本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1895(明治28) 年1月30日

 一月三十日 (従軍日記) 昨夜十時頃伝令使が来て明午前四時半ニ司令官出陣のよし申来る 此レヨリ皆々起出て出発の用意を為し十二時近キ頃ねる 一寸ねむつたと思ふ内に早三時故起出仕度して立つ 暗き故一同余り散るまじと云ふ約束にていつもと違ヒ一と筋ニ為て行く 我々ハ張家口ノ右方ニ見ユル石堂有ル山ノ上ニ居テ戦状ヲ見ル可シと云命故其山ヲ当ニ出懸ク 昨日此ノ張家口迄来て置たお蔭で張家口迄の道ハやみなれど難無く行きたれど石堂の有る山とハどれだか知れず 張家口の入口ノ圃道ノ様ナ小道ヲ右ニ取て行けバとうとう分らなくなる 此の頃ハもう東も白み夜が明た 仕方ナク林君が先登ニテ前ニ見える山に人影ノ見ユルヲあてニ雪に足をすべらしながらもよぢ登る 未だ絶頂ニ達セヌ内ニ大砲小銃の音が聞へ始メタ 前ニ見ヘタ人影ハ露国大佐と池田少佐也 併我々ノ上ル可キ山ノ此ノ山ニアラデ之レヨリ北方凡二千メートル即チ石の堂も此処カラ見レバよく分る也 目ノ前ニ在ル二師団ノ戦ハ其儘ニシテ置キ山の峯ヲ上つたり下つたり大骨折ニテ石堂ノ有ル山ニ登り得タリ 此ノ山ノ名ハフエイテンと云ヨシ 此処ニ致シ時ハ日も地平線上ニあがつて□□(原文不明)石堂ノ片ひらハ黄く為た 二師団ノ戦ハ已ニ片がついたものにや銃声も聞ヘズ 其代りニ直正面ニ見ユル百尺崖処ノ砲台ヲ攻撃スル我艦隊ノ運動がしきりに為て来タ 其内ニ第六師団ト覚しく右手ノ方カラ出て来タル一隊かけ足ニテ川を渡り前進スルナド中々ニ心地ヨシ しばらく有つて我軍艦中ノ一艘ニ煙ガ盛ニ起リ沖ノ方ニ走ル 是正しく敵の弾丸ノ為ニ失火セシモノカ 此ノ様ヲ見タ時ニハ甚ダ残念デタマラナカツタガ間も無ク鎮火セシモノト見ヘタノデ夫で安心した 此ノ山ニ登ル為メ汗ダラケニ為テ仕舞ヒ山の上に来レバ風がヒユヒユ Courant d’air のナンノカンノと云さわぎぢや無ク丸デ氷ニ包マレテ居る様だつた 併し此の戦の最中ニ寒いからと云て逃るわけニも不行 風を引く事ハ覚悟して仕舞つた かれこれして居ル内ニ昼近ク為て腹がへつて来たから石堂ノ中ニ入つて氷ノ如きめしをむしやむしやと食ふ 腹が冷へきつて居ル処へ中から冷やしたので身振が出タ 従軍以来こんな寒い思ひをした事ハナイと山本が云た 此の時ニ敵ノ陸地防御ノ一ノ砲台ニ火が起つたるものゝ如く煙の出ヲ見ル 夫レニ引続キ海岸ニ一と□(原文不明)りの煙上れり 砲声の幽き音聞ユ 之レ海岸ニ在ル砲台ノ一が破裂したるものか 之レヨリ三砲台ノ上ニ立テ有りし旗モ次第ニ見へずなり 砲声も減じぬ 一同打連れて軍司令部の有りと覚しき処ヲ探シ山ノ西方ニ下リ行ク 谷合ノ処ニ到る比ニ向の方ヨリ三十人計の支那人がやつて来ル 赤き被物ヲ被たものなどがいかにも敗兵らしく見ゆるのでいよいよ此の新聞隊ニて一と戦セント銘々レボルベールナド手ニ持チ進ム 近づけバ敗兵どころか此の辺の百姓共が女子供を引連れ大きな包ナドカヽヘテ山へ逃げ込む処也 赤く見へて清兵の軍服と見しハ子供の被物なりけれバ大笑となりぬ 今夜ハ温泉湯と云村ニ泊る 此の辺の土民ハ今迄見しモノヨリ余程従順也 先程山より下りし処の村ニテ誰れか一農夫ニ向ヒ芋を呉れと云ひしニ其者ハ勿論隣家ノ者迄も芋を一と抱へ持て出て来タ 我々の宿をしたる内の者共も親切ニ施す 老夫婦ニ娘一人有り 支那の女ニ似合ハズ我々を少シモ怖れず笑面ナドスルこと感心也 大西庄ノ糞親爺の女房や子供ナドハ我々が逗留して居た間ハチツトモ部屋から出ズ 又栄城ニテハ我々ノ面サヘ見レバワアト泣出スナドどいつもこいつもへんてこな唐人計だつたノニ比ブレバ此家の者共ハ開ケタモノダワイ

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