寝 (発信) 戦地ヘ向ケ下山ト吉田林ヘ各一通 宮崎ト藤枝ノ両氏ヘ暑中見舞ノ礼 鎌倉姉上様ヨリ御手紙到来セシニ付返書ヲ呈セリ (受信) 平岡キチ子殿ヨリ八郎君戦死ノ通知アリ 直チニ悔状ヲ発ス 乾ヨリ昨日相州三浦郡長井村ニ着シタル由ヲ知ラス 滞在予定一週間也ト云フ(七月二十七日 水 曇 むしあつし) « 七月廿六日 晴 七月廿八日 曇 »