1901(明治34) 年8月8日


 八月八日 (箱根避暑旅行日記)
 今日は曇天なり 底倉辺の宿屋の様子聞合せの為め此処ニ滞留せり 使の者帰り来て底倉の蔦屋といふ家ニ好き座敷有りし故約束し置たる旨を報ず
 此の湯本ニハ度々来りしかども名所は一ケ所も見し事なけれバ今日此処に逗留したるを幸名所の見物を為す 昼飯前ニ玉簾乃滝を見る 此の滝ハ只の滝に非ず見世物なり 木戸銭十銭を憤発するに非ざれバ見る事不叶 書生など滝を見んとて木戸口迄来り御一人前金十銭也と聞て門前の橋の上に会議を開き居るを見たり 此の滝は少しく斜面に為りたる崖を幾筋にもなりて流れ落る水にして壮快なるものニハ非ず 形面白く雅なるものなり 川と為りて流るゝ処などに一二ケ処に画にも為る可き場処はあれど絵の事など好まぬ人ニは十銭にて見る可きものハ滝の外にハ川の中の緋鯉位のものか
 昼後にハ今朝底倉へ使ニ行たる男を案内者として早雲寺と正眼寺に行く 早雲寺は可也の被れ寺也 昔をしのぶにハ此の姿却て妙也 此の寺にハ宝物の書画多し 早雲寺の正門左甚五郎の作といふ肩書附の門 然るニ西洋形の瓦を平気で載て居る 其正門を出て昔の本街道を少しく登れバ両側に人家あり一村を為す 婆々連五六人集まつて御詠歌の稽古を為すなど随分古風にして呑気なり 村外れの左側に小高き処に放光堂といふ額を掛けたる一つの小さな寺あり 小屋同然のもの也 是れハ正眼寺とて早雲寺の末寺にして維新前は可也のものなりし 又此の近所に一つの地蔵堂有つて曽我兄弟の木像をも安置し有りしが維新の際幕臣伊庭八郎と云者百人許引卒して此処を守りしに遂ニ敗走せり 其時村も寺も皆焼く 曾我兄弟の像ハ誰やらん漸く堂より引出し全きを得たるハ幸なり 今の正眼寺に在るものハ則是也 此の曾我兄弟の像といふハ二体共地蔵の姿に彫刻せる等見立像にして一見肖像とハ思ハれず 能く見れバ面部は二体共異なれり 身の長も亦同じからず 顔附の点より拙者の感覚を云へバ時致と記したる方却て祐成らしく祐成の方は時致然たり