本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年6月2日

 六月二日 (欧洲出張日記) 今日もむしあつい 午前十一時頃右手ニ赤つちやらけた陸が見えて猟船などが沢山出て居た 同船の平山氏が支那通の人であれが多分汕頭ならんと云話であつた 午後二時頃ニ寒暖計を見たら摂氏の三十一度ニ昇つて居た 四時頃から雨が降り出し少しくすゞしく為つた 五時頃から半時間位は実ニ盛んに降つた 丸で日光の雨のやうだつた 此の熱帯地方にはこう云雨のふる事が時時あるそうだ 晩めしを食て甲板ニ出て見ると近くに島が見え又色々な色のあかりが見えた 即ちこれが香港だ 大小のあかりがずたりと前に見ゆる体は天が目の前ニ下つて来たかと思ふやうであつた 九時頃と覚しき頃ニ船が止まつた 今夜ハ船ニ居つて明朝上陸する事と為つたので甲板ニ同船の日本人や日本育の人達が集まり佐野君が日本の歌を歌ふやら又同船の或人の身振の真似などして見せて皆を笑ハした 日本育の人達といふのハ Fabre-Brandt の兄弟三人と Eymard の兄弟四人だ 皆日本語ハ日本人の通りで中々都合のいい人達だ 十一時頃まで笑つてそれから部屋ニ引込だ〔図 写生帳より〕

1900(明治33) 年6月3日

 六月三日 (欧洲出張日記) 今日ハ雨ふりと云ふ天気でハないが矢張時々降つて居た 午前九時頃ニ佐藤 岡崎 飯塚の三君と共ニサンパンを一艘雇つて上陸した 岸から人力車ニ乗つて東洋館と云ふ処に平山周氏をたづねて行た 平山氏ハ此処が目的地で昨夜船が着くと直ニ上陸されたのだ 二見楼と云ふ日本の料理ニ居ると云ふので其処へ尋ねて行た 此の二見屋ハ擺花街といふのニ在る 支那町の真中だ 此の辺の家は門並五階造り位の家だが支那人の住居だから実ニきたならしい 又此頃ペストの中心点ニ為つて居るのも此処だそうだ 全体比の香港ニハ大分体裁のいゝ家が有るけれどいづれも外側だけがいくらかいゝので雑な家が多い 先づ平山氏の周旋でラムネや氷又夏蜜柑等が出た 佐藤氏ハ午後の四時過ニ領事館で出遇ふ 約束で何処へか出て行た 吾れ吾れ三人ハ残つて平山氏及び同船の綿羊的日本女二人等と日本めしを食た 綿羊等ハ是非上陸したいが連がないから連れて行て呉れと云事で此処まで一緒ニ来たのだ 此の二見楼にも日本の女が三四人居る 大抵長崎辺のものらしい 木綿のきたない被物を着て給仕などしてをる めしを食て居る時ニ非常ニ雨が降つて来た めしは豆腐の味噌汁 鶏 竹の子 松茸 蓮根の甘煮 玉子焼 海老に木瓜の酸の物等で実ニ甘かつた 岡崎氏ハ知己を訪問するとてめし後ニ一人出かけた 飯塚君とオレは平山氏としばらく話をして午後の二時半頃から平山氏に導かれて此処の銀座通とでも云ふべきクインスロードに行き銀細工物など冷かし夫れから此の地の名物の籠ニ乗つて公園地に行た 熱帯其他の地方の珍しい植物を沢山集めて中々美事ニこしらへてある 蓮の花 鳳仙華 朝顔 日廻り草 紫陽花などが咲いて居た 此の公園にハ噴水が一つ銅像が一つ有る 銅像ハ M.Raggi の作でロンドンで出来たもので千八百七十二年から千八百七十七年まで此処の大守で有つた Arthur Kennedy の像だ 彫刻物は此の銅像の外ニ海岸ニある英女王の像が一寸よく出来て居る 日本ニもせめて此の位のものがほしいナア 全体香港と云ふ処ハ赤土山のつまらない処だ 夫れが今日の体裁を為して居るのは全く人工のお蔭だ 建築物は外側ハ一寸見られるやうなのが少しハあるが中ハいかにもお麁末な様だ 又籠でクインスロードまで下り見世を少し冷かした 此処でハ見世に這入つて何かあの品を見せろと云ふと其品を出す前ニ必ず先づ直段を云ふくせが有る 又何処の見世でも見世番ハ大抵支那人だ 不思議なのハ支那の車夫や籠かきだ 値段をきめず何処までやれと云て乗つて向ふニ行ていゝか減ニ金をやるのだ そうすると其車夫やかごやは必ず不平で金がにせものだから他のをくれとかなんとかかとか云て増賃を請求する それを一向構ハずに来て仕舞ふのだ 上海などではこう云場合の時ニは必ず杖か何かでぶんなぐるのだ そうすると其儘閉口して行て仕舞ふ 其処で或る西洋人などハ此のなぐる方法を利用して只で車の乗りにげをやるのもあると云ふ事だ 香港でハなぐる事ハ禁じて有るそうだが巡査ハ時々ポカリポカリやらかす 上海の居留地の巡査ハ英人 印度人 支那人だが此処の巡査ハ英人ト印度丈だ 丈の高い立派な奴等だ 又此の香港ハ坂計の様な土地の為か馬車は一つもない 又上海で見るやうな一輪の押して行く車もない 平山氏ニ別れて飯塚氏と二人領事館ニ行た 佐藤氏ト岡崎氏ハ己ニ来て居た 上野領事ニ面会した 書記生の某氏が案内で海岸に下って郵船会社の小蒸汽で船へ帰つた 今朝一緒に来た女子共も再び吾レ吾レと一緒ニ船へ帰つた

1900(明治33) 年6月4日

 六月四日 (欧洲出張日記) 午後一時ニ船が出た 少し風が有るが少しもゆれない 仕合だ 夜九時少し前頃から Fabre-Brandt 兄弟 Eymard 兄弟と吾レ吾レが皆日本のゆかたを被て甲板ニ集り Eymard 氏が獅子舞の真似などして大ニふざけて大笑した 十一時過まで皆で騒いだ

1900(明治33) 年6月5日

 六月五日 (欧洲出張日記) 香港を出てから風が有るから甲板ニ居れバすゞしくていゝが夜はどうもよくねる事が出来ない 手拭を枕のわきに置て目がさめると汗をふくのだ 一寸眠るとあついので目がさめる めがさめて見ると面やからだは汗だらけだ 全体昨日も今日も上天気でハない ぼんやりして居る方で風が有るから香港滞在中より余程涼しい 午後の一時半頃ニ急ニ夕立がやつて来た 一時間位で止で仕舞つた

1900(明治33) 年6月6日

 六月六日 (欧洲出張日記) 朝八時頃甲板ニ出て見たら右手ニ陸が見えた 今日ハ終日此の陸を見て進む これが安南地方だらう 船客のカリカチユールなどかいて遊んだ 夜上等の煙草室で三四人寄つて画の事などいろいろ話をした

1900(明治33) 年6月7日

 六月七日 (欧洲出張日記) 午前四時頃ニメコン(Mekong)川の入口に来て一寸止まり水先をのせて又進だ 八時サイゴンニ着いた 八時過ニ上等の連中も一緒ニ都合七人で上陸 馬車でホテルデコロニーといふ処ニ行きそれから動物園と植物園とを見ニ行て帰つて来て昼めしを食た 晩めしはボレスと云町の日本人計居る処ニ行て日本めしを食ひ後一と先船へ帰り又馬車ニ乗つて市中の夜景の見物をした

1900(明治33) 年6月8日

 六月八日 (欧洲出張日記) 九時ニ船が出た 今日ハ寒暖計三十四五度だ 先づ昼間ハ無事に済んだが夜十一時頃ニ部屋ニ這入つたらどうも眠られず ねむられないから国の事など思ひ出して居ると息がくるしくなり気が遠く為つた 仕方がないから看護人を呼び起し薬などをのんで再び寝た 今日までハ一つの部屋ニ一人で大ニよかつたが西貢から大変人が乗つたからオレは岡崎 飯塚の二氏と同じ処ニ這入る事と為た 其上ニ今一人爺の仏人が一人同室だから四人詰の一室満員と為つて中々窮屈だ

1900(明治33) 年6月9日

 六月九日 (欧洲出張日記) 昨夜薬をのんでねてからいつものやうに汗が沢山出て少し眠る事が出来た 印度洋の旅ハもうよくよくいやニなつた 今日はどうも気分が本当でない 十時の昼めし前ニ看護人が熱さましの薬を呉れたから呑んだ めしハ二タ口か三口丈で御免を蒙つた 一時のめしにも行かず甲板で博文館の紀行文集を読だり居眠をしたりして居た 今日ハ実にあつい日だが寒暖計ハ三十一度位のものだ ボーイニ頼で一時のめしのスープを取つて置てもらつて二時半頃ニ呑んだ 今日ハ少し熱でもあるものかつるりと居眠をすると東京の内の者の姿などが見える 篠塚氏が書附を持てオレをさがして居るところも見た 晩には大抵よく為つたと見えて腹がへつたから一と通り食事をした

1900(明治33) 年6月10日

 六月十日 (欧洲出張日記) 午前六時ニシンガポールに着いた 疫病のある地方を通つて来たから上陸させないそうだとか何とか云事だつたがそうでもなく九時ニ上陸した 上等の連中ハ先きニ行て仕舞つたから吾れ吾れ即ち中等組の飯塚 岡崎とオレの三人は日本料理屋主人松尾兼松を案内として馬車を一台雇ひ見物ニ出かけた 三四町行くと人力車に乗つた日本人が手招きをするから馬車を止めさした これハ先きに出かけた上等の人達の使で今領事館ニ居るから来いといふ事だつた 領事館ハ直其処だとの事で一寸立ち寄る事とした 此の領事館のある処ハ先づ此のシンガポールの内でハ一寸辺鄙な処らしい 領事ニ逢ひお茶を一杯飲み再び上等の四人に別れて出かけた 先づ動物園を見た 動物ハ至而少ない 猿 虎 クロコダイルなどと其他鳥などが少し計居た クロコダイルハ小サイのでつまらない 虎も大きい方ぢやない 猿の内で尤も面白かつたのは手長猿だ 此の猿は始めて見た 体の割ニ手が長い 毛の色は黒だ 古人が画ニかいた月を取らうとして居る猿猴なるものは則ち此の猿をかいたものに違ない 其猿が木から木に移る時は一つの手の先を枝にかけぶらりと体をゆすり他の枝ニ今一つの手をかけて移るなり 其時ハ体ハまるくちゞまり手はいやに長く為るやうに見ゆ 此の猿の名はジボンスと云つてラオズ地方の産だそうだ 或る仏人の話ニ此の猿が児を育つるを見ると丸で人間の様でたとへば人が一匹の児ニバナヽをやれば男親が其児を打つて其バナヽを取り上げ夫れから其バナヽを総体の児供の数ニ割つて皆ニ分けてやるそうだ 又或る時雄猿を雌猿や児猿と引分けて仕舞つたら其猿供が皆涙を流してかなしんだそうだ 動物園を出る時ニ Fabre Brandt 兄弟 Eymard 兄弟の一行に出遇つて Fabre 氏が早取りで吾レ吾レ一同を写した これより水溜の有る処を見ニ行た 随分遠い処だつたが行て見た丈の事ハあつた 中々手の行き届いたきれいな処だ 途中でパインアープルを大きな荷車ニ高く一杯積み上げ馬ニ引かして行くのがいくらもあつた 途中の一ぜんめし屋の様な処ニバナヽとパインアープルがぶらさげてあつたから腹ハすくしのどがかわいてたまらないのでそれを買つてたべた パインアープルの大きいのが一つで三銭だつた 水気が沢山あつて甘くて実ニ結構だつた サイゴンのホテルでマングスタンといふ実を始めて食つて甘いと思つたが中々此のパインアープルの新しいのゝ味には及バない 松尾方へ行く 風呂もわかしてあり直ニ風呂ニ這入り湯かたに被かへて食事をした 此の家は内の中は日本風で素足で歩いて座敷ニ座るのだ 風呂は日本の鉄砲風呂だ 給仕ハ矢張日本女で即ち亭主の妹だ 食物ハ刺身だの甘煮だの六品か七品も出た 先づこれが当分日本めしの食ひ仕舞ひだらうと思ふ 日本めしハ巴里でも食へるかも知れないが日本女に給仕をさせて食ふと云事はもうたしかニ此処限りだ 食事が済んで払をして此の家を立ち出て矢張宿の亭主の案内で市中の見物旁買ひ物ニ行た 更紗の布を買ひ度いと思つたがかたつけ計で書いたのがなかつたから止めにした かたつけの更紗で三尺四方計のが六円だとか云て居た 高いものだ 又マレー人が織物をして居るのを見ニ行た 支那製の絹糸できれいなしまのきれを織て居た これは此の地で流行つて居る腰巻ニ用ゆる為めのものだ 一つ分丈即ち一尺五寸位の幅で長さ六尺計造つて十五円だ そうしてそれ丈織るニはどうしても十五日位はかゝるそうだ 此の布は安いものだ 布類ハ見た計で一つも買ハず 岡 飯の二氏ハ藤の杖を買ひオレハ印度人が冠つて居る白い帽子を一つ船の甲板用ニ買つた 岡崎氏もこれを一つ買つた 午後五時ニ出帆 シンガポールでは此頃は一日ニ大抵一遍ハ雨が降るそうだ 其為ニ余程暑サがへる

1900(明治33) 年6月11日

 六月十一日 (欧洲出張日記) 今日はスマトラ海峡だ 船ハ西北へ向て進む 陸ハ見えない 海は静かだ 寒暖計は昼間は三十二度位 夜ハ三十度

1900(明治33) 年6月12日

 六月十二日 (欧洲出張日記) 朝七時頃起て見ると左の方ニかなり近く陸が見えた これがスマトラ島だ 十時頃に益近く為つてそれからとうとう離れて船はベンガル湾の入口に出た 海面にはたいした高低は見えないが船ハ随分ゆれて来た

1900(明治33) 年6月13日

 六月十三日 (欧洲出張日記) 今日は丁度ベンガル湾を横切つて居る そうしてスマトラ島とセイロン島との真中位の処を行く 此の辺の海の深さは四千メートル近くだ 即ち我一里位のものだ 船の動く事ハ矢張昨日のやうだ 昨日ハ縦ゆれが多かつたが今日は横の方だ 風も少しく加つて来て西南の方から吹く 之れが彼の有名なムーソンの端くれだらうと思ふ 夜窓から水を打ち込だ 寒暖計ハ三十一度位の処だが風が有る為めに甲板に居るとさほど暑さを感じない 夜寝てから汗をかいて手拭をびしよぬれにすることは不相替だ 兎に角毎日体がだるくていけない

1900(明治33) 年6月14日

 六月十四日 (欧洲出張日記) 今日は海上にハ波が多く立ち又波の姿も大きく為つた 左側の甲板には時々潮を打ち上げた 午後日本の宅へ出す手紙を書いた 船の中にこんなにぼんやりして暮らして居るのだから友達や何かに随分細かな手紙をかいてやる暇が有るのだが今日位ゆれるとはく程に酔ハないまでも気分が重く本を読む事さへ六ケ敷只 ぼんやり長椅子に寝転んで海を見て居る丈だ 又今日程ニゆれない時でも一日として気分のはつきりした事はない 始終熱の有るやうな心地がしていてこれは夜安眠が出来ない故かもしれない 何しろ此の船中に居る間は病気で入院して居るのだと思つて居るより外はない 体の具合がよくない為めか気分が何となく鬱して愉快な考は丸で出ない

1900(明治33) 年6月15日

 六月十五日 (欧洲出張日記) 午後一時にコロンボニ着いた 日本語の一寸分る土人の案内者が来た 先づ其者を連れて会社の小汽船で上陸 直ニオリヤンタルホテルといふのに行き水など飲んで少しく休息した 此の時去る十三日に日本の公使館員が北京で暗殺されて軍艦派遣などの事が始まつたと云事を聞た 本当の事なら一大事だ 馬車を二台雇ひ恒藤 青山 鴨下 佐藤 飯塚 岡崎の三氏と七人連で釈迦の墓を見ニ行た 港から此の墓までは七マイル有るといふ事だ なる程中々遠いがしかし途中は海岸の波の盛に打ちかける我七里が浜に立派な道路をつけたやうな処や又木立の中に別荘の有るやうな処を通つて行くのだから余り体屈しない 夫れに此の地の気候はサイゴンなどのやうなむしあついのでないから心地もわるくない 只閉口なのは馬車のあとからうるさく児供がかけて来てハングリ ボイ マスタといふて腹をさすつて金をねだるのだ ハングリ ボイ マスタは印度語かと思つて聞てゐたがそうぢやなかつた 英語の Hungry boy master といふ事をいふのであつた 何ニしろ此の地のものは大抵乞食根性が有るやうだ 釈迦の墓所には寺と墓と有る 又入口に井戸のやうなものが有る 神水だそうだ 皆古い建物とハ見えない 就中お寺は極く新らしく造つたものらしい 小さい堂で中ニ石で造たと云ふ黄ろく塗つた寝て居る釈迦の像が有つて廻りの壁には一杯まづい絵がかいてある 戒めのやうな絵らしい 此の世でうそをつくものは先きの世で鬼から舌をぬかれるといふやうな種類で此の世に在る時の姿と先きの世のところと二た通りづゝかいてある 鬼などハ日本の絵の鬼と大同小異だ 是等の絵の内で戒めとして尤も不思儀なのは髪の虱を取つて居る図があつて其戒に手をくびられてひつくりかへつて苦るしんで居る人がかいてある 此の世で虱を取つて先きの世でこんな目ニ逢つちやたまらない 墓は一壇高い所ニ築いて有る 風りんを伏せたやうな形のもので白く塗つてある 此の墓には釈迦の歯が入れてあると云ふ事だ 僧も一二人居たが僧といふより堂守といふものらしい つまり此の墓所は信仰の為めニ出来たといふより外国人を引く為めニこしらへたものらしい 此の寺は往来より横ニ一寸入り込む処だが其入口で馬車より下ると直ニ児供や大人まじりの乞食体のものがたかつて金を替へてやらうとか又花を買へとか綿の実をかへとか又平たく金をくれと云て付てくる 実ニうるさい だが其ついて来る乞食は主ニ十一二位の男や女の児供でかつたい坊のやうなものなどが居ない丈ハ仕合せだ ホテルに帰つてめしを食ふ前ニ飯塚氏と二人で雑貨店などを少し冷かし食後に七人連で馬車で少しく市中をかけ廻つたが一向つまらなかつた 十時に又会社の小蒸気で船に帰つた 今日北京の変を聞たが果して此の電報が真で有つたとすれば之れが導火線に為つて我国が充分の利益を得ん事を企望するので先づ其前祝と皆で盃ヲ拳げて万歳を唱へた 十二時ニ運転が始まつて一時過ニ港の外へ出た 波止場をはなるゝや否船がゆれはじめた

1900(明治33) 年6月17日

 六月十七日 (欧洲出張日記) 今日は船のゆれ方が昨日より強い 又夕立の来る事が昨日より度々で雨の量も昨日の比でない 雨風はつよく船はゆれるから丸で地震と嵐と一緒に来たやうだと飯塚君が云た 地震と嵐丈のことならまだいゝが其上ニ体の具合が丁度熱病でもやつて居る様だからたまらない

1900(明治33) 年6月18日

 六月十八日 (欧洲出張日記) 今日も雨風だ 甲板の散歩場は布で包み回ハしては有るがびしょぬれだ 昨夜も少し雷が鳴つたが今日十二時頃に非常ニ大きいのが二三度鳴つた 午後ハ夕立の数も少なく為つて海も少しハ静ニ為つた

1900(明治33) 年6月19日

 六月十九日 (欧洲出張日記) 今日は雲は多いが天気はいゝ 二三日雨でじめじめして居た処だから日が出て一寸いゝ心地だ 風は絶へず有るから甲板の上はさほど暑くない 今日はセイロン島とスコトラ島との半分途位の処だ 夜十二時過まで甲板の長椅子ニ寝ころんで居て見慣れない星などの南の方ニ一杯出て居る空をながめたりして日本はもう今頃は夜の明け方だらうかなどと云ふ事など考たりした アヽ先づ今日などはいくらか気分のはつきりして居る方だ

1900(明治33) 年6月20日

 六月二十日 (欧洲出張日記) 今日も天気はいゝが風は中々強い 其為めか波も中々高い 今日通る辺は海の深さは四千五六百メートルだ 先づ今迄の内では今日が一番船がゆれる 晩めしの時などは皿を手ニ持て居てソツプを吸ふやうな次第であつた

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