1900(明治33) 年6月3日


 六月三日 (欧洲出張日記)
 今日ハ雨ふりと云ふ天気でハないが矢張時々降つて居た 午前九時頃ニ佐藤 岡崎 飯塚の三君と共ニサンパンを一艘雇つて上陸した 岸から人力車ニ乗つて東洋館と云ふ処に平山周氏をたづねて行た 平山氏ハ此処が目的地で昨夜船が着くと直ニ上陸されたのだ 二見楼と云ふ日本の料理ニ居ると云ふので其処へ尋ねて行た 此の二見屋ハ擺花街といふのニ在る 支那町の真中だ 此の辺の家は門並五階造り位の家だが支那人の住居だから実ニきたならしい 又此頃ペストの中心点ニ為つて居るのも此処だそうだ 全体比の香港ニハ大分体裁のいゝ家が有るけれどいづれも外側だけがいくらかいゝので雑な家が多い
 先づ平山氏の周旋でラムネや氷又夏蜜柑等が出た 佐藤氏ハ午後の四時過ニ領事館で出遇ふ 約束で何処へか出て行た 吾れ吾れ三人ハ残つて平山氏及び同船の綿羊的日本女二人等と日本めしを食た 綿羊等ハ是非上陸したいが連がないから連れて行て呉れと云事で此処まで一緒ニ来たのだ 此の二見楼にも日本の女が三四人居る 大抵長崎辺のものらしい 木綿のきたない被物を着て給仕などしてをる めしを食て居る時ニ非常ニ雨が降つて来た
 めしは豆腐の味噌汁 鶏 竹の子 松茸 蓮根の甘煮 玉子焼 海老に木瓜の酸の物等で実ニ甘かつた 岡崎氏ハ知己を訪問するとてめし後ニ一人出かけた 飯塚君とオレは平山氏としばらく話をして午後の二時半頃から平山氏に導かれて此処の銀座通とでも云ふべきクインスロードに行き銀細工物など冷かし夫れから此の地の名物の籠ニ乗つて公園地に行た 熱帯其他の地方の珍しい植物を沢山集めて中々美事ニこしらへてある 蓮の花 鳳仙華 朝顔 日廻り草 紫陽花などが咲いて居た 此の公園にハ噴水が一つ銅像が一つ有る 銅像ハ M.Raggi の作でロンドンで出来たもので千八百七十二年から千八百七十七年まで此処の大守で有つた Arthur Kennedy の像だ 彫刻物は此の銅像の外ニ海岸ニある英女王の像が一寸よく出来て居る 日本ニもせめて此の位のものがほしいナア 全体香港と云ふ処ハ赤土山のつまらない処だ 夫れが今日の体裁を為して居るのは全く人工のお蔭だ 建築物は外側ハ一寸見られるやうなのが少しハあるが中ハいかにもお麁末な様だ 又籠でクインスロードまで下り見世を少し冷かした 此処でハ見世に這入つて何かあの品を見せろと云ふと其品を出す前ニ必ず先づ直段を云ふくせが有る 又何処の見世でも見世番ハ大抵支那人だ
 不思議なのハ支那の車夫や籠かきだ 値段をきめず何処までやれと云て乗つて向ふニ行ていゝか減ニ金をやるのだ そうすると其車夫やかごやは必ず不平で金がにせものだから他のをくれとかなんとかかとか云て増賃を請求する それを一向構ハずに来て仕舞ふのだ 上海などではこう云場合の時ニは必ず杖か何かでぶんなぐるのだ そうすると其儘閉口して行て仕舞ふ 其処で或る西洋人などハ此のなぐる方法を利用して只で車の乗りにげをやるのもあると云ふ事だ 香港でハなぐる事ハ禁じて有るそうだが巡査ハ時々ポカリポカリやらかす 上海の居留地の巡査ハ英人 印度人 支那人だが此処の巡査ハ英人ト印度丈だ 丈の高い立派な奴等だ 又此の香港ハ坂計の様な土地の為か馬車は一つもない 又上海で見るやうな一輪の押して行く車もない
 平山氏ニ別れて飯塚氏と二人領事館ニ行た 佐藤氏ト岡崎氏ハ己ニ来て居た 上野領事ニ面会した 書記生の某氏が案内で海岸に下って郵船会社の小蒸汽で船へ帰つた 今朝一緒に来た女子共も再び吾レ吾レと一緒ニ船へ帰つた