本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1897(明治30) 年1月21日

 一月二十一日 木 学校の入学試験が今日から始まるので出かけて行た 校長ニも話が有つたから十二時過ニ為つた 藤島と精養軒で昼めしを食ひ二時頃ニ浮世絵の展覧会を見ニ行た トロンコワニ出逢つた 内へ帰つたのハ四時半 六時頃までニ吉岡 安藤 堀江 久米が集まつた 赤阪の金子でめし 高島を呼ニやつたら薩人の篠原 寺尾の二人を連れて来た 入口から台湾語のまねでカンシンナチーバイどなり散らして来た 九時半頃ニ出てあとから来た三人ニ別れ柳堤街辺をあるき C.F. ニて小代 合田と会しそれから一番ニ安二番ニ小代とボツボツ帰り堀江とオレと別れたのハ十二時頃

1897(明治30) 年1月22日

 一月二十二日 金 二十二日朝から昼後の二時頃まで松岡寿が来て話して行た 帰ると直ニ久米の処ニ出かけ暗くなるまで居て学校の為ニ巴里ニ注文をする絵具等のしらべをした 内へ帰りめしを食て居る処ニ小代と佐野が来た 八時半頃ニ合田が来た 十一時過ニ皆帰る オレハ佐野 小代を送つて榎坂まで散歩して十二時ニ帰る 今日ハ月がいゝ

1897(明治30) 年1月23日

 一月二十三日 土 晴 八時ニ起き直ニ車で笄町へ行き父上ニ校長からの頼みの事を話し夫れから上野へ行く 途中で校長ニ出遇ひ話の結果を知らせ其儘学校ニ出画を直し又入学試験の点数を定めた 久米と精養軒でめしを食つた 学校の出口で安藤が待て居たから安藤も一緒ニ精養軒ニ来た めし後ニ三人連で又浮世絵の展覧会を見た Revon夫妻ニ出遇ひ画の説明などした 四時過ニ展覧会場を出三枚橋で安藤ニ別れ鉄道馬車で銀座まで来 久米の内ニ一寸と寄り二人で又新橋から人力で飯倉まで来 それから佐野をたづねた 小代の処ニ行て居ると聞て又小代の内へ行つた 今泉秀太郎君が居合した 其処で五人ニ為り一緒ニ飯倉の三つ星でめしを食つた 今泉へ帰り四人で小代のアトリエまで引返へしカルタをやつて十二時半頃まで遊だ

1897(明治30) 年1月24日

 一月二十四日 日 加藤重任氏が見へて台湾からの伝言を委しく聞いた 磯谷が額を持て来た 帰ると合田が来た 十一時十五分過位ニ合田と車で新橋へ行き十一時五十分の気車で品川へ行た 岩窟で小代 久米 佐野の三人が待て居た めしを食て二時前の気車で大森まで行き此処から歩で矢口へ行く 途中ハ外套も上着もぬいであるいた 中々いゝ天気だ 矢口でハ和田が田舍道でかいて居た それから皆で和田が宿つて居る百姓家ニ押かけしばらく話し餅の御馳走などニなつた 川崎を指して出かけた 矢口の渡まで和田が送つて来た 途中でうす暗く為り川崎のステーシヨンニ来れバ丁度気車が来大さわぎして切符を買つて飛び乗つた 色々評議の末清新軒で晩めし後銀行通を散歩した 不図奈良崎八郎ニ遇つた 佐久間町の信濃屋と云ニ泊つて居るそうだ 実ニ久し振で遇つた 金州で別れた以来始めてだ 久米ハ帰り佐野ハ土橋から車ニ乗り小代ニ窪町で合田ニ赤坂見附下で別れて内へ十時少し過ニ帰る 大久保利武 永富雄吉から手紙が来て居た 又菊地が発句入の端書を仙台からよこした

1897(明治30) 年1月25日

 一月二十五日 月 晴 今日ハ終日門より出ず 朝十一時頃ニ和田が来 伊藤と三人でめしを食ひ アトリエの中にストウブをたきつけなどして居る内ニ三時過ニ為り菊地がやつて来た 丁度暗く為つた処ニ飯田某と云人が来た 晩めしハ菊地 和田 伊藤と四人でやらかした それから合田と吉岡が来た 皆十一時過まで居て帰る 父上も一寸お出ニ為つてお目ニかゝつた 皆帰つてから母上とストーブの前で四方山の話をし一時半過ニ床ニ入る

1897(明治30) 年1月26日

 一月二十六日 火 伊藤を相手ニ額かけなどした 夕方ニ安藤が来めしを食つて又ストーブの前で三人で八時前まで話しそれから合田の工場ニ行た 丁度居たので四人ニ為つた ボツボツ歩いて新橋の方へ行た 伊藤ハ烏森で別れオレ等ハ銀座まで出た 安藤ニ別れて合田と二人で歩いて帰る 内へ帰つてから杉へやる手紙をかき二時頃ニ為つた

1897(明治30) 年1月27日

 一月二十七日 水 暖かい風も無いいゝ天気だつた 終日内ニ居て欧洲へ出す手紙などかいた 先きはシヤルボウ 横山安克等又ビルドニ英文国民送つてやつた シヤルボウニハ絵具の注文也 今日巴里のセイリツクの婆さんが死んだと云知らせが来たから直ニ名刺丈送つた 伊藤と晩めしを食て仕舞つて居た処ニ小代 菊地 佐野が来た C.F. ニ行て一時頃ニ帰る

1897(明治30) 年1月28日

 一月二十八日 木 終日内ニ居た 十一時頃ニ安藤が来 それから少し立つと松波が来 伊藤と四人でめし 安藤ハ一時頃ニ帰り松波ハ夕方まで話して行た 晩めしを食て仕舞つた処ニ小代が来た 十一時頃まで居た 伊藤も居た それから小代も帰ると云のでオレも小代と一緒ニ出て溜池から田町の方を歩いて来た 帰つてから一時間計母上とストーブの前で話した ねたのハ二時前

1897(明治30) 年1月29日

 一月二十九日 金 学校ニ出る前ニ杉子爵の内へ行き五一君ニ逢ひ安藤から頼まれた事を話した 九鬼氏よりの名札を渡した 学校から帰りニ精養軒でめし 安藤を呼ニやつて一緒ニ食ひ又今朝杉家に行た事を知らした 二時頃ニ別れて本郷の原田直次郎君をたづねた 一時間計居て内へ帰つた 伊藤とめしを食て居たら吉岡が来 一緒ニめし 又安藤が来 合田が来 四人連で外出 豊陵ニ立ち寄る 一時頃内へ帰つた

1897(明治30) 年1月30日

 一月三十日 土 十時ニ起た 藤島と長原が来て居た 長原が沢山画を持て来て見せた 白瀧が来 菊地が来 昼めしニハ伊藤まで入れて六人ニ為つた 二時頃ニ藤島と長原 白瀧の三人ハ帰つた 五時頃ニ松波が来 菊地と三人で溜池の伊豆屋でめしを食た 合田も仕事をしまつてやつて来た めし後ハ四人連で菊地の内へ行き二十一をして遊びとうとう十二時過ニ為つた 松波と合田ニ赤阪見附下で別れて帰る 内へ帰つてから問答の速記を直したりして二時過ニねる

1897(明治30) 年1月31日

 一月三十一日 日 十一時頃ニ曾我が来て半時間計話して行た 夕方ニ菊地 松波 合田が来 めし後ニ出て C.F. でカルタ取をして遊だ 十二時過ニ帰り速記の直しなどをして二時半頃ニ為つた

1897(明治30) 年2月1日

 二月一日 月 雨 終日外ニ出ず 午後佐野の頼みの下画を始めた 夕方に合田が来 伊藤と三人でめし 後吉岡が来 十二時がなつて合 吉の二人ハ帰つて行た

1897(明治30) 年2月2日

 二月二日 火 今日ハ実ニ暖な天気だ 十時半頃ニ起き昼めしハ母上と縁側の障子など開けて新らしく出来た庭をながめながら食た 桃色の梅の花が咲いて居て春の心地だ めし後に庭ニ出て母上としやぼてんの植かへなどした 四時頃合田が来 二人で佐野の処ニでも行うかなど云て居る処ニ吉岡が青山の帰りだと云て来 間もなく佐野も来た 又湯浅と白瀧と来た 菊地と小倉が来 中々な人数ニ為た 皆を待たして置て九鬼氏の処ニ行たが病気だと云て逢はず 帰りニ暇乞に横山氏ニ寄つた 之れも留守で逢へず 横山さんのおばさんハ明日いよいよ台湾へお出ニ為る筈 晩めしニのこつて居たのハ菊 吉 合 佐の四人 菊地が又カルタを持て来て居てやろうと云ひ出し自分で麹町まで碁石を買ニ行きとうとう始めた 吉岡ハ用が有るので間も無く帰つて我々ハ十時半頃まで王の勝負をやつた 十一時頃ニ皆帰るので送つて出かけ榎坂まで散歩して来た 内へ帰つてストーブの前で母上としばらく話し一時頃ニねる 横山のおばさんが一寸お出ニ為つた

1897(明治30) 年2月3日

 二月三日 水 朝学校ニ出 昼めしハ藤島と精養軒でやる 内へ帰つて居たら父上がお出ニ為つた 一時間足らずストーブの前で色々な世間話をした 五時過ニ安藤が来一緒ニめしを食てそれから大工攻撃と出かけた 十二時二十分位前ニ帰る それから岡田へやる手紙を書く(一日附の手紙の返事)

1897(明治30) 年2月4日

 二月四日 木 朝長原から司馬江漢ニ付ての手紙が来た 父上がお出ニ為つて御一緒ニめし 丁度食仕舞た処ニ杉吾が来 それから体育会から入会をすゝめニ来た人が一人 田中松太郎 久米 安藤 佐野が来た 晩めしハ久米 安藤 佐野と四人で宝亭で食ひ内へ帰り珈琲をのんで九時前まで話 それから伊藤を合せて五人連で溜池ニ出かけ安藤ハ帰り合田の工場で菊地 松波 山本の三人が会し都合八人 菊地の二階で十二時半まで二十一カルタをやつた 帰りがけニ田町のそば屋に杉 合の二人と這入つた 二時ニねる

1897(明治30) 年2月5日

 二月五日 金 朝学校ニ出 昼めしニは菊地を引張て精養軒ニ寄つた 内へ帰つて台湾へ出す手紙と岡田へやる手紙をかき四時頃から佐野の処ニ行きストーブの前飾の代を渡し一緒ニ小代をたづねたニ留守処佐と二人で豊楼でめし 九時前ニ合田も来て一時間位居た 十二時一寸過ニ内へ帰る

1897(明治30) 年2月6日

 二月六日 土 昼前ニ松波が来 遇々佐野が来 久米が来 かるたを始めた 夕方ニなつてめし食ニ出かけた 伊豆屋ニ菊地 合田 吉岡が集まつて都合七人 めし後ニ菊地の内で十一時半頃まで又二十一をやつた

1897(明治30) 年2月7日

 二月七日 日 昨日今日ハ非常ニ寒い 今日ストーブの前飾が落成した 十一時過ニ久米が来一緒ニめし 今日ハ伊藤も来て居り支那の鎧をアトリエの中にかざつた 午後佐野もやつて来て二十一をやつて暮らす 晩めしニハ合田も加つて又めし後ニ二十一をやる 十一時頃までやつてそれから皆の帰るのを送つて散歩して来た

1897(明治30) 年2月8日

 二月八日 月 十時半頃ニ起き中村へやる手紙をかき伊藤と昼めしを食ひ二時半頃ニ善兵衛が来て橋口家の経済話を聞き三時過ニ合田が来て一緒ニ佐野の処ニ行た 久米とも逢つたが久米は帰つて行きオレ等三人ハ菊地を呼び出し伊豆屋でめし 夫れから四人で内へ来て例の二十一で十一時まで 今日ハ昨日より暖かだ 昨日と一昨日の寒さハ此の冬ニなつて一番の様だつた

1897(明治30) 年2月9日

 二月九日 火 学校ニ出て授業を仕舞つて内へ帰つたのは一時頃 アトリエの片づけや庭の下知などした 夕方ニ藤島と菊地が来 伊藤も一緒ニ晩めし めし後ハ例の二十一で十一時過まで 皆が帰つてから新小説を読み始めねたのは二時半

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