1896(明治29) 年10月14日
十月十四日 水 春陽堂が来伊藤が来合田が来又世界の日本の中島とか云人が来た 一人で昼めしを食ひ仕事を始めた 晩に合田が来一緒ニめしを食つた 丁度食つて仕舞つて居た処ニ松波が来た 奴ハ一人でめし それから外ニ出て田島屋と云ニ上る 久米と岩村が後からたづねて来た 遂ニ五人と為つた 十二時半頃ニ内へ帰る 今夜松波が来て泊つた
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
十月十四日 水 春陽堂が来伊藤が来合田が来又世界の日本の中島とか云人が来た 一人で昼めしを食ひ仕事を始めた 晩に合田が来一緒ニめしを食つた 丁度食つて仕舞つて居た処ニ松波が来た 奴ハ一人でめし それから外ニ出て田島屋と云ニ上る 久米と岩村が後からたづねて来た 遂ニ五人と為つた 十二時半頃ニ内へ帰る 今夜松波が来て泊つた
十月十五日 木 伊藤が来た 九時過から学校ニ出かけた 途中で藤島の病気見舞をした 展覧会場で昼めしを食た 弁さんが来た 二時前ニ内へ帰り間も無く仕事ニ取りかゝり夕方までかゝつて一通り仕上げた 暗くなつてから久米 佐野 合田が来た 三人で田島屋ニ行く 松波も直ニやつて来た めしを食つて例の如く雑談や悪口 米 豊が来た 九時過ニ米去る そうすると座敷の入用が有ると云て逐立てられ大の男五人の出て行ざまのおかしさ 大不平で C.F. に入る
十月十六日 金 晴 今朝小督の画の下画を皆出すので磯谷が来た 十一時頃から会場ニ出かけた 安藤が来て居た 又岡倉氏ニ出逢つた 午後ニ陳列を済ませ合田 小倉 安藤 丹羽 岡田 湯浅等々達麿でめしを食た 安藤ハ久し振ニ東京ニ帰つたので外の人達ニ別れて合田と三人で Bords du Lac ニ出かけをそく迄遊び合田と番町の方を廻つて帰つた時ニハ一時過だ
十月十七日 土 晴 起たら伊藤が来て居た 又岡田が来た 時ニ九時 新築の縄張など見た 十一時頃ニ安藤が来た 十二時前ニ新二郎の友人某氏が来て逢つた 昼めしハ安藤と岡田と三人でやらかす 安藤から貰つた京都の茸を食ふ 午後三人でぼんやり色々な話をして過した 夕方ニ合田が来て岡田ハ帰り三人で C.F. でめし 一時間も立たぬ内ニ佐野が尋ねて来四人ニ為つた 今夜ハシヤントウズ Riz が大ニ酔て甚だ面白し 安藤ハ十時頃ニ去りオレ等ハ興ニ乗じて長くなり二時ニ内へ帰る
十月十八日 日 夜雨 母上昨夜お泊りニ成り今朝おめニかゝつた 十時過から杉の内ニ行き五一君ニ逢つた しばらく面白く話し内へ帰つたら合田が来て居た それから秋山が来又藤島が来た 皆食後だからオレハ独で一時頃ニ食事 合田と二人ニ為つて三時頃から佐野の処ニ出かけ留守で高輪へ行く 小代と佐野に逢ひ四人で岩窟でめしを食ひ探検などして十時半の汽車で東京へ帰る
十月十九日 月 晴 伊藤が来た 学校ニ出て岡倉氏ニ面会 教場を見廻り展覧会場へ一寸寄り精養軒で昼めし 又会場へ行つた 此時和田秀豊が外国婦人と一緒ニ来て居て紹介された 帰り途ニ久米の内へたち寄つた 久米ハ少し病気 橋口家ニ一寸寄つたら皆留守 合田がやつて来て一緒ニめし 十三夜で月ハよし山王山ニ登り Riz を招き一時頃まで馬鹿を云て帰る
十月二十日 火 終日内ニぶらり 午後石原助熊氏が見へ夕方ニ合田が来一緒ニめしを食て佐野の処へ出かけた 少し雨が降つて来た 途中で帝釈の縁日の処で小代ニ出逢ひ三人で佐野の処ニ行た 又引出して小代のアトリエに行た 岩村もやつて来て宗教などの話で十一時半頃まで話た 赤阪を通る頃余り腹がへつたので合田とそばやニ這入つた 一時過ニ内へ帰る
十月二十一日 水 学校ニ行き岡倉氏ニ逢つて学校用の画を今朝送り出した事など話し白馬会場で高橋勝蔵とめしを食ひそれから浅井の処から安藤の処ニ行た 安藤は留守で四時半頃ニ内へ帰つた めしを食ひ仕舞つて居たら合田から手紙が来て米福ニ行く 安藤 合田 菊地 佐野等が集つて居た 第二次会を C.F. で開く F連と十二時過まで居て又帰りがけニそばやニ立寄つた 今夜ハもやがかゝつて丸で巴里の冬の姿の様だつた
十月二十二日 木 伊藤が来磯谷が来 磯谷へ用事を頼で学校へやつた 伊藤と相談して家の直し方をいよいよ極めた 乙羽氏が来た 伊藤と昼めしを食つた 四時前ニ佐野が来一緒ニ久米の処ニ行た 岩村ニも出遇つた 留守と聞て麹町迄帰つて来かゝる処で久米ニ出遇ふ 又引かへし久米の内へ行き展覧会場を松井かすと云一件で相談をやり後皆で米福楼でめしを食ひそれから C.F. ニ行き一時過ニ内へ帰る
十月二十三日 金 朝学校ニ行て昼めしニ精養軒で安藤 堀江ニ出逢ひ食後ニ会場ニ行た 四時半頃ニ一寸内へ帰つた 昨夜中村から電信が来て今日の三時頃ニ新橋ニ着く筈だつた 内へ帰つて見たら着いて居た 直ニ二人連で内を出て合田の処ニ行き奴を連れ出し C.F. ニ行く 此処で安藤と堀江ニ落合ひ十二時半頃まで遊で中村と一緒ニ内へ帰る
十月二十四日 土 朝報知の坂井弁氏が来て起された 時ニ九時頃 間も無く安藤が来又堀江が来た 安藤 中村と昼めしを内で食ひ安藤ハ去り中村と白馬会ニ行く 曾我が仏から帰つて来たと云端書をよこしたので一寸と寄つて来た 留守 会場で長原 寺山 岡 和田 岡田 白瀧 湯浅等ニ逢ふ 夕方ニ中村と安藤の処ニ行き三人で大金でめし 中村と合乗で帰た 四谷ニ火事が有つたので見ニ行きかけ紀国坂まで行きかけたが鎮火でやめて帰つた 時ニ十時頃 一時頃まで話して寝床ニ這入る
十月二十五日 日 十時ニ起き十一時頃ニ中村と内を出紀州屋敷の前で合田ニ出逢ひ奴等二人ハ直ニ久米の処ニ行きオレハ橋口家ニ一寸立寄りそれから久米の処ニ行た 久米ハまだ病気全快せず 奴の所で昼めしの御馳走ニ為つた 二時頃ニ久米の家を出て三人連で佐野のアトリエニ行く 奴ハ仕事の最中だつた 夕方まで居て四人ニ為つて山王山ニ来例の楠本でめしを三河屋 米福等より取り寄せて食た Riz を呼ニやつて大層賑かニなり十時頃から C.F. ニ押しかけ内へ帰つてねる時ハ早二時
十月二十六日 月 合田 佐久間 堀江等が来又世界の日本の島田氏が見へた めしを内で合田 堀江 中村の三人と食ひ一時頃ニ中村と出かけオレハ橋口家ニ一寸寄りそれから会場ニ行た 五時頃から約束して置た池の端の茶屋ニ中村 合田の二人と出かけた 安藤 堀江 巖谷小波が已ニ来て居た 晩めしを食ひ例の探検と吾れ吾れが名づけて居るあばれをやらかし十時頃まで居た 内へ帰つた時ハ十一時頃
十月二十七日 火 中村と一緒ニ学校へ行た 昼めしハ会場で食ひ食後諸生と額のかけ直しをやらかし三時半頃ニ合田 中村と会場を立ち出て五時半頃ニ八百勘ニ着いた 今夜ハ文蔵さん達ニお別の為めニ一杯やるのだ 九時半頃ニ皆去り合田 中村等と山王ニのぼり十二時頃ニ帰る
十月二十八日 水 朝春陽堂が来た 午後夕方近く為つてから合田 中村の二人と久米の処ニ行た 丹羽林平が居合せ皆としばらくカタローグの話などした それから又合田 中村と三人連で日本橋の菊隅ニ行き会津に別の意で飲だ エヂプト 会津二人共来て静ニやつてのけ十一時頃ニ去る 新橋から車
十月二十九日 木 中村ハ十二時半の気車ニ乗る積デ昼めしを食て直ニ立つた 井上が来て刀など見て三時過まで居た 一緒ニ合田の処ニ出かけ菊地とも逢つた Rendez-vous を例の米福と極めてそれからオレハ橋口家ニ行く 明月の出発の用意で大騒ぎ 米福ニ集まつたのハ小代 佐野 菊地 合田と井上の友人八木氏だつた C.F.のパトロンヌが出かけて来た Sハ Riz と今一人引張られて C.F. ニ一寸寄り茶を飲で帰る 時ニ十二時半頃
十月三十日 金 十時二十五分の汽車で橋口氏の家族出発 オレハ溝口氏と品川迄送つて行き岩窟ニ這入り昼めしを食ひ一時二十分の汽車で東京ニ帰りステーシヨン前の西洋料理で咖啡をのみ新橋で溝口氏ニ別れ合田の処ニ行た 此処で安藤 佐野等と出逢ひ C.F. に行た 小代もまた 今日ハ合田ハ先ニ帰つたので帰りハ一人でさみしかつた
十月三十一日 土 世界の日本の中島氏が来て一時間半程話して行た 久米 藤島も来た 奴等二人と伊藤とオレ四人でめしを食た 皆帰つて仕舞ひぐづぐづして居ると間もなく三時過ニ為る 昨日学校から額の代を受取つたからそれを浅井の処ニ持て行て渡し五時少し前ニ会場ニ行た 此時雨は甚しかつた 十人計揃つて金清楼ニ押しかけた 今日ハ画かき一般の会をこゝでやらかすのだ 集つて居る者ハ大した人数だ 我々の仲間ハ二十人計だつた 第二次会を近所の鳥屋でやらかす 非常ニ騒いだ 小代 山本 合田 佐野と C.F. で第三次会 内へ帰つたのハ二時
十一月一日 日 今日ハ北風で中々寒く為つた 九時半頃ニ起き風呂ニ入り昼までゆるりとした 合田と岡田が来て三人でめしを食ひ揃つて会場ニ出かけた 今日二時ニ共進会の褒賞渡しの式が有るのでそれニ面を出す為十二人程集つて小代が総代で祝詞をやつた 小代丈ハ先きニ帰りあとの者十一人で本郷の牛屋でめし 吉岡が会場ニやつて来て一緒ニ食ひニ来た 此処を出て皆ばらばらニ為つた 久米 合田等と歩いて帰つた こんや集つた者共ハ安藤 長原 久 合 菊 岩 吉岡 藤島 岡田 丹羽
十一月二日 月 朝から学校の日本画の方の生徒連が三人で来た 此の人達が午後の三時過まで居た 又大牟礼が来た 四時半ニ内を出て合田の処ニ行き又佐野の処ニ走つた 三人例の C.F. ニ集つて此処でめしを食つた 合田ハ去り遂ニ佐野と此処ニ一泊した