1891(明治24) 年6月12日


 六月十二日 金曜 (独仏国境旅行日記)
 巴里ニて十時半の気車ニ乗りをくれ儘よと思ひ停車場で一寸汁粉を戴く(汁粉とハシヨコラ也) それよりシヤラントン迄歩く シヤラントンで十二時二十分位の気車ニ乗る グレ村(拙者が昨年以来始終住て居る処也)の若者一人と乗り合せ四方山の話をしたり 其者ハ昨年の冬とか婚礼をやらかし今ハフオンテヌブローで茶屋の小使か別当かをして居る様子也 モントロウニ三時少し前ニ着せり 此処よりビルノーブ・ラ・ギユイヤール迄歩く 途中で女が日本流ニ子を背負て来るのを見た 西洋でハ中々珍らしいぞ 此のモントロウよりギユイヤール迄の道程日本の三里計 景色などグレ村辺と大同小異甚ダ面白からず おまけニ暑さが強く閉口した 此のギユイヤール村で晩めしを食た時ニ憲兵の野郎が来て拙者等の出で立ちをあやしみ何国の者だ独逸の者ぢやないかなんかんでべらぼうな事をぬかした おかしくてたまらない 日本の旅券と巴里寄留の書付とを出して見せてやつたら安心して行て仕舞い上つた 此処より七時十五分頃の気車でポン・シユール・ヨンヌ迄行く 此の村に明日より三日間の祭有ルガ為メ飾リ付ケ方などニ村中大騒ぎ也 宿屋ニ二軒程行て見たがどうしても留めて呉れぬニハよわつたぜ 止むを得ず大ニ憤発し小一里計り先きのミシユリ村へ向て発ス 今夜ハ始めての晩でハあるし又行先きのミシユリ村ニ宿屋が有るか無いか知れず 若し宿屋もなニもない処だつたら憲兵小屋ニでも行て留めて貰う様ニしよう それとも亦憲兵小屋もなかつたその時ハ運の盡とあきらめぐいぐい夜どうしニ歩くか又どこかニ野じきするより外ニ手ハなしと久米公と話し合ひ笑てハ居る者の入合の鐘もなり今ハ日も全く暮て仕舞ひ此の辺は川近くニてしめり気が強く野ニはかすみがかゝつた様ニ成り昼のあつさに引替へて余程寒く成て来た こういふ晩ニ外で夜を明かす事と本当ニ成て来てハたまらぬと心の内で思つた とうとう村ニ行着てうす暗い酒屋らしい処ニはいつてとめて呉れるか否と聞いた 台所みた様な処で女子男まじり四五人で酒のみながら話をして居たが其内の一人の男が亭主にて年の頃五十位わたくし共でハ御客ハとめませんが此の先ニ宿屋を営業ニして居る内が二軒ありますと丁寧ニ教て呉れたので先づ一と安心 即ち其二軒の内の一つのプーラールと云者の内ニ行てとまる 宿の亭主三十前後の若者ニて一寸開ケタ人物也 今夜ハ屹度虫ニ攻めらるゝ事と覚悟をして寝たが一匹も出てこず 此の上もなき仕合なりけり