1904(明治37) 年9月11日

今朝桂庵の婆稲毛生れの下女を連れて来る。頗る従順にてよさそうなり。午後佐野を尋ねたるに自転車を分解して手入れ中であつたから少々手伝つた。後共にこまを連れて新橋の橋善に夕食に出掛け銀座通りを京橋まで散歩す。

1904(明治37) 年9月12日

昨日目見へに来た下女三橋はやを取極める。月報の訳文をなす。午後小代来後中野礼四郎来訪一緒になる。四時頃に還つた。自転車前輪の修繕をなす。夜谷斎一来。

1904(明治37) 年9月13日

本日より東京美術学校の課業始まる。西洋考古学の生徒は頗る多数、緒言として審美上の綱領を一時間斗講ず。三時半帰宅。夜和田来訪展覧会書記の件を話す。平山成信君に再度白耳義行断りの書面を出す。

1904(明治37) 年9月14日

商業学校教員推薦ノ件吉田義静氏へ断りの手紙出す。午後美術学校解剖講義今日は第一回故総論丈でおしまひにした。夕方和田が会の書記をやろうといふ高林和静を紹介に来る。明日より会場に出張する様命じた。小泉翁来冠。佐野を呼びにやる。小父さんは遂に来なかつた。今夜はこま大敗森元優勢であつた。

1904(明治37) 年9月15日

昼から学校に出掛ける。谷の手にて解剖図出来上る。今日は解剖第二年骨盤筋及臀筋を講授す。帰りに会場五号館立寄る黄金亭で小林岡田小林鍾など集る。後中丸も来る。

1904(明治37) 年9月16日

今日は解剖及考古学追試験のため学校に出掛ける。十二時半より第二講義室にて行ふ。二時半終る。帰りに五号館に立寄り合田及岡田と電車にて帰る。夜風起り荒れ模様。

1904(明治37) 年9月17日

夜来の風未だ収らず南風にて蒸暑し。一日つまらなく暮した。夜食後敦老人三河台を伴ふて来り鳴戸鮨御持参は大得意の体であつたが撃退は至極御気の毒迷惑なるは小父三也。

1904(明治37) 年9月18日

昨日と違つて今日は上天気で一寸熱さが戻つた。前に高等商業学校の大仕事を控へて居るので一向落つかず今朝は風月堂の菓子を携へて永峯にお見舞に出掛けたるに父上は永田町へ出勤でお留守、小供相手に待つて居る気にもならぬ。立還つたが生憎な時には生憎な事があるもんで一日不得要領でうろついてしまつた。昼後は黒田からの手紙で松方を尋ねたが不在を喰つて三田四国町に廻りポンプの護謨を取換へた丈で終り夜食には三ツ星のコロッケを注文した処が生煮へで食はれず、食後は将に着物を換へて出ようとする際に田中お梅さんに攻撃されて引留められ漸く済んで磯谷の処に行けば留守と来てお負けに空合ひが怪し気になつたので久保町まで行つて引返した。こんな頓間な日暮しはないのだが人間は一生こんな風に不運に終る事もあるのだ。

1904(明治37) 年9月19日

朝八時より車で仙台坂の松方正作氏を尋ねた。今度は在宅で新築の洋館に案内された。展覧会の参考品に借用する画の事を頼む。諸室を案内されたが万事気持よく出来た家である。色々面白い画があるが飾り付を取りはづすのは迷惑らしいので唯二枚丈借りる事にした。後にはエスタンプの話になり其内に歌麿の名画を見せる事を約した。十時過に帰宅する。考古学の下見やら仏文典の通読やらで過した。夜黒田に返書出す。

1904(明治37) 年9月20日

今日美術学校に出掛けて高商兼任の辞令を受取る。帰りに展覧会に立寄つた。鑑査会というので会員大勢集つて居た。今年の鑑査は大分強硬で不合格三十余枚出来た。是が本当であろう。会場の準備はマダ不充分であつた。

1904(明治37) 年9月22日

朝八時に高商に出掛け二時間の授業始めをなし夫から上野に廻り展覧会の様子を見る。午後より開会と決す。学校の帰り木戸銭を集めて帰宅、夜小代竹沢佐野連中来。秋季皇霊祭の日暮し相談に及ぶ。夜半に大葛藤あり原因は下女に対する不平圧迫。

1904(明治37) 年9月23日

八時半に小泉来り小代を呼び打連れて佐野の処に立寄り十時に出る。公園より電車で本郷行、夫から原町竹沢を誘ひ西瓜の御馳走になる。正十二時五人連で竹沢の宅を出掛ける。裏通りを抜けて巣鴨に出で停車場で十二時半頃の汽車に乗り田端にて三十分余待ち一時半頃に赤羽にて下り渡船場に向ふ。前週の雨て荒川洪水畑も家も水浸り玉蜀黍の穂が水面に浮び二階口に小舟を繋いだ様子など珍らし。渡船は此間を掉さし大迂回をして向岸に渡たす。渡し銭五銭の値打は充分にある。河を渡れば川口町である。有名な鋳物屋の集りたる町なり。此町に入りたるは二時過で一同は大に飢を覚へたればやがて大通りに出で某川魚屋に飛込んだ。鯉に玉子に鳥丈しかないというので、玉子焼にさし身鳥鍋鯉こく等を誂へた。下女の奴等酌婦風にベタつく。鯉こく丈は甘く食つたが一人前八十銭の割り前には少々驚いた。最初の飯屋主義とは大分見当違ひであつた。併しそれで腹丈はシツカリとなつて右の料理屋を出たのは既に四時近くである。兎に角是から水の様子を見ながら千住まで歩こうといふので道のりを尋ねると三里だという。明るい内には大丈夫だと保証されて堤の上を歩き始めた。是が所謂荒川土手でやがて東京府管内にかゝれば両側に桜が植られて向嶋の通りである。土手には一面彼岸花が満開してそれが水がひたつて居る夕日の眺めは中々妙である。処々に村の者が網を持つて魚を取つて居る。余り沢山取つた者はなかつたが夜になれば中にはいるといふ事也。三里の土手道存外早くはかどり六時には千住の入り口に来た。分れ路の茶屋で梨子を喰ひ北千住停車場にいつて丁度六時三十分何分かの汽車に乗る事が出来た。東武鉄道中々ユツクリしたもんで両国まで一時間余を費し八時近くなり夜食には小泉案の青物町ときまつて居たが余り遅くなつたので竹沢案浜町の蕎麦屋と極つた。僅の処を電車に乗り日本橋倶楽部で下りた処の横丁に其家が漸く見当つた。吉田という家で成る程随分気取つた処で家も道具も総て粋を極めて居る。竹沢が自慢の揚けたての天プラはおしまひで残念だつたが、之に代りてカツレツそばというを試みる。鳥の油揚けで中々美味。盛籠は藪派である。色々喰つて飲んで割り前が二十五銭とは昼とは雲泥の相違である。食後に小泉老人は頻りに色気を催したが余り熱心なる賛成者はなく兎に角麻布の方に向ふ事になり神田廻りの電車に乗る。竹沢も一緒で芝の山門まで来たがもう十時過きたから遂に小泉の案は消滅し、松の木陰の共同椅子に腰掛けて暫らく話した後遂に解散、家に帰れば泊る積りで皆々休んで居た。押かけられでもしたら大迷惑な訳であつた。

1904(明治37) 年9月24日

一ツ橋は昨日手紙で断つたから今日は休み午後は早目に入浴、二時半過より上野に出掛け学校で給金を受取り展覧会に立寄る。黒田も来て居た。五時より宝亭海野の祝宴に赴く。来会者は甚た少数であつた。七時前に済んで帰りは雨に逢ひ自転車はメチヤメチヤなり。七時半竹沢高下駄の出で立ちで来る。昨夜の約束を守つた訳なり。敦翁は珍らしく来らず、小代を迎へにやる。同人大厄難であつた。十二時過に終る。

1904(明治37) 年9月26日

電車にて朝八時に一ツ橋に出勤二時間の稽古をなす。今日が真の稽古始めである。学校より日本橋丁酉支店に廻り手形の書き換をなす。後鬼塚が二階にある雅邦の山水を見せた。彼是にて手間取り一時近くになり帰宅す。目黒の爺が来て居た。二時より天気になつたので目黒にお見舞に行く。よねは房州に帰り淋敷様子なり。父上より錯酸会社の話を聞く。雨樋修繕費を受取る。

1904(明治37) 年9月28日

一ツ橋学校に九時に出掛ける。今日追試験を行ふ為めに早く行つたのである。受験者は予科一人本科一年二人である。後一時間の講義を終りて直く様上野に走る。途中小川町で竹沢に邂逅し、今文の瓦斯牛屋で昼食をなして分れ美術学校に駈けつける。今日は当番であるが勝さんに願つて早目に帰宅した。夕方に松方正作来訪、今夜来ないかという事で支度をして七時半頃から仙台坂の邸に出掛る。和田を呼びにやつて九時頃に来る。師宣の花見の画は如何にも上出来であると思つた。十二時近くになり辞し帰つたが珈琲に浮かされて眠られぬには閉口した。

1904(明治37) 年9月29日

一ツ橋から上野に廻る。睡眠不充分で眼がパチパチして大に弱つた。展覧会の当番は中沢に頼んだ。夜珍らしく佐野がやつて来て小父さんを呼びにやつたが偶然高島大人も来り明後日の会食を約した。

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