本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年9月24日

 九月二十四日 木 堀江松華君が京都からやつて来た 昼めし後ニ菊地が来てそれから一緒ニ出てオレハ橋口家へ行き又清秀の家ニ立寄り四時過ニ内へ帰た それから小督の画ニ手をつけ五時半頃ニ合田が来たので一緒ニめしを食ひぶらぶら出かけて山王山ニ登り Toyo を呼で話の相手ニした 又おそく為つてから例の Riz が小さな手下を一人連て来た 十二時近く為つて帰る

1896(明治29) 年9月25日

 九月二十五日 金 朝学校ニ出 昼めしハ精養軒で藤島の御馳走ニ為る 帰りがけニ藤島の下宿ニ寄り面白い水絵を沢山見一時間程遊で帰る 五時前迄小督の画をかきそれから合田の処ニ行た 菊地ニも出逢つた 三人連でオレの今度の手本の内ニ雇賃を払ひニ行 菊地ニ別れて合田と二人ニ為りバンブウ的家でめしを食ひ十二時過までゆつくりして帰る かなり甘く出来上つた nom de plus dans mes souvenirs.

1896(明治29) 年9月26日

 九月二十六日 土 終日内ニ居て勉強した 朝吉岡が一寸て今夜万安で堀江君へ御馳走するから来ないかと云ので夕方から出かけた 丁度出る時ニ佐野が来て白馬連が今夜集る事を知らした 万安に八時頃まで居てそれから連中の処ニかけつけた 今夜の集合ハ山王山の楠本だ 岩村 小代 佐野 久米 合田等

1896(明治29) 年9月27日

 九月二十七日 日 美術学校の生徒平子某が八時半頃ニ来 それから長原孝太郎 比留間賢八 菊地 吉岡 堀江等が来た 堀江 吉岡の二人と東京倶楽部で昼めしを喰ひ三時頃まで話した 帰りがけニ磯谷ニ寄つて縁の催促をした 内へ帰つて居た処ニ Papa が見へたから家を建て直す事の話をした 合田が来て夕めしを Maman と合田とオレと三人で食つた 食後合田と散歩ニ出かけ赤阪をぶら付た末山王山ニのぼり十二時頃迄話した 帰り途ニ面を知て居る芸姐二人ニ出逢た

1896(明治29) 年9月29日

 九月二十九日 火 朝八時ニ久米が来 展覧会の話をしそれから学校ニ出た 昼めしハ合田 藤島と一緒ニ食た 食後会場ニ行き和田なんかと皆で布張りの下知などして夕方近く為りかゝつた 松阪屋ニ又布の注文ニ行き藤島ニ別れて合 和の二人と三人連で鉄道馬車で銀座まで来て合田の親類の内ニ一寸立寄り遂ニ紅葉の出見世で晩めし 地蔵の縁日の植木を冷かし又箱館屋で水をのみぼつぼつ帰つた

1896(明治29) 年9月30日

 九月三十日 水 雨 北蓮蔵が一寸来伊藤が建築の事で来て昼めしを食て帰る 三時半頃ニ久米が来一緒ニ出懸く 今日ハ白馬会員の寄合を芝浦の大野屋でやらかす 総勢二十人計で大ニ賑かだつた 内へ帰つたのハ二時に近かつた

1896(明治29) 年10月1日

 十月一日 木 雨 九時半頃ニ起きた 白尾氏が来られて昼めしを一緒ニ食つた 二時頃から出て西園寺侯へ名札を出し八官町の時計屋に行き溜池の合田の処で佐野と出逢ひ佐野 合田 菊地と米福で晩めし 米 豊の二人がお相手を勤めた 十時半頃ニ内へ帰る 帰つて見たら白馬会が展覧会を開く事の許可が下つたと云事を日本美術協会から知らして来て居た

1896(明治29) 年10月2日

 十月二日 金 堀江君 関君が見へ久米が来て展覧会の相談をし仕事の手別をした 午後雨が降るのニ宮内省ニ出かけて行て御物拝借の事を云て来た 大臣不在ニてむだ 明治美術会の会頭ニ出逢つたのハ尤奇也 夜食ハ合田 佐野の三人と Collin Fertile でやらかす 後米 豊間の大破裂を見る 甚だ興有り

1896(明治29) 年10月3日

 十月三日 土 少しく雨 九時頃から学校ニ出かけ引つゞいて展覧会場へ行く 途中高橋源吉氏ニ出逢ひ氏の開かるゝ画の陳列場を見た 久米 岡田の三人と一緒ニめしを精養軒で食ふ 食後和田 岩村 佐野 小代等が集り会場で暗くなる迄仕事をした 丹羽林平も加つた 又長原 岡等も手伝した 長 岡等ハ帰り残りの者で銀座の松田でめし食ひ箱館屋ニも這入十時過ニ内へ帰る

1896(明治29) 年10月4日

 十月四日 日 伊藤源が来又菊地が Homer の頭を持て来てくれた 合田と一緒ニ上野の白馬会展覧会場へ出かけた 飾附けや陳列の仕事で夜ニ為つた 今日来たのハ久米 岡田 和田 今泉 白瀧 小林 丹羽 長原 湯浅等也 菊地も来た 合田 久米 菊地と四人連で帰つて来る時ニ出逢ひ五人連で達磨に這入る 合田 菊地と三人で銀座をぶら付赤阪を廻つて内へ帰る 道が非常に悪かつた

1896(明治29) 年10月5日

 十月五日 月 九時ニ合田が来て起された 三十分位話をして帰る それから上野の会場ニ出かけた 関が来て居て話をした 十二時近く為つて磯谷が見へ昼後はズツと額かけをした 仕事ニ来た者ハ和田 岡田 白瀧 湯浅 久米 丹羽林平 大内鉄也等 丹羽礼介も手伝つた 仕舞つてから小林も見へた 帰りニ久米 丹羽 岡田 和田 小林 白瀧と磯谷を案内として日本橋の丸花でめしを食つた 皆ニ別れて久米と和田と三人で箱館屋で休みびしよぬれで帰る 九時半

1896(明治29) 年10月6日

 十月六日 火 矢張天氣が悪い 朝伊藤が来て居る処ニ鮫島武二郎が来た 武二郎ニハ十六年振で逢つた 学校ニ行き昼めしハ白馬会で弁当を食ひ看板かきや額かけで夕方ニまで仕事をして帰りがけニ小代 今泉 小林 丹羽 大内 合田と七人連で鳥又ニ這入つた 食後合田 小代と三人ニ為つて車を飛して溜池の Collin Fertile ニやつて来て十二時頃までゆつくりして帰つた

1896(明治29) 年10月7日

 十月七日 水 昼頃から霽れた 朝白瀧が画を見せニ来た 十時頃ニ会場ニ行た 山本と寺山をのぞいて会員ハ大抵集つた 十二時少し過ニ記念の為ニ写真を取つた いよいよ今日から見物人を入れ始めた 三時頃ニ佐野や久米と帰つた 佐野ハ直ニ内へ来た 夜が入つてから小代と久米が来た 四人連で赤阪の Yoné-Foukou でめしを食ひ食後ニ佐野と久米が玉突を一番するのを見てそれから久米と一緒ニ帰る 十時半頃

1896(明治29) 年10月8日

 十月八日 木 珍らしく晴た 小督の下画ニ終日費した 午後の二時頃ニ世界の日本の島田と云人が来てしばらく話して帰る 夕方ニ合田が来た 一緒ニ出て先づ写真屋成田で昨日写した写真の出来を見時計屋小林で直しニやつた時計を受取りそれから烏森のすし鳥でめしを食た 伊藤源三を呼だ 十時過までひつかゝつて合田と二人でぼつぼつ歩いて帰る 赤阪で目高が大きな麩ニたかつたと云狂言ハ不思議

1896(明治29) 年10月9日

 十月九日 金 今朝父上がお出ニ為つた 学校ニ行き十二時過ニ会場へ行く 関君ニ逢つた 二時頃ニ出て美術協会へ画を見ニ行く 逢つて話をした人々ハ佐野伯 田中子夫婦(Mme 田中ニハ実ニ久振で逢つた)有賀 監田 それから頼まれた事で世界の日本の雑誌社ニ行く 銀座の通で大山綱介氏ニ出遭つた 当時鎌倉ニ住居の由 東京病院ニ井上を訪ふたら留守 内へ帰つて知人の老人達へ招待券をくばる 合田が来て一緒ニ内でめしを食ひ食後久米の内ニ二人で出かけて十時半頃まで話た

1896(明治29) 年10月10日

 十月十日 土 起て見たら伊藤が来て居た 又世界の日本の島田氏が来た 菊地も来た 菊地と伊藤と三人で昼めし 今日は雨が中々盛だ 昼後勉強した 伊藤ハしばらく居た 菊地ハ水画などかいた 夕方ニ佐野と和田が来菊地と四人連で赤阪米福へめし食に行く 合田も来た 二人競争の美人が来不思議な順序で現ハれ一寸面白く行た 十一時過まで居て帰る 菊地と合田が内へ来て泊る

1896(明治29) 年10月11日

 十月十一日 日 久し振の天気 菊地ハいつの間ニかえつた 学校の生徒が一人来た 昼前文蔵さんが見へ一緒ニ合田と三人連でめし 二時過から夕方まで勉強 此間ニ来たものハ清秀 尾花氏也 夕方ニ合田が来一緒ニ内でめしを食た 後久米と岩村が話ニ来た 十一時頃ニ皆が帰るので一緒ニ出て赤阪から清水谷を通り麹町へ出て三十分間程散歩して帰る

1896(明治29) 年10月12日

 十月十二日 月 朝伊藤が来 又橋口氏が見へた 鹿児島橋口氏の望を取次ぐ 源三と一緒ニ昼めし 一時半頃ニ合田 田中が来た 皆一緒ニ去り二時過から勉強す 三島弥太郎氏が来て一寸話して帰る 晩めしニ合田が来て一緒ニ散歩ニ出かけ山王山ニも登り遂ニ Collin ニ休む 襲撃的運動を試みるもの有り 大ニ興をそへたり 一時頃帰る

1896(明治29) 年10月13日

 十月十三日 火 八時前ニ島田氏ニ攻撃され九時半頃橋口氏を訪ひそれより学校ニ行く 昼めしハ会場でやらかす 二時頃ニ内へ帰り大工を呼で見積書を取り三時頃から暗くなる迄仕事した 佐野が来合田が三人で Au Bonheur du Riz でめしを食ふ Riz がやつて来話が子供をすくのきらうのと云事から過去のアムールの様な話ニ移り面白く時が立ち雨ををかして帰つたのハ十二時頃也

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