1901(明治34) 年3月13日


 三月十三日 水 晴 ミユンヘン (欧洲出張日記)
 仕合にいゝ天気だ 電鉄に乗つて河の近くまで行き川向ふのマキシミリヤネオムといふ大きな宮殿を見に行たがしまつて居て中を見る事は出来なかつた 中々いゝ位置の処に建てゝある家だ 又電鉄で一と廻りやつてクリプトテクといふ希臘の彫刻物の集めてある処を見た 又其真前の家で今セセツシヨン(コンプレシヨニスト)の展覧会が開会中だからそれも序に見た 夫れから宿屋へ帰つて土地風にヂネーをやつた 食後にはぼつぼつ歩いてバウヱリアと名くるつまり此の国を代表して居る女の其全身は三丈余もあらうかと思ハれる大きな銅像のある処まで行く 其銅像の立つて居る処の前は周囲一里もあらうかと思ハれる広い練兵場の様な原だ
 さすがに独逸は当時日の出の大国だ 伊太利亜などでは只古いものを種にしてお客を取つて居ると云姿であんなに立派な美術品を沢山持て居ても其れを見て利益を得るのは外国人で自分の方では只番人をして居るに過ないで一向大家を出さない 先づ美術のなんのかのと云事はさて置き伊太利亜の方には総て活気がない 羅馬では大きい裁判所などを造りかけてハ居るが何をして居るのだか殆んど中止の体でぐづぐづして居る 又フロランス其他の市でハ只の住居でも造りかけて居るやうな家は丸で見かけなかつた それに反して此処ではどしどし新築して居る 町はますます広くなり立派になる 又今見た大仏でも作としてハ或ハ伊太利古代の一小品にも及ないかも知れないがそれハそれあれハあれで兎ニ角こんなでか物をこしらへるといふ元気が面白いぢやないか 此のミユンヘンは美術は中々進だ処だといふ事だ 彫刻絵画等の為めに立派な陳列館などが有るが其元をたづぬれバ先代の国王が美術好で自分の楽の為めに千八百年の始頃世間は戦などでがやがややかましくやつて居る間のいろいろいゝものを買ては集めたのがそもそもの始まりであるそうだ 早く日本もせめて此位までにハ漕ぎ着けたいものだ 吾々には王様の金力はないが同志の者が十四五人もあるしやつゝけやうと云ふ熱心が有るからナ 併し実際のところ上に有力の人が居て奨励して呉れなけれバ進みが悪い事ハ知れた事だ
 今夜はスーペーをやつた 後九時頃から久米と二人で市中へ散歩に行たがもうお祝も済だのだし此の地の習慣と見へて見世は大抵閉て仕舞つて淋みしく昨夜とハ大層な違だ
 此のミユンヘンで他の国と少しく異なつて居るものが今一つ気に付いた それハ女を労動に使つて居る事だ 家の建築をやつて居る処で煉瓦積の手伝に女が仕事をして居た 又往来の掃除や電鉄の線路掃除の役は皆女だ 是等の女は皆一様に帽子を頂て居る 萌黄色の極平たい羅紗の帽子だ