本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年6月11日

 六月十一日附 パリ発信 父宛 封書 四月二十九日附御尊書五月三日附母上様よりの御手紙並ニ二百五十円之為換券等孰れも本日公使館ニ於て難有受取申候 其御地皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至而壮健先便より羽書を以て一寸申上候通久米氏と旅行の件愈実行致す事と決し去る八日田舍より引上来り此の三四日間ハ雨合羽及ひ沓等歩にての旅ニ必用な物品買入等ニ費し今ハ仕度も殆んど整ひ候間いよいよ明朝出立の事と定め申候 仏国の東独逸境ニボウジユと申山有之候 其辺の景色余程宜敷と申事ニ御座候間先一番ニ其地方を見物致しそれより時と金とのあまりがあれバ南ニ下りスイス国迄も入り込む覚悟ニ御座候 今月の末迄ニハ巴里へ帰り着申度者と存候 私田舍ニ色々とかきかけ置候画など有之就中昨年の夏かき始め候女の立たる肖像是非当夏中ニ描き上け来春の共進会へ持ち出し度それ故いつ迄も旅のみして居る訳ニハ行き不申候 夏と申ても九月の末頃迄の話にて今月中丸で旅にて暮すとして見れバたつた三ケ月間の事 其内より日曜とか祭り日とか又雨天等を差引く時ハ実ニ僅の時間ニ相成候 其中ニ大きな画一枚かき上るなど云事少し六ケ敷何しろ此の旅より帰りてから一心ニ勉強せずバ又其画ハ来年の間ニハ合ひ申間敷候 来年ハ此の肖像の外ニ今一つ何ニか出す考ニ御座候 当年の共進会も今月一杯にて閉会致し候 私ハ只出品を許されたと云迄の事にて褒美も何ニも取り不申候 沢山立派な画のならび居る処ニ出て見て始めて自分の力の足らぬ事を知り不具の身体を人ニ見られたる心地致し候事ニ御座候 今より四五年位の修業にてハとても思ふ様ニ出来る画かきニ成る事ハ六ケ敷只死後をあてにして気長ニ一生勉強するの外無御座候 学校の方も大抵当年かぎりニてつぶれ候様子ニ相成候 之レハ新入生少なく私の如き古き生徒ハ皆銘々勝手ニ田舍などニ引込み画をかく様ニ相成候故ニ御座候 沢山居候生徒の中にて米人一人と英人二三人ハ学校ニ行頃始終同しめしやにて食事など致し居候故交際も自ら親密ニ相成候 其後も其英人の中の一人と米人とハ田舍などにても折々取合ひ候 併しいづれも修業の身故今の如く附き合ひ居る事ハ暫時の事にて二三年の内にハ皆世界の四隅ニ引はなれて住ふ様ニ相成も知れず されバ御互ニ同じ学校にて学びたる身なる上親しく交際し来りたれバいつその事美術の博物館とも称す可き伊太利国をも共ニ打つれ立て見物し其上別れを告けたらバ此の上も無き紀念ニ相成可しといつか久米氏及び右両人の西洋人と田舍めぐりを致し候折ニだれか云ひ出し皆々大ニ賛成し遂に当冬ニ其旅をする事と致し候 皆も諸生の事故と時と金ハ常ニ少なく此の冬ニハ其旅ハ甚ダ無覚束候得共ことニよりてハ来春共進会開会後ハ実行するやも知れ不申候 私も帰朝前ニ伊太利国ハ一目見申度兼而望み居候事ニ御座候 特ニ友人等と馬鹿も云ひ又へぼ理屈などならべながら旅をすると云事ハ此の上もなき面白き事故是非共同行致し度候 而其旅もすみ候ハヾ一先帰朝致候様都合ニ致し可申候 樺山愛輔氏いつか病気ニて帰朝相成由跡にて承り候 最早此頃ハ達者ニ被相成候事と奉遠察候 余附後便候也 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年6月12日

 六月十二日 金曜 (独仏国境旅行日記) 巴里ニて十時半の気車ニ乗りをくれ儘よと思ひ停車場で一寸汁粉を戴く(汁粉とハシヨコラ也) それよりシヤラントン迄歩く シヤラントンで十二時二十分位の気車ニ乗る グレ村(拙者が昨年以来始終住て居る処也)の若者一人と乗り合せ四方山の話をしたり 其者ハ昨年の冬とか婚礼をやらかし今ハフオンテヌブローで茶屋の小使か別当かをして居る様子也 モントロウニ三時少し前ニ着せり 此処よりビルノーブ・ラ・ギユイヤール迄歩く 途中で女が日本流ニ子を背負て来るのを見た 西洋でハ中々珍らしいぞ 此のモントロウよりギユイヤール迄の道程日本の三里計 景色などグレ村辺と大同小異甚ダ面白からず おまけニ暑さが強く閉口した 此のギユイヤール村で晩めしを食た時ニ憲兵の野郎が来て拙者等の出で立ちをあやしみ何国の者だ独逸の者ぢやないかなんかんでべらぼうな事をぬかした おかしくてたまらない 日本の旅券と巴里寄留の書付とを出して見せてやつたら安心して行て仕舞い上つた 此処より七時十五分頃の気車でポン・シユール・ヨンヌ迄行く 此の村に明日より三日間の祭有ルガ為メ飾リ付ケ方などニ村中大騒ぎ也 宿屋ニ二軒程行て見たがどうしても留めて呉れぬニハよわつたぜ 止むを得ず大ニ憤発し小一里計り先きのミシユリ村へ向て発ス 今夜ハ始めての晩でハあるし又行先きのミシユリ村ニ宿屋が有るか無いか知れず 若し宿屋もなニもない処だつたら憲兵小屋ニでも行て留めて貰う様ニしよう それとも亦憲兵小屋もなかつたその時ハ運の盡とあきらめぐいぐい夜どうしニ歩くか又どこかニ野じきするより外ニ手ハなしと久米公と話し合ひ笑てハ居る者の入合の鐘もなり今ハ日も全く暮て仕舞ひ此の辺は川近くニてしめり気が強く野ニはかすみがかゝつた様ニ成り昼のあつさに引替へて余程寒く成て来た こういふ晩ニ外で夜を明かす事と本当ニ成て来てハたまらぬと心の内で思つた とうとう村ニ行着てうす暗い酒屋らしい処ニはいつてとめて呉れるか否と聞いた 台所みた様な処で女子男まじり四五人で酒のみながら話をして居たが其内の一人の男が亭主にて年の頃五十位わたくし共でハ御客ハとめませんが此の先ニ宿屋を営業ニして居る内が二軒ありますと丁寧ニ教て呉れたので先づ一と安心 即ち其二軒の内の一つのプーラールと云者の内ニ行てとまる 宿の亭主三十前後の若者ニて一寸開ケタ人物也 今夜ハ屹度虫ニ攻めらるゝ事と覚悟をして寝たが一匹も出てこず 此の上もなき仕合なりけり

1891(明治24) 年6月13日

 六月十三日 土曜 (独仏国境旅行日記) 朝四時ニたゝき起され仕度をして五時少し前ニ立つ 上天気なれど朝風寒し 静ニ歩て八時半頃ニトリギニ着す 郵便局有り 巴里の河北ニ久米公と連名の端書を出す 一寸休息 牛の乳など飲む ミシユリから此処迄の里数三里余 此処より気車の有るアルシユベツク迄四里程有り 気車の出るのハ十一時十三分だ 此の気車ニ乗りをくるれバ夕方迄待つか又終日歩くかどつちかだ どうしても此の気車ニ乗るが都合よしと云もんで九時少し過にトリギを立て一生懸命ニ歩き出した 何ニしろ二時間ニ四里の道をやらなけれバならずしかも日中だからたまらない 鳴呼苦しかつたあつかつた こんなニあつい思ひをした事ハ少ないぞ ダガとうとう十一時ニ行着た 体ハ丸で煮た様ニ成て仕舞た それから気車で十二時半ニトロワニ着た 此処ハ一寸名高い処で一通り大きなまちだ 先づ珈琲屋ニ立寄り麦酒をのむ 新聞屋の種取りが来て之レから何処に行くのだ 歩いて行くのか楽みニするのかなどゝ面倒な事を色々聞た みんないゝかげんにごまかして置た 又ボウジユ県の内ニハこう云ふ人の知らない名所が有るから是非行て見ろなんかんで深切らしく教て呉れたりした 変な男だ 後宿屋を見付け先づめしを食ひそれからだれやめニ一寸昼寝をやらかす 後ゆつくりと町を見物す 木造の古き家多く奇也 職人体の一物有りそうな変な面付きの少女を沢山見受た 拙者等が此処ニ着て脚半を付け包を負たまゝで宿屋をさがし乍ら町市をあちこちぶら付た時ニハ見た事見た事 併し人気ハ静也 悪口は聞かず 道など聞くと深切ニ教て呉るゝ也 夜食後も散歩した 巴里から出てもうこゝ迄来て見ると田舍風が吹て居るわい 奇体な者だ

1891(明治24) 年6月14日

 六月十四日 日曜 (独仏国境旅行日記) 今朝五時ニ起た 今度の宿屋ニも虫が居らず天下泰平 五時五十分の気車でシヨウモンと云処へ向テ発ス 今朝曇り天気也 気車ニ乗て行く心地白耳義国内でも旅して居る様だ シヨウモンニ八時半頃着 市中をへめぐつて見物す 一寸立派な市也 気車中で食ふ積で豚肉の腸詰とパンとを買た パン屋のばゝあが不挨拶な奴でパンを包む紙を一枚呉れろと云たのニ紙無しと云切て紙を呉れず よんどころなくパンを其儘で手ニさげて停車場ニはいつた 其様ハわきから見たらあんまり上ひんでなかつたに違ひなし 十時十五分頃ニシヨウモンを立てアンドロニ十一時少し前ニ着く 停車場を出て少し行くと又憲兵の奴が面倒をぬかした 画かきだと云た処がかんばんかきかペンき屋かと思ひくさつて今迄巴里で雇て居て仕事をさした親方の書付でも持て居るか又旅をするのに金が有るのかなんてぬかしやがつた 馬鹿な野郎も有れバ有るもんだ こんな奴はあんまり此の立派な仏蘭西国の名誉にはならなへぜ 此のアンドロで麦酒を一杯引懸けそれからぼつぼつ歩てマノワ迄行く 比の距里ハ僅二里計り 川など有りて景色一寸よし 今日ハ日曜の事故マノワの停車場ニ村の年頃のむすめ七八人めかし切つて来て居た いやニ思ハせ振て居たが皆へちやむくれ許り 村に取ての不幸也 三時半頃ニマノワを立てミルクールに向ふ 腹がへつたから途中のヌフシヤトウでパンと肉の冷へたのと酒半本とを買て気車の中で食た 其あぢわい実ニ結構 五時半ニミルクールニ着 宿をホテル・ド・ラ・ポストと極め荷物を其処ニ置て市中を散歩す 夜食の時妙な男と知り合になる 此の男ハ土地の者にてポールジヤコビと称す独り者なれど一寸立派な家など持て居る 年四十三歳にして此の三ケ年前ニ商売をやめ仕事せずして気楽ニ暮す 食後其者と散歩ス 町はづれの土手の上で十三四の子供四五人ニテ鼓弓やマンドリヌと云伊太利琵琶の稽古ヲ為シ居るを見る ジヤコビ其者等ニ命じて拙者等の為メニ一曲やらしむ 月も出居たれバ殊更面白く聞ぬ 此のミルクールと云処ハ楽器の名所ニして音楽を為す者多しと云 門前の小僧習ハぬ経読むのたとへの如く小供迄も音楽ニ達す 人無き静な処ニ集ひ合ひ月影ニ楽を奏するとハ随分高尚な遊也 後ジヤコビの家ニ行く 薬種屋也と云若き男一人来る 四人にて焼酎を飲み話す 其酒ハジヤコビの手製也 第一感心な事ハ其ジヤコビなる者の親孝行なる事也 造りたしの新築の家の間取など見せたる末古き家の方ニ導き其母様とおばさんとの肖像を見せ此の二人の人の恩忘れ難し 此の二つの額面ハ拙者所有物中の最モ大事な品也 若し火事でも有る時ハ他のものハ棄て置ても之レ丈ハ是非共持ち出す覚悟也と思ひ入てかたりたり 又立派ニ飾りたる古き寝台二つ有り 其寝台の上にて母様と叔母様とを失ひたれバ一生離ルヽニ忍ビす云々 欧人ニして之レ程親を思ふの情深き者ハ甚だ少し 後又四人ニテ少しく歩き茶屋ニ立寄り茶を飲む 音楽の教師なる老人一人来りて話しを為す 土耳古など見たる男ニテ話し一寸上手也 少しく物知りたる者と知られたり 十一時頃皆ニ別れて帰る

1891(明治24) 年6月15日

 六月十五日 月曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時の気車ニテミルクールヲ立ち九時少し過エピナルニ着ス 市を一通り見物し停車場前の料理屋ニテ昼めしを食ひ十二時半頃の気車ニテサンジエと云処へ向つて発ス 扨テ今見テ来たるエピナルハ兵営ナド有リテ一寸盛な処也 川のふちの公園地ハ夕涼みニ結構ならんと思ハれたり 又此のエピナルより東ニ行くニ従ヒ土地の高低次第次第ニ多く日本風の浅くして流れ強き川など有り面白くなる サンヂエニ着た時ハ二時半頃と覚ゆ 宿屋さがしを始むる前第一ニ珈琲屋ニ入る やがて一人の若者入り来つて拙者等のわきニすわる 其者ニ久米氏言葉を懸け画工にてロベルと云者此のサンヂエニ住むと聞きしが貴公ハ其画師を御存しなきやと問ひたるが始めにて色々と話しをやり出しとうとう其者が道案内をして其辺で一寸面白イ処を見せて呉れる事と為りたり 成程滝など有つて静かないい処也 其若者ハ建築学をやる者ニテ名をカリヤージユと云ヒ年ハ二十五歳也と云 深切ニ処処引廻し呉れ後ちロベルと云人の家迄教て呉れたり 言葉遣ひがツンツンして怒つたる者の如く又何事も心得て居ると云体裁一種のヘンコツと見へたり 其者ニ別れてロベル氏を訪ふ 扨て其ロベルと云人ハ一昨々年久米がバルスローヌの博覧会ニ行た時イスパニヤ国の或る処の宿屋ニて出逢ひ知合ニ為りたりと云 ロベル氏幸内ニ居り久し振りニ久米ニ逢ひたりとて大喜ひ今晩ハ一緒ニ食事ス可し 又宿屋も未だ極めずニ居るなら安くていゝ処を周旋す可し 併し今ハ少し用事が有るから乍残念共ニ散歩する事不能 今より夜食時迄ハまだ時も有れバ少しく市中などを見物し夕方になつて再び来らずやと云ひたり 故ニ拙者等ハ前ニ見ぬ処を見物ニ出懸けたり 其ロベル氏のおかげにてよき宿屋ニ入りたり 此の内ハめし屋が本職にて宿屋ハ内職と見へたり 又今夜のめしハロベル氏の御馳走也 深切な奴だ 食後共ニ大通りを散歩す 糸取の工場を持て居ると云老人ニ出合ヒ其者を伴ひ四人連にて珈琲屋ニ行く 其老人も中々さつぱりとしてよき奴也 今度ハ其老人がおごつた 仕合也 茶屋を出て老人ニ別れ後ロベルを奴の内迄送て行きそれから又久米と昼カリヤージユの案内で見ニ行た滝の有る処の手前の方からぐるりと一廻りやらかし宿屋に帰つた 途中で少し雨ニ降られた 寝る時ハ已ニ十時半頃也 今夜ハ久米と別々ニ部屋を取る 今迄ハ倹約の為メニ始終一つ寝台ニねたが今夜ハロベルが世話で部屋を二つ取たから別別ニねる事と為た 夜中ニ雨が強く降た

1891(明治24) 年6月16日

 六月十六日 火曜 (独仏国境旅行日記) 今夜八時ニ部屋を出でロベルと共ニ朝飯を食ふ 後ロベルを送り同人の門口迄行く 奴も今日より何処へか旅立をするとの事也 今日ハ此の地の市日の由にて大通りハ非常な賑ひ也 一番風が変て居て目ニ付きたるハ玉子やボール(牛の乳のねつた様なもの也 英語でバタと云)を売る者が道ばたニ狭きばんこをならべてそれニ腰を掛ケ自分が売物ニなつた様ニ行列して居る様子也 男も其中ニまじり居たれど大抵皆女也 此の近在の者共也と云 皆独り独りニ手さげ籠をひざの上ニのせて居る 其中ニ玉子など入れて居る籠のふたをあけて其中ニ両手を入れて居る者多し 僅か七人や八人こう云様ニしてならんで居るのなら左程目ニも立つまいが何十人とザラーリとして居るのだから中々奇だ 扨てロベルに別れてから町の後の小道の処を散歩し後鉄道の線路の先きの方から山ニ登る 昨日道案内をして呉れた若い男が此の山道のわきニあの政治家仲間で名高いジユルフエリ親爺の内が有ると知らして呉れた 多分此の家位が奴の家だろうと久米公と話して通た 山の頂上迄登るニは一寸汗が出たぞ 登る際中ニ雨が降而来た 実に大喜びで久米公と早速雨合羽を被た 切角立つ前ニ巴里で買て来た此の雨合羽を此の儘で持て帰つてハ残念だと思て居たがとうとう今日始めてぬらし安心した 山から下つて町役所の内ニ在る図書館ニ行く 昨夜飯の時其館長をして居る若き時は陸軍の大尉だつた七十近い老人ニロベルが引合して呉れ其上で図書館ニ在る珍らしき古き絵入の経文を拙者等ニ見せて呉れる様ニ其老人ニ頼た 即ち今朝十一時ニ見ニ行く事と其時約束をして置たから出懸て行たのだ ぢいさんが直ニ出て来て其お経を見せた 中々立派な書物だ そうして余程大きなもんだ なんでも開た時ニハ幅が三尺も有るだろうよ 十四世紀のもの也と云 十一時の約束だつたのニ山登りニひまがかゝり十一時半頃ニ行たもんだからぢきニ十二時近くなつた いゝかげんに其書物を見て後図書館内を一廻りし其大尉先生も共ニめし屋ニ帰る 此の時雨が強く降る ぢいさん傘なく雨ニぬれて平気也 拙者の合羽を被ないかと云て見たがいやだと辞つた さすがニ軍人であつた丈ハ有るぞ 昼後時が充分ニ有り別ニ見物する処も無いので珈琲屋に行きゆつくりときめ白耳義の田中 巴里の川崎 ボアニユビルのビルド等ニやる手紙をかく 後宿屋ニ帰り包をつくり又かみさんニ買入方を頼で置た当地名物の臭い味噌(之レハ仏語でフロマジユ英語でチイスと云ふ牛の乳ニテ製するものニして拙者等ハ味噌ト名く 沢庵と云てもヨシ)の折の蓋ニ番地をかき直ニ鉄道で送り出ス事が出来る様ニした 之レハ皆此の宿屋のかみさんの力だ 中々深切な尼也 其宿屋の名ハベスクリユグと云 其臭味噌ハ直ニ鉄道からフオンテヌブローの湯屋の三介ニ送てやつた それからしばらく散歩し昨日の滝の処ニ行て景色など写す ちようどいゝ時分ニなつてから引きかへし宿屋ニ立寄り亭主夫婦ニ別れをつげ包を取て停車場ニ行く 五時半の気車でゼラルメへ向て発ス 途中ラブリヌニテ車を替ゆ ゼラルメに七時過に着し停車場の前なるシヨンと云奴が持て居る宿屋ニ入る 亭主ハ女ニテ中々以テさばけためす也 宿屋の体裁ハ海水浴を一寸気取て居る 客人も二十人計り有り 皆田舍の城下の者の様な奴等で都風を気取りそこなつた変な者多シ いやニなるぜ 部屋の清潔な事ハ感心々々 新しい広い寝台ハ余程御意ニ叶た 夜食後湖水の縁など一寸散歩して九時半頃帰る 今夜ハ又久米と一緒ニねる 此の宿屋ハロベルが知らして呉れたのだ〔図 写生帳より〕

1891(明治24) 年6月17日

 六月十七日 水曜 (独仏国境旅行日記) 九時半頃より宿屋を出で池の右岸をぐるりと廻り向ふ岸ニ出た 此処で画などかくので一寸休だが不思議なるかな日本の糞のにほひがした 日本の糞と云てハ一寸ニわからぬが日本で圃ニこやしをかけると随分たまらないにほひがするがあのにほひの事さ 此の香を始てかいだ時ニハアヽ此辺でハ日本流ニ人糞を圃ニかけるかナアと思て久米公と話しをしたが之レから段々色々な処ニ行て気を付て見ると成程此辺ハ巴里近在とハ違つて人糞を使ふと云事が知れた 日本のこやしたんごとハ違てたらい見た様な平たい桶ニ入れる それから其桶の両わきニ鉄のわが付て居て其中ニ棒を二本通し二人でぶら下ゲて運ぶ也 一寸面白し さてそれから山に登りメレール滝を見る 其途中で久米公其滝から流て来る小川の中ニ片足ふみ込み閉口した 滝を見てから山の上ニ出て又下ニ下り一時頃山の向ふがわの谷川のへりの木の陰ニ成つたすゞしい処で弁当を遣ふ 其時水を飲ふとして川の中ニ石筆を落しそれを大急きでひらハんとして足をすべらし今度ハ拙者が両足とも水の中ニヅブーンとやらかした 久米公かたぎを打つたる気で大喜びをした 夫レヨリフエニーの滝を見ニ行く 其近処の百姓家ニ立寄り牛乳を飲む それより又山道をたどりてクルーズ・クートの滝を見る 其滝ニ行着く前ぢきそばの百姓家の処で仕事をして居た女の子ニ道を聞たるニ其弟と覚しき十歳計りの小僧いづこよりや出て来りはだしで前ニ立て案内す 感心な者と思て今日の会計を主て居る久米公が二銭呉れてやつた 此の滝よりグロスピヘールと云処迄行く 行着た時ハ六時半頃也 遠山の色合など云ハん方なし 其処の一軒茶屋ニて夜食を為す 値段おかつこう也 茶屋のかみさん小供の様なばゞあの様な変な奴也 十四五とも見ゆれバまた二十五六とも三十以上とも見ゆ 余程奇物也 八時頃同処を立ち出づ 山の上からゴロゴロゴロと落テ来てポコンと二つにわれて見ルと其われ目の平たく成て居る処ニ耶蘇のおつかさんが耶蘇をだいて居る像が天然自然ニ描テ有つたと云不思議千万天下ニ画工の御用無しと云便利な岩の前の処を通る頃ニハ已ニ夜ニ入り月が出て来た 九時過ゼラルメの宿屋ニ帰り着き茶を飲み而後部屋ニ引込む それから日本へ出す手紙を書んとしたるニ部屋の中ニブンブンと非常ニ音をさして飛び廻る蝿有り かんしやくニさわつていやニなる そこで久米と相談して其蝿を第一番ニ打ち殺した者が一銭取る事と極む 是レヨリ蝿を追ひ廻し寝台の上に上るやら何やら大騒きを始めたり とうとう拙者が蝿を一匹部屋の隅ニ見付ケテ打ち取り一銭久米より巻き上ぐ 暫くすると又ブーンと飛ふ者有り 奇怪千万拙者の打留メたる蝿ハ前の大将蝿ニ非ズ雑兵ナリと知れたれバ忽ち切角取た一銭の取り返へしを食たり それより久米公大憤発をやらかし一匹打ち取りたるニ之レモ亦雑兵也ける 大将の蝿ハ矢張平気で飛び廻る 千辛万苦遂ニ其首を上げたる者ハ拙者様也 一銭の銅貨を握て安心退陣す 時ニ十時過也 日本への手紙を書き取た時は已ニ十二時近くなつた 久米公ハ手紙を書て寝て仕舞た 二時半頃迄かかつてフオンテヌブローへ出ス手紙を書た 蝋燭が無くなつたからおやめニした〔図 写生帳より〕

1891(明治24) 年6月18日

 六月十八日 木曜 (独仏国境旅行日記) 昨日は此のゼラルメの近所の名所を見てあるいたが今日ハ之レから少し隔つた山々をへめぐる覚悟で包ハ此処の宿屋ニ頼み置き只雨合羽を一つ持て行く 朝十時頃ゼラルメを立つ 村を出で少しすると森有り 其中に平たき岩一つ有り 昔しシヤルヽマーニユと云白髯の生へた立派なこわい様な仏蘭西の天子がどこかの国を征伐して帰る時此処を通り此の大きな岩ニ腰を掛けたりとなん 総而昔シのゑらい奴ハ大抵皆岩だとか大木だとかを片身ニのこして行くのがくせなるが如し 又其岩や大木なんかニ必ズ手や足の跡を付て置く様だ シヤルヽマーニユの様な年代者の上ニ名高い親爺が残して置た片身の石の事だから何ニかのかたが付て居るニ違ヒなしと思ヒ色々見たが何にも無シ どう考て見ても腰をかけた時ニ尻の跡ハ付いたニ相違なけれど其跡の今日ニ存在せぬと云ふものハハハアー立つ時ニ大きな屁を一つひつて其尻の跡を吹き消シて行たらしく思ハる 千歳の遺憾とハ此事なる可し 此処ニ又一つの不思議有り 此の森ニ入るや否いかニも糞がひり度為た そこで又其シヤルゝマーニユの昔しを能々考て見て其時の有様やなんかを及ばぬながら想像すればシヤルゝマーニユぢいが此の森ニ入りたるハ全ク糞をひる為メニテ岩ニ腰打ちかけたるハ糞をひつて仕舞ひ安心して一寸憩ヒたるなり 併しそうして見ると今糞をひつて来てそれから五分も立たない内ニ尻の跡を吹き消す程の屁が出たろうかと云うたがいが起る そうなつて来ると拙者ハ歴史家でも医者でも無いから一寸返詞に苦しむわい 世間のもの知りニ聞て見ろと云より外ニ手はないぞ(中略) 此の森の下ハ川ニなつて居る 其川の縁迄下つて見た 谷川の風を為して居て一寸面白シ それより其上流に在るソウデキユブの滝を見る ロンジユメールの湖のコツチから行ケバ右岸を廻りルツールヌメールの湖を差して進む 其途ニて蜂三四匹ニ囲まる 一生懸命前後左右へ身をかハし秘術をつくしてとうとう三匹共たゝき殺した 非常な手柄をやらかした様な心地す 併し人と云者ハ弱いものだ 其蜂を殺したのハいゝが同類の蜂が仲間のかたぎ遁かすなよと攻て来ハすまいかと云念が起りなんとなく気味悪くなり早足ニて行き去る ルツールヌメールにて又滝を見る 茶屋へ行着たるハ一時頃也 此処にて昼めしを食ふ 名物のトリユウイツト魚を食ハせた 三時半頃立て山道を行く 又滝を一つ見る 之レより次第次第に昇り五時頃ニホネツク山の頂上に達す 此の山が此の近辺で一番高キ山ナりと云 其高さハ一千三百六十六メートル也(一メートルハ我三尺余也)成程其筈だ 此のあついのニ雪がまだ消えずニ残て居た 其雪の積て居る処を始メテ見た時ニハ何分ニも不意を食た事故驚た それから其雪をどうかして一つ食て見度いと云考が出た 此の辺の山ハ奇体ニテ仏蘭西ニ向つて居る方ハベラットして段々上る様ニ成て居るが独乙の方のがわはツーンと切ツた様ながけニ成て居る 其何十丈と云高いがけの上ニ雪が積て居るのだから一つすべるとそれこそ大変さ 其上此の辺ニハ木ハ一本も無く小さな草みた様な木みた様なものゝ枯れた様ニして居るのが一杯はへて居り其上を歩るくと只でもずるずるすべる まして崖の上の少し丸く為た処ニ行て之レから一つ足をふみはづすとおしまいだと思ふと猶更足が変ニ為る 併し何分ニも雪がぢきそこの処ニ見へて居るので一寸一とつかみ取て食ひ度為る 遂ニ大憤発脚半をはづし靴と足袋をぬぎす足と成り久米公と二人でごそごそはいながら下りとうとう拙者が先づそうといつて手をのばし二つかみ食た そうすると足のうらの辺からいやーなこそぐつたい心地がして来た こいつハたまらぬと思ひ大いそぎで又一握り取り久米公ニ渡し早々はい上つた 之レ亦奇談也 又其辺ニハアネモヌと云草花が沢山有る 今それが一ぱい咲いて居る 香ひよし 其アネモヌハいつか小さい時ニ都の城ニ行てよめじよと云のを見たのをかすかニ覚て居るがあのよめじよの種類だと思ふ 併しよめじよと云のハ紫の花で其花が散たあとが髪の様な風ニ為て居るのだと思ふが此のアネモヌの花は少し黄みを帯で居る白い花だ ホネツク山を六時頃ニ立ち山伝で国境の筋ニついて進む 此の山山の頂上が七十年以来仏独の国境と為て居る也 其国境と云印ハどうして付ケテ有ルかと云のニ丁度花壇か公園地などの中ニ付て居る道の様ニ幅二三尺計り深さ三四寸計りニ地が堀て道が付ケて有る也 そうして又其道ニ五六町も有るかと思ふ程ノ処毎ニ一里塚の如き角石の高さ一尺五寸位の柱が立て居る 其石柱の頭ニ線が一と筋掘り付ケテ有ツテ国境なる事を示し而又其柱の東西の両面ニハ仏国のフの字と独国のドの字が掘り付ケテ有るなり 凡ソ七時頃ニシユルフトと云処ニ着す 此処ニハ宿屋一軒有ルノミ 其宿屋ハ中々以テ立派也 亭主の野郎ハ日本デ云つたら士族のあがりとでも云ヒそうな奴でおせぢのない奴だ 下男など燕尾服にて給使す 其代りニお値段が少々張り舛 是非も無し 此宿屋ハほんの国境の処ニ建て居るから一足出れば直に独逸国だ そこで夜食後独逸国内を少しく散歩す〔図 写生帳より〕

1891(明治24) 年6月19日

 六月十九日 金曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時半頃シユルフトを立ち昨日ノ如ク国境ニ沿ヒ進ム 山又山也 はればれとしてよし タンネツク山と云ホネツクニ次クと云高き山をも打越へ一時頃ニラツクブランと云湖の有ル処ニ着く 此処ハ独逸領也 例の先の尖つた甲をかぶつた兵卒が四五人茶屋の庭先で酒を飲で居た 拙者等はそんな不意気な者共ニハかまわずいきなり茶屋ニはいつてめしを申付ケた どうもどうも待たせた事待たせた事それハそれハ非常さ そうする内ニ前に見た兵隊の内の一人がやつて来て拙者等の国元や職業なんかを取りしらべた 例の旅券を見せてやつたら安心して行て仕舞たなんとも別ニ面倒を云ハず丁寧ニ礼などして行た 先づ此の位の事ならかんべんしてやろう 仏国の此の前ニ出合た憲兵の馬鹿野郎よりも今度の独逸の兵士の方がはるかにましだ めしやのめしを持て来る事のながく懸るニハ驚き入つたもんだ 一皿持て来てから其次の皿迄ハ三十分もかかつたぜ おまけに銭が高い 勘定は独逸のマルクでやつてあつて仏のフランでハない 併しフラン銭も受ケ取る 仕合せ也 三時頃ニようやくめしをすまして立出で少しく行くと道のわきの木の陰の様な処ニ又兵卒が一匹鉄砲を持て休で居た なんとか独逸語でぬかした様だつたが拙者等ニハ通ぜすそれからおかしな調子で仏人でハないかと聞たから否と答へてやつたらよろしいと云て其儘通した 鳴呼まあなんと馬鹿げた訳でハないか 国境だとか兵隊だとかいやニなるぜ まあ国境ハともかくもこんなニ出はいりを面倒にするとハいかにも古風だ それより又国境ニ沿ツテ行く 森の中で道がよくわからなくなつたが方角が大抵付テ居たから安心して歩た とうとう本道を見付けた それから少し廻り道ではあつたがついでニ見て置く可しとルリユドランの滝と云のを見ニ行た 上と下と二つ有り日本なら雌滝雄滝と名づくるのだ 一寸見るに足る 六時半頃ルリユドラン村の宿屋ニ着く ロベル氏の教でおまへの処をたづねて来たと云たら余程よろこんだ様子なりけり 宿屋のばゞあ真ニいゝばゞあ也 まるで巴里近在のどこか始終行付ケた田舍ニでも行た様ニて我宿ニ居る心地す 安心々々 今夜は久米公と別々ニ部屋を取るぢやんけんをしたら拙者が立派な方の部屋に当た 此の部屋ニロベルの筆ニテ亭主夫婦の像有り 額ニして掛テ有る 久米公の部屋との境の戸を開ケたる儘ニして置く 此の方が広さも広し又寝話しニ便也 諸君よ諸君 吾曹ハ人心の共和安楽を主義とする者也 国境の兵隊馬鹿な憲兵面倒臭き御規則ハ好まぬ者也 云々 十時半頃休む 直き部屋の外を流れて居る谷川の音を聞ながらねるのハ妙也  谷川の音をまくらにいぬる夜ハあらしするてふゆめを見るかな  あらしかと驚きゆめはさめニけりまくらへ近き谷川の音

1891(明治24) 年6月20日

 六月二十日 土曜 (独仏国境旅行日記) 八時半頃朝めしを食ふ 全体今日ハ此処ヲ立つ筈なりしが宿の奴等があんまり深切だし其上場所がいかにも静にて山の中の体裁が有ルノで又一泊と極めムールド川ニ沿ふたる谷間を見物ニ出懸る事と決し九時半頃立つ ハボリユ フランフアン等の村を過き藪の中で弁当を遣ふ フレーズと云鉄道局などの有る一寸大きな村で珈琲屋ニ立寄る 其内のばゞあの髯ニは実ニ驚き入つた 一体西洋ニハ鼻の下ニ黒くひげの生へた女ハ多いがあご髯迄こんなニ沢山有る奴ハ始メて見た 赤髯の上ニイヤニいかめしい面付きをしてをるばゞアだ 丸で画ニかいて有る毛唐人の面さ 夫れよりクレブシーの方ニ廻る 雨が非常ニ降而来た 中々以て止まず レグリメルニて居酒屋に立寄り又一寸休む 其中ニ雨やむ それより山を越へてハボリユへ出て五時頃宿屋ニ帰る 今夜ねる前ニびつしよりぬれた靴靴下脚半などをかはかして呉れと宿の娘ニ頼で置た 其娘と云奴ハ年ハ十八九だが青んぞうの上甚だよくない方だ 併し仕事をよくするのニは感心さ そうして一寸居た丈けでよくハ解らねへが巴里近在の百姓娘のオテンバな奴等の様に上気でネー様だ 誉メテ遣ハスゾ

1891(明治24) 年6月21日

 六月二十一日 日曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時半頃ルリユドランを立ちズーツと歩て十二時ニゼラルメニ着く 途中雨が降りつゞけ雨合羽ハ被て居たれどもひざの処からもゝへかけてびつしよりなつた 途中グランバルタンと云処の酒屋ニ一と休みした 衣物がぬれても被替へが無いので大閉口 股引の下にふらねるの繻半をさかさまニして手を入れる処ニ足をつきこみ下股引の様ニやらかし其上を二三ケ処鼻ふきで包だようニしてくびりそうして其上ニぐヂヽヽにぬれて居る股引をはいた 矢張ジメジメしたが先づ一寸之レでごまかした 実ハ余り雨ニぬれたから今日の昼めしハ部屋ニ取りよせぬれ衣服ハぬいで仕舞てゆつくりとめしを食ふ覚悟で宿屋ニ着て直ニ其事を云ヒ出だそうとして宿屋のかみさんニ向ひ拙者共ハこんなにぬれたから食堂ニ行くのハいやだと云ひかけるとアヽそれでハ別の小座敷ニ食事の用意をするから其処ニ来て食へとか何んとかかんとかと云て拙者の云ふとして居る大事な事ハ聞もしないで行て仕舞た 実ニあのばゝあハさばけ切てこまつたばゞアさ だがどうも仕方がないのでとうとう前の様な策をやらかし小座敷ニ行て食た 併しめしを食ヒ取ると直ニ此のぬれ衣物をぬいで其衣物ハ下女ニ申付けてかわかしてもらをう それニ付てハ下女を一匹手ニ入れるニ不如と議決しめしの給仕ニ来た非常なあをんぞうの下女ニ一仏ポーンと呉れてやつた そうするとこんな大金を貰つた事ハ生れてから始めてと見へ一物有つての事とハ知らず何の為メニ金を呉れたのだか知れぬもんだから一寸へんちきな面付をしたが何ニして金を貰つたニハ違無いもんだからよろこんだ 食事をすましてから部屋ニはいつて衣物をぬぐ前ニ珈琲を一杯やらかそうと思ひ玉突部屋ニ行て居るとばゝあが出て来てどうですまだ衣物がぬれて居ますかハアヽぬれて居るならあとで台所ニ行て少しおあぶりなさいそうするとぢきニかわきますとぬかし上つた 実ニ以てしようのネー尼さ とうとう自分で台所ニ行て衣物をあぶらなければならない様ニ仕懸けよつた 仕方がネー 衣物も大抵上つ面丈ハ干いた様になつたので部屋ニはいつて寝てやつた 併し只此の儘ですましてハ切角下女ニ呉れた一仏ハなんニもならないと思つたから靴と脚半丈は下女ニ申付てかわかして貰つた 先つ之れで少し取り返へしが付た 其内ニ雨もやむだ 夕方七時少し過から一時間程湖で舟こぎをやつた 一寸愉快だつた 今晩も亦別室でめしを食ハして呉れる都合ニ為つて仕合せ也 今夜給仕ニ来た下女ハ別な下女ニて五六人居る下女中で一番教育が有ると見へ兼而張面付ケをして居て頭ら振て居る奴也 此の奴も矢張あをんぞう也 併し面付はほかの者ニくらぶればましだ それから言葉遣ヒが田舍風でなく気取て居るので之レこそいゝ機会だ兼而人が拙者等ニ外国人ニしては仏蘭西語をよく話すなどとぬかしやがるから一番今度ハ此の下女を返へし打ちニ打つてやろうと思ヒ何ニか一皿持て来た時ニ至極まじめな面をして「オイあなたハ此処の土地の人かネー」(西洋でハ大抵どこでも男女貴賤皆同権と云勢で下婢などニもあなたと云ハネバナラヌ事也)と聞くと此処より遠からぬ何とか云都会の者と答へた 其処で拙者が得意ニなりアヽ成程それでおまいハ(実ハ前の如くあなたと云たけれどこつちの心持ハオマイと云心持で云つたのだからオマイと此処ニ記す)外かの奴等の様ニおかしな調子でなく中か中かよく仏蘭西語を話すと云つてやつた 之レハ先づ此の旅中の拙者の手ぎわの一也と知る可し それから又久米公と会議の上此の下女ハ鄙ニまれなりと云処で一仏下し贈ハる 夜食後茶など飲み泰平を気取り又少しく散歩す

1891(明治24) 年6月22日

 六月二十二日 月曜 (独仏国境旅行日記) 此のゼラルメの宿屋ハ立派なわりニ金が安い そうして中々深切ニして呉れるわい けれど永居ハ出来ぬ 八時半頃とうとう立つ 今日ハ昨日ニ引替へ天気がよくあついあつい ラ・ブレスを通つてコルニモンニ一時頃着きひるめしを食ふ 此のめし屋ニて古きクロモ板の額一面二仏ニて買入る 紀念の為也 鉄道局が此地に在るを幸ひ直ニ其額を巴里へ送た 三時頃コルニモンを立て段々と国境の方へ行く 四時半頃バントロンニ着き酒屋ニ立寄りリモナード水を飲む 今日の暑さハ非常也 此のバントロンが仏国の一番端の村也 之レより国境を越へてアルザスニ入りクリユツトと云小さな村ニ着た時ハ七時半頃ニなつた 憲兵ニも出逢ず面倒も聞かず首尾よく宿屋ニ入りたるハ何よりの仕合也 今夜の宿屋ハほんのきちん宿だが部屋ニ耶蘇の像の額だの又木細工の耶蘇の張付けなど飾つて有るのを以て見ると此の辺でハ隨分まだ耶蘇教がはやつて居ると見へるわい 一寸古風で面白し いやな俗物も死ぬと仏と成りつまらぬ茶わん皿も古物となれば珍重さるゝが如し

1891(明治24) 年6月23日

 六月二十三日 火曜 (独仏国境旅行日記) 朝七時半ニ立つ なかなか暑し ベツセルリンニて八時四十分の汽車ニ乗ル 十時頃ミルーズニ着ス 此処ハもう中々以テ独逸風が有ルゾ 兵卒が隊を立てゝ通るのを見た 又此処より日本へ端書を出す 独逸領の地ニ来たと云印也 市中を一通り見物してから停車場の前の飯屋で昼めしを食ふ 其内のかみさんから子供達迄仏語と独逸語をチヤンチヤン勝手次第ニやらかす なまいき千万也 十二時四十分の汽車でバアールニ向ふ 二時頃ニ着ス 此処ハもう独逸領ニ非ズ スイス国也 ミルーズよりも亦一層盛な都会也 此の地の言葉ハ矢張仏語と独語也 立派な宿屋が停車場の前ニ沢山ならんであるけれど金が高かそうだと云ので久米公入る事を欲せず 先づ包みハ停車場ニ預ケて置て手ぶらで宿屋をさがす事と極めぶらりと出懸けた だがあんまりよさそうな宿屋もめつからずとうとう仕舞ニフオーコンドールと云内ニ入り込んだ なんだかきたならしい宿だ 併し先づ之レで一と安心 それから市中をゆつくりと見物す 博物館をも見る 彼の有名なる昔しの独逸の画かきヲルベインのかいた画が沢山有り拙者等ニ取つてハ余程いゝ学問ニなつたぞ 後ライン河のほとりなる珈琲屋ニ休息し珈琲などのみたり 此の茶屋の下女一寸あかぬけた様な奴で拙者等ニ向ひ亜米利加人かとぬかしたり 奇な事を云ふ奴かなと思ヒどうしてをれなんかを亜米利加人と見たかと聞て見たら色が黒いからだとぬかし腐た 夜食ハ宿屋にてやらかす お値段の処甚だ安からず 食後も亦市中を散歩す 九時半頃帰宿シそれから久米公と二人で今持て居る丈の金の取り調べとあした行く処の極め方とを為す よく計算して見ると云ふともうたんとハないぞ 今度の旅も最早一両日の命と相成つた 先づ此処から直ニジユネブに出てそれから巴里へ引かへすとして其汽車代を引て見るとジユネブの都で使ふ銭ハたつた十五仏だ 一晩とまる丈の事なら倹約すれバそれで行ん事ハないがジユネブニハ久米公の知人が居る 其者ニ逢つたりなんかする日ニは酒の一杯も共ニ飲まずバなるまいしそう成て来るとどんな事をしても十五仏ぢやだめだ 鳴呼此処迄来てジユネブも見ぬのハ残念だがジユネブでをくれを取りつらい思ひをするより此処から直ニ巴里へ帰へる方がましなりと云説を拙者が立てた 併し久米公は平気で矢張ジユネブ迄行く気で居る これハ不思議千万久米公の勘定家がこゝに至而閉口せぬとハどう云もんだと思つたニさてさ其処ニ一理有りだ 奴ハ拙者と同じ様ニ二百仏持て巴里を出た様な面付きをして居てないない預備金百仏と云ものを別ニかくして持て居たのだ それを拙者ニ知らせなかつたのハ若し拙者が知ると其れ迄直ニ使て仕舞ふニ違ひなしと思つたからの事さ 今不意ニ百仏丈余計ニ出て来たので地獄で仏 安心してジユネブ迄行く事と早速極めた 十一時頃ねる 今夜ハとうとう虫ニやられた 之れが今度の旅で始めての虫也 此の辺の女ハボウジユの山の中ニくらぶれバ青みが少ない方だ どう云訳であんなニ青い面がボウジユニハ多いかしらん 青いいやな杉の様な木計り見て居るから面迄青くなるのかナ 奇体だ奇体だ

1891(明治24) 年

 六月二十三日附 ミルハウス発信 父宛 葉書 昨夕仏国をはなれアルザスと申七十年の戦より独逸領と相成候洲ニ入寒村ニ一泊仕 今朝其処より小しく歩き気車の有る地迄出で(十時頃也)只今ミルハウスと云一寸大きな市ニ着仕候 先づ一通此処を見物しひるめしなど食ひ午後の気車にて今度ハスイス国のバアルと申処へ向ケ発スル積リニ御座候 四五日もかゝりスイス国をあちこち見て後帰巴の考ニ御座候 珍らしき処ニ参り候しるしニ一筆差上候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年6月25日

 六月二十五日 木曜 (独仏国境旅行日記) 今日ハホツフエルノ故郷ナルブベニ奴と一緒ニ行ふと約束ヲシテ置た処が今朝曇テ居ルので九時ノ船ニ乗ル事ハ見合せるがよかろう それから又自分ハ少し用が有ルカラ其用ヲすましてから来ると云テ弟ヲ独りよこした 其弟の奴ニちようど宿屋を出テ例の包ヲ肩ニ引キ懸ケ船付場ニ行く途中デ出逢た 其レから奴ノ案内デホツフエルが用が有テ行テ居ルト云内ノ前ニ行テホツフエルの野郎が出て来るのを待て居た しばらくしてとうとう出て来上つた そこで四人連に為り一緒にアリヤナと云博物館ヲ見ニ行ク 此博物館ハなんとか云金持ノぢゞいが自分の楽ノ為メニこんなすてきナ立派な家ヲ建テ其処ニ世界中ヲかけ廻つて処々方々デ買ヒ集メタ色々ナ美術品ヤ又奇物ヲ飾リ立テ愉快ツテ居タノガ死ヌ時ニ為テ其品物ヲ家屋敷ぐるみ丸デ政府ニ呉レテ仕舞タノダソウダ 気楽ナ奴ダ こんな風の気取方ダ 全体西洋ニハ多いゼ 偖テ其博物館ハ博物館と云テモ毛ダモノヤ魚ヤ植木なんかのひからびたの等ハ無い 先づ一寸云テ見レバ額ヤ古道具ナドならべたる体取りモ直サズ古道具店サ 日本の品ナドも沢山有ル 這入口の前の庭先キニかなり大きな釣鐘がつるしテ有ツタ さわつちやいけネへと書テ有ツタケレド ホツフエルカ誰カヾグワアーンとやつて見タ 中々よく鳴ルわい 其アリヤナニ行ク前ニ停車場の前の珈琲屋でホツフエルガ拙者等ニ白葡萄酒ヲおごつた 此ノ酒ハ当地の名物だそうだ 帰りがけニ拙者等が昨夜泊タ宿屋ニホツフエル兄弟ヲ連テ行キ昼めしをやる ホツフエルが拙者等ニ昨日君等が僕の内ニ尋テ来た時ニ誰れかゞなんとか失礼ナ事ヲ云ハしなかつたかどうだと問た イヽへ何ニ事モなかつたと久米が返事ヲした アヽそれならよかつたが僕ハ屹度門番の老婆がなんとかぬかしたニ違ヒなしと思つて腹が立つたから大ニ諭シテ置た 実ハつまらない訳サ 昨日内へ帰て見ると久米君の名札が置て有ツタ それから門番が僕ニ向ひしきりニ其人ハなんだとぬかすぢやネへか あれハをれの友達デ遠方からをれを尋ねて来たのだそれがどうしたのだと云つたら何ニそれならいゝがあの人をつけて探偵掛りの巡査が来タからあやしい人かと思つたのだ なんだ畜生めをれを尋て来る者ニそんな怪い奴が有ると思ふのか 以後をれの友達ニなんとか失礼な事をぬかすときかネへぞとひつちかつてやつたが君等ニ何んとも云ハなかつたなら先ヅ先ヅ仕合せだとホツフエルが話した さて此の事の起りと云のが奇な訳サ 昨日ホツフエルの内ヲあつちこつちと尋て歩き巡査ニ聞ても憲兵ニ聞てもよく知らず とうとう仕舞ニ巡査屯所ニ行テ聞た 其時聞ニ行タのは拙者サ 破れ切つた被物ヲ被て居る上ニきたない乞食のかぶる様な帽子ヲかぶりおまけニ面と云つたら見タ事どころか話シにもろくろく聞タ事のネへ様ナ顔色と云もんだろうぢやネへか これハくせ者ニ違ヒ無シと巡査の野郎等が思ひ込だも無理ハ無い 拙者等ハそんな事とハ夢ニも知らぬから屯所ヲ出で二人連でホツフエルの内の前迄行き拙者ハホツフエルと云奴ハ知らぬから手前独りで行ケオレハ此処で待て居ると云て久米ヲ独りやり拙者ハ道ばたのくづれかゝつた様ナきたない木のばんこニ腰ヲかけて休で居た 久米ハ独りで出掛て行た そうすると直ニ久米のあとから町人風の男にて年の頃凡ソ三十五六とも見へる奴がホツフエルの内ニ這入て行た 此の奴が即ち探偵家なりしか 其当座ハ肉デモ売ル奴かと拙者ハ思ヒ何ノ気ニもしなかつた 久米公が云のニは奴がホツフエルの内ニ這入り先づ門番ニホツフエルと云人ハ何階に住ふかと聞きそれから上ニ上りて這入口で鈴ヲならして見るのニ誰れも出て来ず そうする処ニ前の町人風の男が久米の後ニ立ちて居り久米ニ言葉ヲかけて誰れも居らぬかと問ヒたり 左様と答へたるニ鈴ヲ今少し引て見ろと云つたり それから又鈴ヲ引て見るのニ返事が無いから其儘ニして下の門番の処ニ行き自分の名札ヲ出しホツフエルが帰つたら此の名札ヲ渡して呉れ又今夜来るからと云置て立ち出でたり 巡査なんて云ものハ随分お気のつかれたものかな 人をこまらせようとして笑ハせるとハ面白い めしを食ひ乍ラ天気ヲ見るのニどうも晴れず 風が少し有ルから湖水ニ波が強く立つかも知れず 若し波がひどい様なら只小さな帆かけ舟ヲ雇ヒ沖の方ニハ出ず湊の波の立ぬ辺ヲぶら付く事と極め先づなにしろ聞き合して見る可しと云てホツフエルの弟が宿屋から伝話機でブベの茶屋ニ聞合して見ると波ハちつとも無いとの返事ニ安心シいよいよ三時十分ニ出る 舟ニ乗てブベニ行く事と極めた 宿屋ヲ出てからまだ時間が有ルノデ湖水ぎハの昨夜一寸立ち寄た珈琲屋ニ腰ヲかけ珈琲ヲ飲だ ソウコウする内ニ早三時ニ為たから船ニ乗り込だ 此の船ハ小蒸気ニて湖水の回りヲまわるが芸也 客の五六十人位ハ安す安す乗せるだろうと思はれる者也 ホツフエルハ拙者等の案内として拙者等と共ニ船ニ乗る 奴の弟ニハ出航の時ニ別れたり 沖ニ出ても波ハちつとも立たず至極隱カナ事ニテ誠ニ仕合 只時々雨が降た 夕方の七時過ニブベニ着た ホツフエルの案内で直ニ奴の内ニ行き奴の親爺さんとおつかさんニ逢た 二人とも七十計の老人で中々丁寧ナ人達サ ぢいさんハ画がすきで今でも少し美術家ヲ気取て居る 古くサイ干瓢の煮しめ見た様ナ画ヲ描テよろこんで居る 拙者等モ遂ニかく為りはつる事かと思つたら実ニかなしく為た 夕めし前ニホツフエルの導で市中ヲ一通り見物した 食後十一時頃迄皆さんと話しヲした 今夜ハ此の人達ノ御厄介ニ為る

1891(明治24) 年6月26日

 六月二十六日 金曜 (独仏国境旅行日記) 今朝七時十三分之気車ニ乗らなけれバならないので五時半頃ニ起た やつぱり雨がしよぼしよぼ降而居るわい ホツフエル親子三人と一緒ニ朝の珈琲ヲ飲で立つタ ホツフエルハ停車場迄送而来た 深切ナ奴ダ ロウザンヌで車ヲ乗り替仏国の方ニ近クニ従ヒ段々と天気がよく成り暑くなりて来タ ポンタルリエで又車ヲ替此処で荷物の検査有り 之レヨリ仏国の車と成る 三十分位の止まり故一番糞などひつてゆつくりとした もう丁度十二時だから冷肉ニパン及酒などを買て気車の中ニ持て這入た 停車場の中のめしやで食ふと一人前三仏から四仏位も取られるのニこう云具合ニすると二人で二仏位のもんだ 中々以テ倹約ダゾ 其上せわらしくいそいで食ハズニゆつくりとして歌ナド歌ヒながら食ふから徳ダ それからムシヤルで一寸下りて珈琲ヲ一杯飲だ 日がカーンと当て実ニあついあつい 四時半頃ニヂジヨンニ着 此のヂジヨンと云処ハ大学校ナドノ有ル一寸シタ都会 此処ニ二時間程待たナケレバナラナイので町見物ニ出掛く 不思儀ニもいつかトロワニ着て珈琲屋ニはいつた時ニ居た新聞の種取りニ行逢た 二人連レデ居やがつた 奴の友達ト云奴ハ二十五六の男で詩人ヲ気取て居るのだ 新聞屋から見ると少シハ知恵の有ル奴ラシク見ヘタ 奴等の案内で停車場の前の日本の楊弓屋と云体裁の音楽などをやるいやアーな珈琲屋ニ行ク 引張ナドガ四五人も居た 処で種取の野郎がいやニ通人振て引張などニ麦酒ヲ飲ませるやら又雑談ヲ云ふやらして独りで気取て居やがつた 実ニ俗ナ畜生ダ 其者ガトロワで深切振て教て呉レタボウジユ県のなんとか云天然ノ吹キ出シ水の有ル名所ヲ見ニ行タカト聞タから拙者共ハ少し急イダカラ乍残念其処ハ見ナカツタと云てやつたら大不平サ 先づイゝカゲンニごまかして奴等と別れてから町を少し見る 六時四十分の気車で巴里へ向ふ 夜食もまんまと気車の中でやらかし又或る停車場で麦酒など飲だ 夜中ねむられず

1891(明治24) 年6月27日

 六月二十七日 土曜日 (独仏国境旅行日記) 朝の四時二十分ニ巴里へ御安着 直ニ停車場近くのなんでもかまわねへ開ケテ居る酒屋ニ飛ヒ込みシヨコラ汁粉ヲ一杯やつゝけそれからまだ早くて乗合馬車ハ無いから歩て内へ帰る 内へ帰り着く前のねむく為た事非常サ ボージラル大通りなんかハ半分目ヲねむつて通た 終

1891(明治24) 年7月3日

 七月三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもだいげんきにてさる二十七日のあさの四じすぎにぱりすへかへりつきまして二日ほどぱりすにをりそれからすぐニこゝのいなかニまいりましてべんきようをはじめました あとげつはまるであすんでくらしましたからこれからよつほどほねをおつてやらなけれバなりませんよ いませつかくきよねんのなつかきかけてをいたおんなのたつてをるおゝきなゑをかいてをります なかなかむづかしゆうございます このゑをぜひことしハかきとつてしまをうとをもつてをります なニしろおてんきがすこしつゞいてくれなければこまります(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年7月18日

 七月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 六月四日并ニ九日の御手紙難有拝読仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 私事至而元気昨日田舍より巴里へ帰り申候 又明日田舍へ引返す積ニ御座候 今度ハ只金受取と日本へ帰る人の為ニ今夜公使館ニて送別の宴を開くとの二つにて出掛申候 今日のあつさハ中々強く候 田舍にてハ下衣一枚で居り候へ共巴里の市中でハそんな様子も不出来閉口の至に候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年8月28日

 八月二十八日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 七月十三日附の御尊書並ニ三百円の為換券慥ニ相届き難有御礼申上候 共進会へ受取られ申候額ハ林と申当地にて日本古道具商を致し居候人買入度申候得共友人等日本へ送る方よろしからんと深切ニ申呉れ候間即ち其通り都合致し置候 右の林氏が運送方等引受け呉れ候 運賃ハ御地ニて御払ヒ被下度奉願上候 尤も今二三ケ月ハ送り出しの都合ニ相成間敷と奉存候 右額御地ニ着き候上明治美術会とか申会より借りニ参り候時ハ御貸し渡被下度様林氏の頼みニ御座候 左様御承知被下度奉願上候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候  此の前の便より外務省の呉啓太と申人帰朝致し候 同人とハ白耳義国ニて度々取合い申候 此の前の金曜日即ち今日より丁度一週間前不思議ニも同人と不図巴里ニて出逢ヒ帰朝する旨承り候 其日の昼後ハ共ニあちこち散歩して暮らし夕方別れ申候 麹町の番地など与へ置候間尋ね来り呉るゝやも不知候 然る時ハ同人より私の近状等直ニ御聞取被下度候

to page top