本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1895(明治28) 年1月21日

 一月二十一日 (従軍日記) 林 大阪 万朝の諸氏ト臥龍村より成山廟ニ到 此処に廟有り 太陽を祭ると云あやしげなる僧二人出来りて案内ス 臥龍村近方の景ハ実ニいゝ 今日亦雪景色一層妙 寒サハ東京辺の寒さ位のものと思ハる

1895(明治28) 年1月22日

 一月二十二日 (従軍日記) 夜中大砲ノ音聞ユ 昨夜今朝出立ノ命下リタルニ依り其仕舞ヲシテ待テ居タレド議が変ジテ日延ト為ル 故ニ林 時事 大阪 万朝 山本等ト灯台見物ニ行タ

1895(明治28) 年1月24日

 一月二十四日 (従軍日記) 高安 林 矢島 大阪君等ト北海岸ノ一漁村ヨリ一と廻りして東方ノ成山廟ヲ見 断岸ノ上ヲ龍王宮迄到ル 今晩樺山中将ノ手紙ヲ一通受取ル

1895(明治28) 年1月25日

 一月二十五日 (従軍日記) 今朝九時半頃迄ニ荷の仕舞ヲ済まし十一人打連れて営城へ向けて出発ス 此海岸の景色遠景が地図メイタ雪の山ニ左ニ極平ナ波ノ少シモ無イ海ガ見エルカラ tableau ニ為ラズトモ目ニハ心地よし ヲマケニ天気が極イヽノデ興津辺の浜辺ヲ行く心地ス 荒川氏の一行ガアトカラ来テ一緒ニ為ツタ 荒川氏ヨリ久米 杉 トロンコワよりの手紙ヲ受取れり 直ニ開て此ノ晴々とした浜バタヲ歩きながら読ム 真ニ愉快也 途中ニテ寺内少将ドラブリー ボーガツタ 池内中佐 原田大尉等ニ逢フ 皆馬ニテ後ヨリ来り行過グ 栄城ニ近クニ従ヒ雪モ多クナリ道悪クナル 午後三時頃栄城ニ着ス 此城ハ金州ヨリ小サク又キタナシ 併シ此城の建築ハ随分古きものと見ゆ 夜ドラブリー氏の処ニ一寸夜話ニ行き帰りてねる 時ニ十時頃也 大砲ノ音聞る事しきりニして気分何となくすずし 城ニ入テ島村 松方ノ一行ニも逢フ

1895(明治28) 年1月26日

 一月二十六日 (従軍日記) 今日ハ支那の元日と聞けど此ノ城中少シモ正月ラシキ色ナシ 亡国ノ民ト云ものハ憐れナモノカナ 天気が悪ク仕方が無い折酒保が来タノデ lait condensé ナド買テ食タ 樺山中将へノ返詞ヲ書ク 今夜ハ皆酒ニ酔て大騒ヲヤラカス

1895(明治28) 年1月27日

 一月二十七日 (従軍日記) 朝九時半頃ニ皆々打連て栄城ヲ立チ埠柳村ニ泊る 此間里数凡我三里也と云 埠柳村ニハ画ニ為る可き場所多けれど明日ハ早く立つ事故画ナド描く暇なし 夕方松方 島村 荒川氏等の宿所ニ行き暫時談話シタリ 荒川氏より金米糖ヲ貰フて帰ル

1895(明治28) 年1月28日

 一月二十八日 (従軍日記) 朝起出て見れバ雪ハチラチラ夜の内積たるものと見へて中庭ニつなぎたる馬の背ナド白く為居たり 八時頃ニ立つ 町はづれの河原を行時ナドハ殆んど向風ニテ寒し 道ハ小坂ナレド日本と違ヒ総テ大形故広々として風透よし 併シ此ノ位風が有るお蔭で汗の出方が少なく仕合也 十時頃ニ数発ノ砲声聞ユ 人夫共迄此の音ヲ聞くと目がさめるナ足が独りでニ進むナなど云て行く 牙柊庄ニテ昼飯ヲ食ヒ二時半頃ニ橋頭集と云村ニ着ス 今日の宿ハ昨夜ニ引カヘ大層立派也 今夜ハ床の上ニねる事が出来 此の村ハ昨日占領したるよしニテ村の者共逃げ出たる者多しと見へ我々の宿たる内ニモ家具衣類等も引散し有りたり 敵は此処より二里先ニ居るとか 威海衛ハ此処より直径僅三里也と云 今日歩きたる里数ハ凡ソ二万三千歩也 之レトロンコアより貰たるポドメートルの示ス所也と知る可し

1895(明治28) 年1月29日

 一月二十九日 雪 (従軍日記) 今日四時過に孟家庄迄行けと云命令が下つたニ依り朝起ると直ニ荷造をして出立仕度ニ及びたり 孟家庄と云処ハ僅カ一里半計の処と聞きたれば余り早くも立てず昼過ニ出懸く 昼めしハ渡ラヌノデ芋のうでタノヲ食てごまかす 孟家庄ハ橋頭集より半道計の処也 余りニ早クツイタ故二師団の陣所ナル張家口子と云処を見ニ行 孟家庄の西北一里余の地ニして谷川ニ沿ふたる村ニて山の麓ニ在り 今朝五時頃より二時間程戦ふたる由かたるを聞いたり 先程孟家庄の入口にて村田少佐ニ逢ふ

1895(明治28) 年1月30日

 一月三十日 (従軍日記) 昨夜十時頃伝令使が来て明午前四時半ニ司令官出陣のよし申来る 此レヨリ皆々起出て出発の用意を為し十二時近キ頃ねる 一寸ねむつたと思ふ内に早三時故起出仕度して立つ 暗き故一同余り散るまじと云ふ約束にていつもと違ヒ一と筋ニ為て行く 我々ハ張家口ノ右方ニ見ユル石堂有ル山ノ上ニ居テ戦状ヲ見ル可シと云命故其山ヲ当ニ出懸ク 昨日此ノ張家口迄来て置たお蔭で張家口迄の道ハやみなれど難無く行きたれど石堂の有る山とハどれだか知れず 張家口の入口ノ圃道ノ様ナ小道ヲ右ニ取て行けバとうとう分らなくなる 此の頃ハもう東も白み夜が明た 仕方ナク林君が先登ニテ前ニ見える山に人影ノ見ユルヲあてニ雪に足をすべらしながらもよぢ登る 未だ絶頂ニ達セヌ内ニ大砲小銃の音が聞へ始メタ 前ニ見ヘタ人影ハ露国大佐と池田少佐也 併我々ノ上ル可キ山ノ此ノ山ニアラデ之レヨリ北方凡二千メートル即チ石の堂も此処カラ見レバよく分る也 目ノ前ニ在ル二師団ノ戦ハ其儘ニシテ置キ山の峯ヲ上つたり下つたり大骨折ニテ石堂ノ有ル山ニ登り得タリ 此ノ山ノ名ハフエイテンと云ヨシ 此処ニ致シ時ハ日も地平線上ニあがつて□□(原文不明)石堂ノ片ひらハ黄く為た 二師団ノ戦ハ已ニ片がついたものにや銃声も聞ヘズ 其代りニ直正面ニ見ユル百尺崖処ノ砲台ヲ攻撃スル我艦隊ノ運動がしきりに為て来タ 其内ニ第六師団ト覚しく右手ノ方カラ出て来タル一隊かけ足ニテ川を渡り前進スルナド中々ニ心地ヨシ しばらく有つて我軍艦中ノ一艘ニ煙ガ盛ニ起リ沖ノ方ニ走ル 是正しく敵の弾丸ノ為ニ失火セシモノカ 此ノ様ヲ見タ時ニハ甚ダ残念デタマラナカツタガ間も無ク鎮火セシモノト見ヘタノデ夫で安心した 此ノ山ニ登ル為メ汗ダラケニ為テ仕舞ヒ山の上に来レバ風がヒユヒユ Courant d’air のナンノカンノと云さわぎぢや無ク丸デ氷ニ包マレテ居る様だつた 併し此の戦の最中ニ寒いからと云て逃るわけニも不行 風を引く事ハ覚悟して仕舞つた かれこれして居ル内ニ昼近ク為て腹がへつて来たから石堂ノ中ニ入つて氷ノ如きめしをむしやむしやと食ふ 腹が冷へきつて居ル処へ中から冷やしたので身振が出タ 従軍以来こんな寒い思ひをした事ハナイと山本が云た 此の時ニ敵ノ陸地防御ノ一ノ砲台ニ火が起つたるものゝ如く煙の出ヲ見ル 夫レニ引続キ海岸ニ一と□(原文不明)りの煙上れり 砲声の幽き音聞ユ 之レ海岸ニ在ル砲台ノ一が破裂したるものか 之レヨリ三砲台ノ上ニ立テ有りし旗モ次第ニ見へずなり 砲声も減じぬ 一同打連れて軍司令部の有りと覚しき処ヲ探シ山ノ西方ニ下リ行ク 谷合ノ処ニ到る比ニ向の方ヨリ三十人計の支那人がやつて来ル 赤き被物ヲ被たものなどがいかにも敗兵らしく見ゆるのでいよいよ此の新聞隊ニて一と戦セント銘々レボルベールナド手ニ持チ進ム 近づけバ敗兵どころか此の辺の百姓共が女子供を引連れ大きな包ナドカヽヘテ山へ逃げ込む処也 赤く見へて清兵の軍服と見しハ子供の被物なりけれバ大笑となりぬ 今夜ハ温泉湯と云村ニ泊る 此の辺の土民ハ今迄見しモノヨリ余程従順也 先程山より下りし処の村ニテ誰れか一農夫ニ向ヒ芋を呉れと云ひしニ其者ハ勿論隣家ノ者迄も芋を一と抱へ持て出て来タ 我々の宿をしたる内の者共も親切ニ施す 老夫婦ニ娘一人有り 支那の女ニ似合ハズ我々を少シモ怖れず笑面ナドスルこと感心也 大西庄ノ糞親爺の女房や子供ナドハ我々が逗留して居た間ハチツトモ部屋から出ズ 又栄城ニテハ我々ノ面サヘ見レバワアト泣出スナドどいつもこいつもへんてこな唐人計だつたノニ比ブレバ此家の者共ハ開ケタモノダワイ

1895(明治28) 年1月31日

 一月三十一日 (従軍日記) 今日ハ此処ニ滞在ノ命下りたれバ先づ温泉ニ面洗ニ行 此の温泉と云ハ河原ヨリわき出るものニテ丁度いゝ加減の温サ也 日本ナドなれバ中々こんなニ打すてゝ居る可き処ぢやないが只河原の砂地が半まい敷計くぼめ夫レカラ其湯が川ノ水へ流れ込む様ニ小さナ溝が掘て有る計りナリ 此の温泉が此の地の名と為りし事明也 全体支那の景色ニハオレハ感伏して居ルガ中でも此ノ温泉湯などハ素人も好くいゝ景色也 温泉ノ有る辺カラフエイテンへ向つての景色久米の一昨年京都で描た加茂川ノ画ニよく似たり 少シ写生ニデモ出懸て見様カナド思つて居ル内ニ霰が降り出シ間モ無ク雪と為り風も盛ニ吹き出したから内ごもりと極む 皆ノムチヤニしやれるのなど聞て笑て暮す さてしやれも笑もはたと止で仕舞ヒ皆々考へ込だハ大寺少将と一人新聞記者が昨日戦死したる報ニ接したる時也けり

1895(明治28) 年2月1日

 二月一日 (従軍日記) 昨夜ハ寝て居ル面ニ雪が降りかゝりたるに少シ閉口したり 朝七時少シ前ニ転地の命下る 僅一里計ノ処迄行事故ゆるりと昼めしなど喰て立つ 今日こそは何処を見ても真白也 雪まじりの風ニ面をたゝかれて行 鳳林集ヲ引上げ徐家河方向ニ向フ兵と一緒ニ為り足の運ビ自然よし 虎山ニ至り舍営す 虎山の入口の河原の柳林ナドハ真ニ其儘で立派な文人画也

1895(明治28) 年2月2日

 二月二日 (従軍日記) 雪ハ晴たれど寒さ強し 昨日からしきりニ嚏が出て風気分故今日の滞在ハ至極妙也 養生の為終日内ニ引籠り暮らす 夜食後山本が酒貰ニ管理部ニ出懸け九時過か十時頃ニコニヤク一本をさげて帰り威海衛ハ落チ定遠 鎮遠ハ分取と為たと云ので皆々大ニ喜びさてハいよいよ明日威海衛ニ乗込む事かなと即ちコニヤクを少しづゝ飲ミナガラ帝国万歳を唱へたり 寝る前ニ堀井君より風の薬を一服貰つてのむ

1895(明治28) 年2月3日

 二月三日 (従軍日記) 今朝聞て見れば昨夜の話の中敵の艦隊の降参ハ全く誤ニテ威海衛ニ第二師団ノ二大隊が入り込みたる丈の事と知れ甚だ失望したり 右の次第故前進ハいつの事やら未ださつぱり知れず 今日も昨日ニかハらず咳が出る故終日内ニごろごろしながら Tu seras Soldat を読む 今日ハ寝床の方ニ居る連中が punaises ガ出タト云テ狩を始む 成程矢張仏蘭西辺のピー公と同じもの也 オレ等ハ土間ニ高梁のからを敷て寝て居るから先づ心配少シ 仕合也 午後ニ伊地知中佐が見へて記者連中ニ戦略のあらましをかたり聞かせられたり いよいよ此の威海衛の戦ハ陸軍の仕事ハ遂ニ全ク終りこれよりハ只海軍の仕事のみとの事 又夜食後六時頃ニ藤井少佐が来て今夜ハ海軍が水雷艇ヲ以テ攻撃をする筈故望の者ハ見物ニ行可しと達セラレタリ 即ち皆々身ごしらへを為す オレハ未だ風がよく為らず今此処で山上カ海岸に出テ夜明かしをすると甚だ面白クナイガ皆が行クと云ノニ風引だと云て引込で居るのハ余り残念な話シ 夫レニオレガ此の戦見物ニわざわざ出懸て来たのハ何も楽をしニ来て居る訳ぢやない いよいよ此の病が強く為るものか一番運だめしに行て見んと皆と打連れて出懸 おぼろ月夜ニ雪の道虎山村を出て威海衛街道ニ入り五六町行テ右の方ニ在ル小高き山ニ登りたり 此の山の上ニ野砲四門有り 之レハ去二十九日ニ張家口子ニ在りし我兵を打ちしものならんか 此の山の峯を通りぬけて又一の高き山ニ登り岩山の間ニ座して海戦を見ル事半時計 目の前灯光二つ程見ユ 敵ノ軍艦カ又ハ劉公島の砲台カ 其他ハ只どろりとして居て何も見へず 時々火打石を打つ如クピカリピカリとして砲声聞ユ 之レ所謂海戦者 全体今夜ハいつもより少し暖かナレド山上ト云ヒ夜と云ヒ中々寒シ 遂に連中の内こんな処ニ居ハ屹度病気ニ為ル 夫れニ戦と云てハ余りよくハ見へず 又此の月が有る内ハ水雷艇も進撃すまじ 帰つてハどうだと云ヒ出す者有れば直ニ賛成者が出来急ニ同勢九人と為る 此レも亦時の運と思ヒ皆々一緒ニ虎山ニ帰ル

1895(明治28) 年2月4日

 二月四日 (従軍日記) 高等文官の宿ハオレ等ノ居る家の条向だと云事ハ聞て居たけれど此ノ二日と云ものハ風の気分で引込で居たから出懸ず 今日ハ昨夜の登山ナドニもかゝわらず病気も殆ド全快故一寸話ニ行た 島村 荒川 松方三氏皆お揃ニテいづこも同じく此の不意ナル滞在ニお体屈ノ体也 先生方ノ宿もオレナドノ居ル家より左程立派でもない オレが行て居る内ニ或ル新聞社の野間某と云人が来て大寺少将等戦死セラレタル時の模様ヲ委しくかたりそれから琉球ニ居りしとかにて同国の気候風俗産物等の話ヲ始めたので面白ク長座して帰る 今日メール新聞ノ頭本君帰りくる 氏ハ去ル二十九日より我党を去り行方知れず為つて居りしニ二師団の方ニ行て居て戦闘線ニ出て戦の様子を見て来たとて帰へり来られたり 先ハ或ル新聞記者が戦死せシト聞し時ニハ大層心配したが先無事で結構 夜越智君が友人ニ鯉ノ滝上りト金杯と云芸ヲスルモノ有リト云話をして皆大笑す

1895(明治28) 年2月5日

 二月五日 (従軍日記) 定遠 鎮遠が取レヌオ蔭デ此ノ虎山ニ無限滞在スルコトトハ為ル 又虎山ト云処ハ極の寒村ニテ土民ハ皆逃テ居ラズ 何モ徴発スルモノナク食物ハ段々麁末ニ為ルノデ皆々閉口 中ニモ山本ノ酒ノマワリガ悪ク為ルノデ毎日其事計云テフサイデ居ルサマいかニも憐也 ダガ今日ハ奴ガ大ニ憤発シテ大根ノ中ニ鶏ヲ入レテ煮テ食ハセタ 非常ニ甘カツタ 食物ノ粗ナルヨリ馬小屋ニネルノ苦シサヨリ何ヨリ感心セヌモノハ多年来オレヲクルシメタ例ノピー的ダ 此ノ名ヲ支那語デチユートンと云フ 臭虫と書ク也 此ノ虫ニ苦シメラレテ尤モヨワツタモノハ天野君也 今夜引越ヲヤラカシオレの隣ニ来て土間にねル オレハ始カラ土間ニねて居たが為カ一度一寸手首ヲヤラレタ計デ何ヨリうれし 此の家ノ庭カラ前ヲ見タ景色ハドコと無ク Jouyen Giosas ニ似テ居ル 只ジユイでハ谷ノ向ガ岡ニ為テ居ルノニ此処でハ山ニ為て居ル そうして此処ニモ Pluplier d’italie ノ様ナ形ノ木が沢山生テ居ル ダガ形ガ似て居ル丈デ何ノ木ダか分らず 薪用ノモノカ余り大きく為たノも見当らぬ也 ネヨウトスル時久保田米斎と云画師が日本より来る 田島彦次郎君が一軍ノ方へ行ノデ同船して来タトノ話 此ノ人ガブランデーヲ少し持て居たノデ山本黄キ声を出シテ喜ブ 今晩少シモ砲声ヲ聞カズ

1895(明治28) 年2月6日

 二月六日 (従軍日記) いよいよ我水雷艇が功を奏して敵艦二艘をしづめて仕舞つたとの事 これハ一昨夜と昨夜ノ二度ニやつたよし 又此ノ戦ニハ我方ニモ水雷艇が二艘程傷ついたとか云へど之レハ明ナラズ 先ヅ此ノ日ハ無事ニすみ夜食と云段ニ為た時酒が渡り其酒が不充分と云時ニ管理部の或ル軍夫が来 其人ニなき付き又酒を得 遂ニ其人も一緒に酔はしめ長じりと為り酔ハぬ連ハ甚だ閉口した 明朝七時より海陸総攻撃と云事が参謀部より達し来りたるに依り其積ニてねる

1895(明治28) 年2月7日

 二月七日 (従軍日記)〔図 写生帳より〕 同宿ノ者皆少シ寝過て六時半頃ニ起出で芳翠老ノ仏蘭西流のソツプを飲み出懸く 此時ハ已ニ大砲の音が聞エ始めたが先夜登りし山の麓ニ至る頃ニハ敵方よりの砲声が小銃の打合程頻り 実ニ盛也 山の上ニ上り付きしばらく立てO島の砲台ニ火上ル 火楽庫ノ破裂と見ユ 此ノ頃より七八艘の軍艦が祭祀砲台ノ前がわの方ニ集りたり 此ノ時一と条の黒煙を長く引て北山嘴ノ鼻を過ぎ走る軍艦ヲ見る 此ノ舟が山影ニかくれたる頃ニ又一の軍艦劉公島ノ後ニあらハれたり 之レ我艦が敵ノ北ルヲ逐ふモノカ 此れより砲声も静りけれバ今日の戦ハ大体此ニテ終りたるならんと思ひ遙かあなたニ見ゆる此辺で一番高き山の上ニ司令官の居らるゝ様子故其方ニ向ヒ行く チリチリニ分れて出懸けシ我党の者共も皆此処ニて合ス 又松方君 ドラブリー氏等に逢フ 十一時過ニ司令官ニついて山を下り宿所ニ帰る 帰て庭の大がめの上ニ馬乗りニ為て何か山本と話をして居る 山本ハ舍栄営して居る時ニはく為ニ金州から持てきた広島出来のセツタト下駄の相の子の様ナはきものゝ鼻をしたてゝ居る処ニ工藤がやつて来たので今朝のソツプを飲ます 其ソツプから直ニ話が巴里と為つた 今日ハ極テ長閑ナ天気 夫レニ今朝の勝戦と来て誠に心地よし 松方君が見へて一緒ニ散歩ニ出懸く 司令部の前で軍楽隊が諸国のたのしきふしの楽を奏して居たのでしばらく聞て居た 後松方君の処ニ行く 色々ナ話して帰る 晩めしニ酒も少シ飲ミよきかげんのはだ具合で庭ニ出てドウモいゝ月ぢやナイカなど云て二三人で話して居る処ニ一人郵便を受取て帰り黒田君ニも有ると云て出すのを取て見れば金州で急ニ別れた奈良崎君が広島よりよこした手紙也 委しき手紙ニて甚だうれし 再び第二軍ニ従軍する事叶ハずして第一軍の方へ行事と為た次第 真ニ気ノ毒也 北京で逢ふとハ云て来たがオレハ威海衛から帰朝する筈故とても今しばらくハ逢事叶まじ (欄外 山東ニ来て今日始めて音楽を聞)

1895(明治28) 年2月8日

 二月八日 (従軍日記) 昨日沖合を北ニ向て走りたる二艘の軍艦ハ敵身方と見て取たれど素人の身そこないニてあれハ我巖島 扶桑の二艦が敵の水雷艇を逐ひたるなりと知れたり 水雷艇ハ皆申合セ本艦を見捨て芝罘を指してにげ出シタルニ十三艘丈ハ我が手ニ入ル 内ニ艘ハ歩兵が取り一艘ハ工兵が取ル 陸兵が水雷艇を取ルトハ随分奇也と謂可シ 十三艘我手ニ落タリトハ云ものゝ逐かけたる時打沈メテ我有と為りシハ七ノミ 今日ハ戦の翌日ニて例の如く天気美しからず 併降ると云迄ニ至らず 朝工藤の処ニ話ニ行た アヽ昨日こソハたしかに威海衛の掃除が出来た事かと思ひの外未だ敵ハ戦闘力を失ハぬとかニテいよいよ此処ニ滞在ハ長引わい だが何もする事なく暮すのハ日が立つて見れバ幾日居ても一日の如き心地がするが本をひろげて見たりとろとろといねむりをしたりして居る内ニ早晩めしと為た 此処の庭ニ繁で有る驢馬と似た様ナものさ 此の陣中のめし時と云ものハ格別ナもので餓鬼道ニ落たと云ハ此の事か をし合をし合してめしをつけたり汁をよそつたりする様 Théâtre Français の木戸口ニ異ナラズ 其筈サ 十四人も居ル丈夫な二才衆が食事の外楽が無いと来て居るのだものヲ 食後四五人でたき火ニあたつて居た処ニ副官部の伊豆大尉が見へて話が面白クナツタ 栄城ニテ強姦シタル兵士ノ事から軍法会議の事ニ移り夫レカラ或る週番士官が下士を打タルコト 其処で山本が話を引受ケ或ル兵が煙草をのんでとがめられ口から出ル煙ハナンダト云ハレテどうりで胸がやけると思ひましたと落して仕舞つた

1895(明治28) 年2月9日

 二月九日 (従軍日記) 朝村田少佐ヲ訪ひ船便の事を話す 山本 林の似氏昼めしを食て直ニ威海へ立つ 夜食後原田君も威海へ行 皆ゝ此の永逗留ニ体屈し始めたのだ オレもいつ迄もこうして居られぬから船の都合ニ依テハ帰つて仕舞ンかと思ひ今朝村田氏ニ頼で置たら藤井少佐が引受たとの事故今夜司令部内の参謀部ニ行藤井氏ニ会フ 船便を聞たら明朝分るとの事 今日ハ久し振で水彩ノ景色ヲかきニ出て夕方帰る 堀井君が山本ニ代りて管理部長と為り料理をやらかす 非常ニ甘き味噌汁ナドが出来た 此事を妻君ニ云てやりたいものだナドト雑談を云てめしを食ひ酒を飲む 二人人がへつたので余程ゆつくりとし座てめしヲ食た 例の如くしやれやら又盛ニうぬぼれ話ナドが出て面白シ 今夜雪が降り出シ夫ニ月ハよく寒い景色也

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