1904(明治37) 年8月21日 今日は日曜で佐野は昼まで寝るといつて居た。十二時過小代来り品川海に涼みに行つてはどうだというので賛成し共に佐野を尋ねた。佐野は小供を連れ一同大門から電鉄に乗り高輪の柳屋から音さんといふ七十何歳の船頭が来てくれて、崩れ台場の造船所の前にかゝり泳いたり沙魚釣りやで過した。六時に一旦船宿に還り今度は吉の網船に乗る。岸近くのシビの周りに網を投し始めたるに一ト網毎に少なくも三四疋はひつかゝつて来る。其中日はくれて十一夜の月が雲間より光を漏らし涼気満袖一寸爽快である。七輪の火を起して獲物を煮て食し猶イナ、セイゴ沢山取れた。九時半より陸に向ひ肴を提げて十時半頃帰宅した。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月22日 午前は学校に出懸け考古学図の整理をなし昼比に帰宅す。夜食後杉竹を訪ふに不在。夫から黒田及合田を尋ねたが留守斗りで引還す。七時半頃小泉小代来り開場。小泉翁大敗して走る。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月24日 午前九時より一つ橋高等商業学校に至り松崎校長に面会し一ト通り提言を聴く。瑞西人の語学教師帰京之上万事相談するやう約す。午食後上野学校に至り俸給を受取り且校長事務を代理中なる高村に逢ひ商業学校の件を話す。帰り路に黒田の方に廻り夕方帰宅す。夜こま本郷に赴き下婢捜しの事を山口りせに依頼す。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月26日 一本松増田氏老母病気にて箱根より帰宅せし由昨日聞きたる故今朝見舞に行つた。全く冷気の為め一時の発病に過きざりしとの事。仙波の姉の事色々話す。伝言を頼んだ。午後小代来共に新橋辺まで靴を買ひに行く。序に老人を会社に訪ふ。アイスクの御馳走は痛み入つた。夕方今福会食を約す。夕五時半同処に出掛け佐野菊地もやつて来る。帰りには一同立寄りしが小泉老翁は面目愈揚らず意気銷沈の体也。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月27日 昨夜山口氏より端書にて下女があるとの通知に接し今朝急に昨年来島田より雇入れたクマというのを解雇せしめた。永峰より金次郎玉蜀黍を持参父上帰宅を報ず。一時過こまが前の下女を送つて帰ると間もなく山口りせ子が新下女を連れて来る。此間の処置は大に宜しきを得たのである。先づ安心し目黒に出掛けた。同所では皆無事。夜佐野を尋ね旅行の相談をなす。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月28日 こまを連れて十番に買物に行つた。小代に贈るべき祝ひの品なり。バツテイ出生の故なり。午後一時前より小代佐野が来て竹沢を待つも中々見へない。漸く二時半頃にやつて来た。最早時刻は遅し且竹沢は昨日房州の帰路無理をして尻が痛むというので迚も平塚まで輪行は出来ない相談となり何しろ少し斗ころがそうというので三時少し前に出発。高輪台町より御殿山を経て鮫洲に出で大森海辺の茶屋にて休息し、桃、梨子など食し、夫から又下走りで四時半川崎ステーションにて四十分余待ち五時過汽車に乗る。車中別段に変つた事もなく藤沢に六時四十分頃着、此処より再び乗輪平塚に向ふ。間もなく暗くなり燈光にて走る。竹沢臀痛を訴ふること愈甚し。馬入川の渡船、河原の砂利路等にて大分手間取り平塚停車場の踏切を超へ松原の沙路を伝ひ翁屋に投宿せしは八時半頃であつた。宿屋は評判以上で表二階の十畳二タ間を領した。万事行届いて待遇も申分なし。直様入浴後夜食には鮑の塩むしで一寸喰へる。食事をして間もなく蚊帳にもぐり込んだ。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月29日 七時過に一同起き出で裏坐敷にて竹沢の注文により西瓜を食した。朝飯前に西瓜は生れて始めて余り感心しない。それから朝食を終り海岸に行く。宿屋から海までは四五町はある。海水は至極清潔二三年振りで潮に浴した。今朝は風はなく時々大浪が打寄せる丈で気持がいゝ、浪乗りをやり損なつて竹沢のでんぐりがへつたのは大笑ひであつた。宿屋に帰つてからは例の戦が始まり昼飯後も継続した。五時になつて近所の路を散歩した。総て小松林と畑であるが色々な高低があつて面白い。河口に近き漁村に至れば鰹船の着で賑はつて居る。竹沢が今朝から探して居た鰹の腹身を十五本二十銭で買ひブラ提げて海辺に出る。此漁村の名は忘れたが沙原の景色など面白い処がある。海辺で奇麗な石など拾ひ宿屋に向つたのはもう薄暗い時分であつて宿の女将が丁度迎ひに来た処であつた。此時に小代が煙管を紛失した事に気がついて大騒動をして探したが遂に見当らなかつた。今夜は竹沢の腹身を焼いて食したが塩のきかない故か余り結構でもなかつた。食後燈下にて二時間斗ゲームに取かゝる。後佐野と二人で提灯を持つて松虫取りに出たが中々つかまらない。又小父さんのパイプを探して見たが是も不成功に了つた。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月30日 暁来一月振りで雨が降り出した。恰かも我々は雨乞ひに来たやうな姿である。天気は荒れ模様であるが大した事はない。朝飯後外にも出られず愈ゲーム一点張りとなる。こういう事をやるには静かで持つて来いという場処。お負けに女将は余程のアマトールらしく菓子なんか持つて来て如何にもはいりたいやうな気色を見せたが中々そうはいかない。昨日来の結果は竹沢の大敗に帰したがそれでも至極お手軽に済んだ。昼食後大分明るくなつたので一同に自転車の掃除に取かゝり宿の勘定其他を済してから最後の一戦で小石川は大分取かへした。モー発車の時刻に近ついたというので宿を出で下走り三時半の汽車に乗る積りであつたのが、自転車を入れる場所がないので次の車を待つ事になり停車場横手の茶屋で休む。五時四十分の列車は延着で六時頃漸く乗り込む。八時十分新橋着今朝のブオツフで夜食をすまし小代と二人丈自転車で帰宅したのは十時であつた。内には高等商業学校から端書が来て居て今日の会見を報してあつたが最早だめである。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月31日 今朝高商の金子書記来り今日の来校を乞ふたのて十時に出掛ける。間もなく瑞西人ファルデル来会、授業上の談合をなし来月六日再会を約して十二時過帰宅す。午後自転車掃除をなす。黒田の母堂三十日祭にて四時より笄町邸に招かる。四時半自転車にて参る。会員大方集る。立食の御馳走あり食後黒田の発言に依り渋谷某寺に前白馬会書記近藤智敬の墓参をなして七時半散す。今夜荒れ模様にて警戒せしが大事に至らず。 続きを読む »
1904(明治37) 年9月1日 山口の周旋にて来れる下女今朝逃げ出す。朝九時和田との約束により黒田の家に赴く。展覧会設計の相談をなす。合田中村も同席した。後昼飯会食合田麦酒徳利を捻ち切り負傷大騒ぎであつた。食後雑談に時を過し三時半に帰宅す。夜食こま北日ヶ窪の石岡という請宿へ出掛けて雇女の申込をなす。小泉小代来会す。 続きを読む »
1904(明治37) 年9月2日 暑気又々甚し。竹野のおかたさん出征兵見送りのために来る。旅順損傷兵補充のため日々軍隊の出発あり。此模様では中々方附そふもない、併し遼陽の大戦は頃日我軍の勝利に帰し昨日より号外続々出る。敵軍の退却は最早疑ひなきが如し。夜食後永峯御見舞。 続きを読む »
1904(明治37) 年9月4日 今朝秋冷殊に軽快を覚ふ。九時頃に溜池に電話を掛けに行つて帰りに三河台を尋ぬるに既に小泉翁と片町に出掛けたという事を聞き直に帰宅すれば両人門口にて立話しをして居る所であつた。それから例の戦が始まり昼は大和田の丼を注文する。午後三時過に佐野も来た。夜食は久し振りで龍土軒に一同出掛けた。遼陽占領の号外出る。 続きを読む »
1904(明治37) 年9月5日 今朝学校に至り石井金次郎を京都に出張せしむるため旅費受取る。帰途中丸を尋ねたが不在、又印刷会社に立寄り入場券印刷の事を話す。午後黒田を尋ねた。夜和田来訪。 続きを読む »
1904(明治37) 年9月8日 昼頃日本画の生徒毛利落第生のため請願に来る。午後山本芳翠従軍につき旅費の調達を頼みに来る。止むを得ず会の預金中より百円を貸し与へた。美術学校会計野田義守の葬式に会するため関口駒井町大泉寺に赴き五時過に帰宅す。八時半芳翠の出発見送のため新橋停車場に至る。後合田と新橋のビアホールに休み黒田の紛事落着の由を聞く。 続きを読む »
1904(明治37) 年9月9日 早朝新龍土町にファルデル氏を尋ね授業上の相談をなす。九時美術学校に時間割りの打合せに行き帰途商業学校に立寄り校長に面会、ファルデルと相談の結果を報じ後ファルデルと車輪を連ねて帰る。午後九島喜三郎来訪、生牛酪の土産を貰ふ。夜食後永峯に赴く。 続きを読む »