1887(明治20) 年8月10日


 八月十日 朝曇 水曜 (トレポール紀行)
 今日はトレポールヘ出発スルニ依リイツモヨリモ余程早ク起キ出テ七時前ニ仕度全ク終リタリ 七時ニなるや否馬車ヲ呼ヒ来リ之レニ乗シテガアルヂノール(北停車場)ヘ行キタリ 途中サンミシエールノ橋ヲ渡る時時刻マダ早ケレバ花ノ市ヲ出シ居リタルヲ見テ取リ敢ズゴマカシケル
  我心早いなかにや行きにけんみやこの花ハ目につかぬかな
 停車場ニテ婆様ガ其孫ヲトレポールニ手バなしてやるとて其娘トモ覚シキ三十六七歳ノ者ト三人ヅレニテ互ニ口ヲスヒ合ヒテベソベソトなき出しければ老人婦女ト云モノハ奇タイナ者かなと思ヒながら狂歌ノ出来ソコないノ様なモノヲ作り出しける
  ばあさまにまごとむすめと打揃ひ共にしかめし面のおかしき
  孫の面我がくちびろにおしあてゝあとはなみだにくるゝばあさま
 気車ノ賃ハ中等ニテ十六仏九十仙也 此ノ八時二十分発ノ気車ハ急行故上等ト中等ノミニテ下等ハなし 気車の中にてたいくつの余り色々歌など考へし中離別と云事ヲ思ヒ出シ
  学ふ事なき旅なれバ皆人ハゑみて別れをつぐる今日かな(之レハ日本ナドヲ出ル時人ガカナシムハ学問ヲシニ行クカラノ事 学問ヲシニ行クタビヲカナシミシカラザルヲ笑フトハ奇ト云積ナレドモ云ヒ出ス事不能)
  出車ノ時西洋人等ガ口ヲスヒツヽ告別スルヲ見テ焼餅半分ト云フヲ題トシテ
 人は口をすひつゝ別るヽに見送るものもなき我れぞうき
 右ノ如ク色々ト馬鹿ナ事ヲ云ヒツヽ又ハかくしノ中ニ入れ来りたる古今集をよみなどして居ル内気車ハ早トレポールニ着シたり 時ニ十二時也 途中ノ景色ハ妙ト称す可キモノ一ツモナシ 只麦田ノ中ヲ走リ通リたルノミ 今折角麦刈時也 気車より下り荷物ヲ番所ニあづけ置キ直ニ海辺ニ出デゝ見タルニ此ノ辺ノ海ノ色ハ一種特別ニシテ非常ニ青ク又緑(コユキ方)ナリ 之レヨリレール氏ヲ指シテ行キタリ 途中第二ノ橋ノワキニテレール氏ノおばあさんとレール氏娘さんとニ出デ遇ヒタリ 二人共僕ノむかひニ停車場迄わざわざ来りしニ僕ニ出遇ハズ不平ニテ帰ル所ナリシト云 其深切ナル志アルニハ感心仕タリ 之レヨリ三人打ツレテレール氏方ヘ行キタリ 主人ハ用事アリテ巴里ヘ一寸帰リタリトテおかみさんだけなりし 直ニ御膳ノ御馳走ニナリソレカラ娘イバナさんがピヤノヲ一寸ヤリ又歌など歌ふて聞かせたり おもしろし妙なりと云て謹而拝聴せり ソレカラお娘さんも奧様も奇麗におしたくをなされ僕を海辺見物ニにつれて行キタリ カジノ(音楽ヲスルヤラ舞踏ヲスルヤラシテ遊ブ所ノ名)ノ中ニ休息シ音楽などを聞キメシ前ニ帰宿セリ 此ノ海水浴ニ遊ビニ来テ居ル人ハ皆かねモちト見エ実ニ立派ナ衣物ヲ被テ居ルナリ 併シ面ハ一ツトシテ見ルニ足ルモノナシ コレハ他分金満家ノ娘ノ売れソコナイナドを売りつけにつれて来て居ルノデハアルマイカ タトヘ皆ハ右ノ如クナラザルニセヨ過半ハ売附ケノ方ラシイワイ 遊ビ事ハ音楽ヲ聞クカ踏舞ヲスルカ金ヲカケ勝負遊ヲスルカ水ヲアビルカ驢馬ニテノソノソト近辺ノ田舍ヲウロツク等不風流ナ遊ノミニテおぢようさんカ華族ノむす子ニハ至極適当ならんト存ズ 若シコノ地ニレールノ一家なかりせバ僕ハ一日モ滞在スル気ハナシ 此ノ地ハ巴里ニ比スレバよほどすゞし 海辺などハさむき程也 巴里之昨日ノアツサヲ今日半日ニテ洗ヒ切リタル心地ス 此ノ地デ見ルニ足ルモノハ海岸ノ絶壁ナリ 高サ数丈見事ナリ 夜食後其絶壁ノ上ニ昇リ見タリ 海ノ景色かなりキレイナリ 已ニウスグラクナリシ故人一人モ不居 ソレヲ幸ニ大声ニテ歌など歌ヒナガラ少シク歩行セリ 気分昼間ニ比スレバ余程愉快なり 此ノ岡ヲ下リ隣邑なるメルストカ云処まで行キ帰りて後カジノノ周囲ヲ一回シ帰宿セリ 時ニ九時半頃ト覚ユ 下宿屋ハホテルヂコンメルストト云ヒコンメルス町ニ在リ 下宿料一日六仏五十仙トレール氏ノ妻君が相談ヲ付ケ呉れたり 之レヲ此処迄書キタル時ハ十一時十五分計前也 イザヤ寝床ニ入らん 只心配ニナルハ例ノ虫ノミ 今日久米 川路君へあて端書一枚出したり

同日の「久米圭一郎日記」より
Ce matin Kouroda est parti au Tréport.

(和訳)八月十日 水曜日
今朝、黒田がトレポールに旅立つ。

8/10 Mercredi