本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1897(明治30) 年1月24日

 一月二十四日 日 加藤重任氏が見へて台湾からの伝言を委しく聞いた 磯谷が額を持て来た 帰ると合田が来た 十一時十五分過位ニ合田と車で新橋へ行き十一時五十分の気車で品川へ行た 岩窟で小代 久米 佐野の三人が待て居た めしを食て二時前の気車で大森まで行き此処から歩で矢口へ行く 途中ハ外套も上着もぬいであるいた 中々いゝ天気だ 矢口でハ和田が田舍道でかいて居た それから皆で和田が宿つて居る百姓家ニ押かけしばらく話し餅の御馳走などニなつた 川崎を指して出かけた 矢口の渡まで和田が送つて来た 途中でうす暗く為り川崎のステーシヨンニ来れバ丁度気車が来大さわぎして切符を買つて飛び乗つた 色々評議の末清新軒で晩めし後銀行通を散歩した 不図奈良崎八郎ニ遇つた 佐久間町の信濃屋と云ニ泊つて居るそうだ 実ニ久し振で遇つた 金州で別れた以来始めてだ 久米ハ帰り佐野ハ土橋から車ニ乗り小代ニ窪町で合田ニ赤坂見附下で別れて内へ十時少し過ニ帰る 大久保利武 永富雄吉から手紙が来て居た 又菊地が発句入の端書を仙台からよこした

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