本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年8月7日

 八月七日 (箱根避暑旅行日記) 朝の内少しく雨ふり午後止む 三時二十分新橋発 同行ハ母上 種 文と拙者の四人也 母上今年六十五歳 種ハ二十九歳 文姓ハ小泉年十六 拙者三十六歳なり 国府津に着し停車場前の蔦屋にて急ぎ茶漬を食ひ電気鉄道に乗る 此処の電車に乗るハ今日が始めてなり 車新らしく一寸奇麗にて乗具合悪からず 始め中等に乗りたれども人多く入り来りし故上等ニ乗り替えたり 一時間にて湯本ニ達す 時ニ七時半頃也 例の万翠楼福住の三階に泊る 此家の風呂はいつもながら清潔にして心地よし 広き浴室の方の中央に板塀様のものを突き出し湯壺を真中より二つに分けて浴室を狭ばめたるハ営業上何か訳のある事ならんが窮屈に為りたるハ遺憾なり

1901(明治34) 年8月8日

 八月八日 (箱根避暑旅行日記) 今日は曇天なり 底倉辺の宿屋の様子聞合せの為め此処ニ滞留せり 使の者帰り来て底倉の蔦屋といふ家ニ好き座敷有りし故約束し置たる旨を報ず 此の湯本ニハ度々来りしかども名所は一ケ所も見し事なけれバ今日此処に逗留したるを幸名所の見物を為す 昼飯前ニ玉簾乃滝を見る 此の滝ハ只の滝に非ず見世物なり 木戸銭十銭を憤発するに非ざれバ見る事不叶 書生など滝を見んとて木戸口迄来り御一人前金十銭也と聞て門前の橋の上に会議を開き居るを見たり 此の滝は少しく斜面に為りたる崖を幾筋にもなりて流れ落る水にして壮快なるものニハ非ず 形面白く雅なるものなり 川と為りて流るゝ処などに一二ケ処に画にも為る可き場処はあれど絵の事など好まぬ人ニは十銭にて見る可きものハ滝の外にハ川の中の緋鯉位のものか 昼後にハ今朝底倉へ使ニ行たる男を案内者として早雲寺と正眼寺に行く 早雲寺は可也の被れ寺也 昔をしのぶにハ此の姿却て妙也 此の寺にハ宝物の書画多し 早雲寺の正門左甚五郎の作といふ肩書附の門 然るニ西洋形の瓦を平気で載て居る 其正門を出て昔の本街道を少しく登れバ両側に人家あり一村を為す 婆々連五六人集まつて御詠歌の稽古を為すなど随分古風にして呑気なり 村外れの左側に小高き処に放光堂といふ額を掛けたる一つの小さな寺あり 小屋同然のもの也 是れハ正眼寺とて早雲寺の末寺にして維新前は可也のものなりし 又此の近所に一つの地蔵堂有つて曽我兄弟の木像をも安置し有りしが維新の際幕臣伊庭八郎と云者百人許引卒して此処を守りしに遂ニ敗走せり 其時村も寺も皆焼く 曾我兄弟の像ハ誰やらん漸く堂より引出し全きを得たるハ幸なり 今の正眼寺に在るものハ則是也 此の曾我兄弟の像といふハ二体共地蔵の姿に彫刻せる等見立像にして一見肖像とハ思ハれず 能く見れバ面部は二体共異なれり 身の長も亦同じからず 顔附の点より拙者の感覚を云へバ時致と記したる方却て祐成らしく祐成の方は時致然たり

1901(明治34) 年8月9日

 八月九日 (箱根避暑旅行日記) 今日も上天気ニハ非ず 底倉行と極めて九時半頃に三人は人力車にて出懸け拙者はぼつぼつ歩行す 一時間程登つて富士見亭に到る 去三十二年の七月の始めに小代 久米 岩村 佐野 菊地 高島と拙者と七人にて遊びニ来りし時此の茶見世に休みたり 其当時の事を思ひ出し婆さんは達者かねと尋ねたるニ婆さん相変らず丈夫にて今年七十三歳 十六七の給士女を二人も置いて中々の御繁昌なり 然し今日ハ箱根山一里登れバ富士見のお茶屋と云語を自作の法界節なりと称して歌ひ且つ躍りたる時よりいやにまじめになり 此処に二十五分間程休息して汗を乾かす 是れより少しく登れバ大平台の一村落なり 茶見世多し 人力車三台続いて下り来るのに出遇い何心なく乗りたる人を見しニ二番目の車に乗りたる美人は京都一力の中居某なり 先にても気が着きハアツと云ひしが下り坂の事とて其儘行過ぎたり 十一時半頃底倉涵琴楼蔦屋に着す 昨日人を以て約束し置たる座敷ニ通る 此の座敷ハ蛇骨川に向つて見晴らし好し 十畳八畳三畳の三間を貸し呉れたるなれバ四人にハ広過る位にて結構なり 其代りニ席料一日十円なる故到底吾々のお歯にハ合ハざるなり 三十六計走るニ如かず 即ち明日は此の名策を実行することに決す 午後木賀の辺を散歩す

1901(明治34) 年8月10日

 八月十日 (箱根避暑旅行日記) 夜中より降り出したる雨は今朝も止まず 斯様な降にてもお立ちなさるかとの番頭の問に然りと答て準備を為し竹輿にて八時半頃出発す 一昨年七人組で一泊したる梅屋の主人何やらん紙に包んだる品物を贈る 商業上手なる事感心の至なり 雨中の竹輿旅行中々趣味有り 十時前芦之湯池尻と云所にて少しく休息す 芦之湯を通り曾我兄弟の墓前を過る頃は十時半なりし 此辺細かなる紅の花多く咲けり 夏雪といふ花の由なり 是れより半時間余にして元箱根村ニ着し武蔵屋に入る 箱根権現に近き所元代官屋敷なりしと云ふ処に武蔵屋に属する貸席有り 清風亭といふ其家に住居を定む 但し家の全部を占領したるに非ず 湖水に近き方の二た間丈を一日一円にて借り受けたり 他の一部にハ書生体の男二三人宿泊す 今晩雷鳴す

1901(明治34) 年8月12日

 八月十二日 (箱根避暑旅行日記) 先づ晴の方なり 午後箱根宿へ行く 元土生屋に石内弥平太の看板を掛け石内老夫妻見世先ニ控へたり 即ち立寄りて久々にて面会の挨拶を為し導かれて庭前の一小亭に腰を掛く 程無く西洋葡萄が出て来るやら紅茶に牛乳 焼麺麭にバタ ヂヤムなど副へて持ち来るなど中々ニ心地よき饗応振なりけり

1901(明治34) 年8月13日

 八月十三日 (箱根避暑旅行日記) 昨日から割ニ好い天気に為りたり 東京の暑さが思ひ遣られる 此の地にて最も不都合なるハ食物なり 今日ハ湯本福住より貰ひたるアナヽスの缶詰を開けて僅ニ腹の虫を慰む

1901(明治34) 年8月14日

 八月十四日 (箱根避暑旅行日記) 今日は風なく湖水に波立たず 時時夕立降り水面の模様甚だ面白し 又晩方に少しく遠雷の響も聞ゆ 手紙書などが終日の仕事なり

1901(明治34) 年8月15日

 八月十五日 (箱根避暑旅行日記) 朝より日が当り上天気也 隣家の後園を写す 午後三時半頃より船を雇ひ石内方へ行く 少しく兵糧を徴発せんが為なり 先日の如く焼麺麭を食ひ紅茶を飲みヂヤムの缶詰其他一二品を得て帰る〔図 写生帳より〕

1901(明治34) 年8月16日

 八月十六日 (箱根避暑旅行日記) 南風強くして白き雲二子山の方へ飛ぶ事甚し 清風亭の庭より湖水を隔てゝ屏風山の方を望たる風景の中に少女を立たせて避暑といふが如き意味の図を作る 今朝湖水ニお精霊様を流しニ来る人多し 供物を水ニ投じ水際の砂地に線香を立て又火を少しく焼き恭しく拝を為して去る 仏教的習慣を心得ざる拙者にハ何れかの外国の人の仕業を見るが如きの感有り 午後権現の境内より姥子街道を少しく歩く 風は有れども雲の切れ目に照らす日光は中々強く汗を催したり 七日以後に届きたる友人等の書状を一と纏めにして東京の留守宅より送り来れり 夕方に為り雲は盡く北方へ走り去つて霧之れに代り忽にして所謂咫尺を弁ぜずと云ふ体ニ為り又少しく雨も加ハりたり 風は依然として止まず 之れでハ夜食後の散歩も叶ハぬ 縁側にてお百度を踏むの外なし

1901(明治34) 年8月17日

 八月十七日 (箱根避暑旅行日記) 安全の位置ニ寝て居ながら世間の物凄じい風雨の音を聞て居ると云ふのハ気持のいゝものだ などと思つて昨夜ハ寝込み今朝六時半頃に目を覚まして見れバ未だ風は吹続いて雨戸等ががたぴしやつて居る こう頑固にやられてハ実ニ五月蠅くなるなり 昼飯前ニ権現の森の中より湖辺の石原を歩く 此の頃よりして風力衰へ間もなく天気平常ニ復したり 三時頃に至り空曇り再び風起る 夕方に霧立ち込めたる事昨日の如し 即ち此の景を写す 夜八時半頃にハ風又全く静まりたり

1901(明治34) 年8月18日

 八月十八日 (箱根避暑旅行日記) 晴れたり 此頃は来遊者多く武蔵屋丈にても日々三四十の客人中食を為すと聞けり 元来武蔵屋の亭主挨拶者にて心地悪からざる人物なれども使役者少なき為か不行届なるは遺憾なり 今日の昼飯などハ幾回も催促したる上一時過て箸を執る様の次第なりし 明日の昼飯は宿の石内方まで行て食ハんと思ふなり 又武蔵屋の小使は総州成田地方の者にて気の利きたる男なり 下婢は僅ニ二人 其内の一人はまめに働けども他の一人は酌婦然たる者にてなまめかしく且ツ立ち回りぐづぐづにして歯痒き事なり 朝箱根神社々務所即ち神主古川氏の家にて神社の宝物を拝観せり 十郎 五郎が復讐に用ひたりと称する古刀二振有り 宝物中の主なる者なり 函山誌一冊を購ふて帰る 夜客舍に於ける無聊の様を画く

1901(明治34) 年8月19日

 八月十九日 (箱根避暑旅行日記) 風冷にして秋の風らしく覚ゆ 今朝は宿に行かんと皆々仕度までしたるニ空合怪しく為り雨降り来りたる故遂ニ宿行きは取り止めたり 併し雨は通り雨にて間も無く霽たれバ権現様ニ参詣し神主ニ頼み諸木像を一覧す 曾我兄弟の像 三仙と称する古代人物の像 親鸞上人作 弘法大師作 其他両三体なり 三仙の像尤も雅致有り 兎ニ角平凡の作ニ非ず 午後近所の転物師横山と云ふ者の細工の様を写す 夜湖上にて煙火を打ち上げ又往来に小間物玩弄物等の見世二ツ三ツと眼鏡芝居一つ見世を張りたり 煙火は村の若物共より宮様方へ御覧ニ入れる為めにて実ハ此の煙火の為めに見世物は出でたるなり 眼鏡といふ見世物は拙者等の児供時代ニハ東京ニても沢山見しものにて佐倉宗五郎 八百屋お七 石川五衛門などを色々やつてみせたもんだが此頃は全く見へなく為つた 然るニ今夜遇然眼鏡を見て殆んど竹馬の友に出逢つたやうなり 今夜の眼鏡は大江山が主にて始めニハ将門 羅生門等をやり最後に東京の千両役者を見せたり 看板は皆押絵にて立派なり 今日は旧暦の七夕に当るなれども此地に於てハ更ニ七夕祭を為す者無し 田舎ニハ珍らし 夫れとも新暦の七月七日に更めたるニや 本日午後時事新報社の用向にて都鳥氏来訪

1901(明治34) 年8月20日

 八月二十日 (箱根避暑旅行日記) 朝より吹降にて雨戸を開くる事叶ハず 不愉快な天気也 其上頭が痛く終日ごろごろして暮らす 今日は某華族が底倉辺より此の武蔵屋へ来る由にて武蔵屋にてハ大騒ぎ也 内へ泊つて居る客ハ全くそつちのけにて総掛りにて接待を為す 即ち誠に申兼ましたがなどと云挨拶を並べて吾々の処よりも或る物品を巻き上げたり 一体此の箱根温泉場にてハ一種の不思議な習慣が有つて何様がお泊りに為つて居りますとか或ハお出に為る筈だとか云て只縉紳の名前を吹聴して其家の高尚なるニ誇らんとす 而して各旅店の設備の不完全なる実ニ驚くべし 食物の不良は申ニ及バず 万事不行届なる事多し 流石に福住は常ニ縉紳ニ接し居る故ニや何々様の広告を為さざるのみならず諸事行届きたり 先づ今年処々の宿屋の亭主や番頭が二た言目に云ひ出すことハ底倉の蔦屋ニテハ岩倉様御滞在木賀亀屋にてハ大鍋島様へ離座敷御貸切元箱根ノ武蔵屋にてハ昨年ハ御分家の井伊様御泊り被遊本年は岩倉様六十人にて御小休相成筈云々とこんな下らない事を述立てるよりも寧ろ牛鍋の一つも時々は食へるやうな運ニやつて貰ひ度きものなり 何しろ日本流の宿屋事業の児戯ニ近き実着の方法を以て利を得ることを為さず 当に為らざるお茶代を当にするなど思へバ随分可笑しく又気の毒なり

1901(明治34) 年8月22日

 八月二十二日 (箱根避暑旅行日記) 雨なれども風なけれバ戸を開け湖水の景色などを見る事を得るなり 不幸中の幸なり 今朝十時過同伴の文子が父小泉猛英氏静岡より来訪 始めて面会せり 同氏と午後五時頃まで語る

1901(明治34) 年8月23日

 八月二十三日 (箱根避暑旅行日記) 小泉氏今朝八時頃去る 雨ふること殆んど昨日の如し 頭重く気分甚だ宜しからず 一体此ノ三四日ハ食欲特ニ少し 何の故なるを知らず 午後五時頃風呂に入り幾分か頭痛も減じ心地よく為る 風呂の水汲は小使の男の受持なりしが此の男何か不平の事有りて二十日限りに暇を取りたりといふ 中々気の利たる男にて能く拙者方の用を足し呉れしが居ず為りて行届かざる武蔵やは益行届かず 不自由なる事甚し 可笑もあり又気の毒なるは小使の代ニ宿屋の主人が自身にて風呂の水を汲む事也 昨日ハ雨余り強く降り水汲ニ究したるにや此の離家にハ勿論本店にも風呂を沸かさず 旅人宿にて仮令一日たりとも風呂を立てぬといふは手廻ハしのよき証拠ニ非ず 夜食後傘をさして散歩す

1901(明治34) 年8月24日

 八月二十四日 (箱根避暑旅行日記) 今日の雨は二タ子山の方より来る 風呂の水汲ニハ亭主愈窮したるものと見へ近所のかゝあ連を頼み此の仕事を為さしむ こう極まれバ最早風呂の沸かぬ日ハ有るまじ 雨の霽間にハ日照りてフランネルの単衣物にてハ少しく汗を催す位也 午時頃より次第に天気好く為り久し振に金色なる夕空を見るを得たり 即ち静かなる晩方の画を作る 此の地に来りし以来未だ今夜の如き心地よき夜は無かりし 空は晴れ月は明に風は無く湖面は平らかで先づ申分の無き夜なり

1901(明治34) 年8月25日

 八月二十五日 (箱根避暑旅行日記) 宿の書生や石内方へ皆にて昼飯を食ハんが為ニ行く 拙者ハ一人先発にて出掛けたるニ因つて連の者共が来るまでに諸処を散歩することを得たり 廃寺を二ケ所程見たり 可也大なる寺に住持の無きハ聊何故なるか此様ないゝ寺を空けて置くのハ随分惜いもの哉 後園の荒れたる中に初秋の色々な花が咲いて居るなど趣味少なからず 昼飯が済だ頃に雨がぱらぱらと降り来りしかども暫時のことにて霽れたり 東京の親族などへの土産として名物の細工物を買入る 午後四時半頃元箱根村ニ帰着す

1901(明治34) 年8月26日

 八月二十六日 (箱根避暑旅行日記) 今日ハ全く避暑客然と暮らしたり 朝先づ昨日の二六新聞をよみ後所持の水滸伝を取り出し午前より午後へかけて之れをひもとき又手紙の返事を書き風呂ニ入り散歩を為す 平々凡々なり 天気の方は晴天なりし 夜ハ朧月夜にて寒くもなく暑くもなく心地よきことなり

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