1900(明治33) 年6月10日


 六月十日 (欧洲出張日記)
 午前六時ニシンガポールに着いた 疫病のある地方を通つて来たから上陸させないそうだとか何とか云事だつたがそうでもなく九時ニ上陸した 上等の連中ハ先きニ行て仕舞つたから吾れ吾れ即ち中等組の飯塚 岡崎とオレの三人は日本料理屋主人松尾兼松を案内として馬車を一台雇ひ見物ニ出かけた 三四町行くと人力車に乗つた日本人が手招きをするから馬車を止めさした これハ先きに出かけた上等の人達の使で今領事館ニ居るから来いといふ事だつた 領事館ハ直其処だとの事で一寸立ち寄る事とした 此の領事館のある処ハ先づ此のシンガポールの内でハ一寸辺鄙な処らしい 領事ニ逢ひお茶を一杯飲み再び上等の四人に別れて出かけた 先づ動物園を見た 動物ハ至而少ない 猿 虎 クロコダイルなどと其他鳥などが少し計居た クロコダイルハ小サイのでつまらない 虎も大きい方ぢやない 猿の内で尤も面白かつたのは手長猿だ 此の猿は始めて見た 体の割ニ手が長い 毛の色は黒だ 古人が画ニかいた月を取らうとして居る猿猴なるものは則ち此の猿をかいたものに違ない 其猿が木から木に移る時は一つの手の先を枝にかけぶらりと体をゆすり他の枝ニ今一つの手をかけて移るなり 其時ハ体ハまるくちゞまり手はいやに長く為るやうに見ゆ 此の猿の名はジボンスと云つてラオズ地方の産だそうだ 或る仏人の話ニ此の猿が児を育つるを見ると丸で人間の様でたとへば人が一匹の児ニバナヽをやれば男親が其児を打つて其バナヽを取り上げ夫れから其バナヽを総体の児供の数ニ割つて皆ニ分けてやるそうだ 又或る時雄猿を雌猿や児猿と引分けて仕舞つたら其猿供が皆涙を流してかなしんだそうだ 動物園を出る時ニ Fabre Brandt 兄弟 Eymard 兄弟の一行に出遇つて Fabre 氏が早取りで吾レ吾レ一同を写した
 これより水溜の有る処を見ニ行た 随分遠い処だつたが行て見た丈の事ハあつた 中々手の行き届いたきれいな処だ 途中でパインアープルを大きな荷車ニ高く一杯積み上げ馬ニ引かして行くのがいくらもあつた 途中の一ぜんめし屋の様な処ニバナヽとパインアープルがぶらさげてあつたから腹ハすくしのどがかわいてたまらないのでそれを買つてたべた パインアープルの大きいのが一つで三銭だつた 水気が沢山あつて甘くて実ニ結構だつた サイゴンのホテルでマングスタンといふ実を始めて食つて甘いと思つたが中々此のパインアープルの新しいのゝ味には及バない
 松尾方へ行く 風呂もわかしてあり直ニ風呂ニ這入り湯かたに被かへて食事をした 此の家は内の中は日本風で素足で歩いて座敷ニ座るのだ 風呂は日本の鉄砲風呂だ 給仕ハ矢張日本女で即ち亭主の妹だ 食物ハ刺身だの甘煮だの六品か七品も出た 先づこれが当分日本めしの食ひ仕舞ひだらうと思ふ 日本めしハ巴里でも食へるかも知れないが日本女に給仕をさせて食ふと云事はもうたしかニ此処限りだ
 食事が済んで払をして此の家を立ち出て矢張宿の亭主の案内で市中の見物旁買ひ物ニ行た 更紗の布を買ひ度いと思つたがかたつけ計で書いたのがなかつたから止めにした かたつけの更紗で三尺四方計のが六円だとか云て居た 高いものだ 又マレー人が織物をして居るのを見ニ行た 支那製の絹糸できれいなしまのきれを織て居た これは此の地で流行つて居る腰巻ニ用ゆる為めのものだ 一つ分丈即ち一尺五寸位の幅で長さ六尺計造つて十五円だ そうしてそれ丈織るニはどうしても十五日位はかゝるそうだ 此の布は安いものだ
 布類ハ見た計で一つも買ハず 岡 飯の二氏ハ藤の杖を買ひオレハ印度人が冠つて居る白い帽子を一つ船の甲板用ニ買つた 岡崎氏もこれを一つ買つた 午後五時ニ出帆 シンガポールでは此頃は一日ニ大抵一遍ハ雨が降るそうだ 其為ニ余程暑サがへる