本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年9月5日

 九月五日附 パリ発信 父宛 葉書 七月十八日同二十七日附の御手紙いづれも去る二日慥ニ相届拝読仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 正綱も休暇ニて出京二年前よりからだも丈夫ニ相成候事大慶の至奉存候 鎌倉ハ蚊の多き処の由屋敷ハ海岸と承り候間江の島などの如く蚊などハ居らぬ事と存候処却而東京より多きとハ不思儀千万 左ある時ハ折角の夕涼みなどニも愉快自ら少なき儀と存候 直綱も試験ニ及第致し候事目出度目出度 平田氏少し御不快の由酒からとハ是非もなき次第 併し追々ニ御快方と奉存候 私儀本日田舍引上申候 実ハ友人河北 久米二氏二三日前ニ田舍ニ来リ(私を引き出スが為)即ち右二氏と共ニ帰巴仕候 又今三四日の内ニ二氏と一緒ニブルターニユと申海岸へ波の画等研究の為凡ソ一ケ月間位の見込みにて出懸申候積ニ御座候 此の羽書ハグレより帰巴の途中気車上ニて認め申候 早々 頓首 父上様 清輝拝

1891(明治24) 年9月11日

 九月十一日 (ブレハ紀行) 朝九時半か十時頃別仕立の馬車ニて立つ 十二時ニ Painpol ニ着 Hôtel Gicguel(chez Le guévellon)で昼めし 二時ニ立ち Larcouest ニ三時頃着 渡し舟ニ乗り Bréhat 島ニ渡る Hôtel Central と極む 四時半頃(以下欠)

1891(明治24) 年

 九月十一日附 ポルトリユ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康の筈奉大賀候 次ニ私事一昨夜十時半の気車にて河北 久米の両氏と共々巴里出立昨日午後五時頃此のポルトリユと申海浜ニ着一泊仕候 今朝先づ此処よりパンポルと云処迄行き其処より小舟にてブレハと云小島へ渡り其島ニ少しく滞在景色など試みる積ニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年9月17日

 九月十七日附 ブレハ発信 母宛 封書 一ふで申上奉候 その御ち父上様あなたさまおんはじめみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎニわたくしことだいげんきにてこのまへのびんからちよつとゆつてあげましたとうりさる九日のばんにぱりすをたちましてそのばんハきしやでとうしよくじつのひるの一じすぎニさんぶりゆニつきそれよりのりあいばしやにのりこみまして五じごろニぽるとりゆといふところニつきました こゝからはがきをあげましたのです さてそのぽるとりゆと申ますところハうみばたですからそこからぶれハといふしまニゆくふねがでるかとおもつてこゝニまいりましたがそこからハふねハでずもしそこからぶれハじまニぜひわたつていこうとおもふならべつニふねをやとハなけれバならぬともうすことでした そこでそこからぶれハまでハまだずいぶんとをうございますがふねでいくのハてんきさいわるくなければちよつとおもしろいとかんがへふねをやとうことゝきめました それからよくあさニなつてみるとおてんきがなかなかよくあんまりおてんきがよいのでかぜがちつともなくふねハだせないといふことニなりました それニハちよつとこまりましたがこゝから八九りばかりさきのらるくゑすとといふところからしまへわたしぶねがあるときゝましたからこのつまらないぽるとりゆなんかんてところでたかいぜにをだしてとまつてをりかぜのふくのをまつてぶらつとしてをるのハいかニもきのきかぬはなし そのうへいつときもはやくそのぶれハじまがみたいのでばしやをやといそのらるくゑすとのわたしまでいくことゝきめあさの十じころニたちましておひるごぜんをぱんぽるといふちよつとしたまちでたべそれからまたばしやニのりなんでもひるごの三じごろニなつてようやくそのわたしばまでいきつきました そのふなわたしのあるところハなんでもおかからしままでが一りぐらいあるでしようよ ぢきニわたつてしまいました まことニこのぶれハといふところハよいところニてしづかなうへニけしきがよほどよろしゆうこざいます このしまのきんじよニうみのなかニいくつもちいさなしまがこざいます なんでもわたしなんかと一しよニきてをるかわきたといふひとがいふのニにつぽんのをうしゆうのまつしまといふところがこんなだそうです たゞまつしまのしまニハまつのきがはゑてをるそうですがこゝのこじまニハまつのきもなんニもはゑていません それからまたこのしまのまわりのうみぎわニなつてをるところニおゝきなゆハがでこぼこニなつてをります なかなかよろしゆうございます よるなんかつきのあるときハなんともゆわれません こんやのつきもなかなかよろしゆうございます あすのバんハほんとうの十五やのつきだそうですからはまばたのゆわのうへニなんかたべものでももつていつておつきみでもしようともうしてをることでこんどハくめさんとかわきたさんと三にんづれのたびですからなかなかおもしろうございます くめさんとかわきたさんハ二たつきばかりこゝニをつてゑをかくつもりです わたしハもう十日もしたらぱりすへかへつていくつもりです ぱりすへかへつてひとりニなつてみたらなかなかさみしいことだろうとおもひます しかしあつちニかきかけたゑなんかがたくさんありますからしかたがございません めでたくかしこ 母上様  新太 ぶれハより  せつかくおからだをおだいじニ

1891(明治24) 年9月24日

 九月二十四日 (ブレハ紀行) 夜食の時しらぬ男(其中一人ハ軍服にて)二人入り来る 島ニ来居る美術家連にて今夜今一つの宿屋なるペロケグリと云内で島中の美術家の寄合を為す それを幸拙者等招テ知リ合ニ為りたしとの事也 即ち夜食後行ツタ 河北ハ行カズ 十一時頃迄居つて帰つた 歌など歌ふた(拙者等を呼ニ来た中の一人なる軍服の野郎が立つので其奴の別れの為めの寄り合の由也)

1891(明治24) 年

 九月二十四日附 ブレハ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事未ダ此の島ニ居り毎日子供など雇ひ勉学罷在候間御休神可被下候 前便より申上候通り此の島ハ誠ニ景色よき処の上生活安く先づ西洋の極楽ニ御座候 食料一日分三仏五十 又部屋代ハ我十五銭計りニ候 手本雇入代などハ巴里近在とハ非常な違ひニて先づ巴里近在にてハ小供雇入代一時間ニ五十サンチヌ即ち我十銭計りなるを此の地ニてハ半日分が即ち其代と同じ事ニ御座候 大人ハ半日分一仏位の事と存候 此の二三日ようやく少し天気よく相成候間早速外にての稽古相始め申候 私ハ今度ハ永居の用意致し居不申候間三四日の内ニ一先つ帰巴仕考ニ御座候 先づ西洋で今迄見たる内ニてハ此の地が第一ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  仏国コート・ド・ノール県ブレハ島 黒田清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年9月28日

 九月二十八日 (ブレハ紀行) 今夜夷人の奴等ヲヤツヽケテやるが為め拙者等の宿屋デこないだから知り合ニ為た美術家を呼で大御馳走をやらかす スエーデン国夫婦及娘 仏人メツザラ夫婦 オランダ国及其壺口の女 拙者等迄入れて都合十人 一寸愉快ニ十二時過迄楽むだ

1891(明治24) 年9月30日

 九月三十日 (ブレハ紀行) 午後一時半頃ニ小舟ニ乗り込みパンポルへ向テ立つ 久米 河北及ひ宿屋の亭主がパンポル迄送て来た 二時半頃ニ此処ニ着 奴等ハ又同し舟で四時半頃ニ此処を立てブレハ島へ帰て行た

1891(明治24) 年10月2日

 十月二日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事一昨日ブレハ島を出立今朝五時頃ニ巴里へ帰着仕候 又明日よりグレ村ニ引籠勉学の積ニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年10月9日

 十月九日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて先便端書を以て申上候通去る二日朝ブレハ島より巴里へ帰着 其翌日又当グレ村へ引込み申候 ブレハ島と申処ハ誠ニよき処にて閑静ニして景色よく其上生活安く候 学友久米 河北の二人ハ二ケ月位の見込にて同処ニとゞまり申候 私ハ此の村にてかき度者有之候ニ付乍残念独りにて帰り申候 今の内ニ骨を折り来春の共進会の用意不致候はでハ冬ニ入れば思ふ様ニ勉強出来不申候 今度ハ少し大きな画を描き申度存候 趣向ハ百姓共仕事して休みたる処と一つは女子共蛍をさがし居る処との二つに略今の処にてハ定め申候 手本代かれこれ又々金の入る事ニ御座候 ことニよりてハ手本を巴里より呼ヒ寄セずバなるまじきかとも考居候 然る時ハ一層の物入ニ御座候 ブレハ島にて十五夜の晩ハあはびを買入れすあハびをつくり板敷ニケツトを敷き其上ニ座り月を待ち候処不幸にして曇り月ハ出す 併し愉快ハ盡し申候 久し振りにてすあハびを食ひ候へバ殊の外結構ニ被思候 いくら西洋ニ慣れたりとも矢張日本人ニハ日本物の方がよき様ニ御座候   同島にて雨ニ降られて困りたる時  さなきたニかなしきものを秋の夜のしくれニぬるゝ草まくらかも 又同島にてハ度々魚を食ハせ呉るゝ事ニ御座候 伊勢海老の如きものも三日目ニ一匹位ハ三人にて食ひ申候 西洋ニ参り候よりこれ程魚類を食ひ候事ハ始めてニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 横山安克の写真ハ慥ニ届き申候間左様母上様へ御申上被下度奉願上候

1891(明治24) 年10月16日

 十月十六日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)私事不相変大元気にて此のぐれ村ニ帰り候以来日々に秋景色など写し罷在候 来春の共進会への画ハ未だかき始め不申候 ブレハ島ニては友人等と一緒にて面白く暮し候得共此地にてハ独り住ひ淋しき事ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年10月23日

 十月二十三日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉学罷在間乍憚御休神可被下候 此頃ハ当地秋の真盛りにて紅葉の色など余程稽古の為ニよろしく候 去る十八日公使館の日本人会にて三島弥太郎氏ニ出逢ヒ久しぶりの対面 始めハ全く見知り不申候 同氏ハ来月始の便船にて帰朝被為との事承り候 此の頃ハ巴里ニ日本人少き割ニ鹿児島人かなり多く先日集り候内ニ鹿児島人丈が八人 一寸盛故三島氏帰朝前ニ記念として皆寄つて写真を写す事と相談きまり候 私去る四五月頃たのまれて描き候日本女の画新聞紙ニ出候間一冊御送り申上候 其画ハ注文ニ依り可成日本画風ニ描きたるものニ御座候   先日ブレハ島の友人の許へ又々歌を一つ作り送り申候  島人ニつけよ宿せハつはくらめ都の空ニ秋は来ぬると 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年10月30日

 十月三十日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)来春共進会への画色々趣向致し候 其中一つハ森中ニ鹿の児二三匹居る画大きく描き申度折角其用意致居候 人の画よりも却而面白きかも不知ずと存し幸ニ鹿の子の売り物一匹有之候故金ハ我二十円位にて高しとハ思ヒ候得共巴里の手本を雇ふニ比すれバはるかにましなりと考へ手ニ入れ申候(二三ケ月懸て払ふ事と相談し) 其鹿の児ハ生れてからようやく七ケ月とかニ相成由にて未ダ角ハ無之候(後略) 父上様  フオンテヌブロー鉄道局にて認 清輝拝  御自愛専要ニ奉存候

1891(明治24) 年11月6日

 十一月六日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)こないだハおゝさかへんでおゝぢしんがありましてしにんやけがにんなんどがたくさんありましたそうですがまづとうきようへんにハなニごともなくしあわせなことゝおんよろこび申上存候 父上様ニもあなたさまニもこのなつハすこしあつさニおあたりなさいましたよし はやくおなおりでまことニけつこうなことでした 父上様ニは十五やのおつきみニ新二郎やなをつななんかとびやひきさんなどをおつれなさつてかまくらニおいでなさいましたよし またあなたさまニハこきゆうをひいておたのしみのよしなニよりけつこうなことでございます(中略) わたしはこのまへのびんから申あげましたとうりこのごろハびんぼうをしきつてをりこの三日の日のてんちようせつニぱりすへでかけましたときにハもうほんとうニさいふがかるくなつてしまいどうしてもだれかニおかねをかりなけれバこゝのいなかニかへつてくることもまたぱりすニをることもできないようニなりましたがどうもひとニかねをかりることハあんまりおもしろくございませんからいろいろかんがへました どうしてもかいたゑでもうるよりほかニおかねのでどころハございませんのでとうとうぱりすニもつてをるだけのゑをちようど六まいほどはやしといふひとのところニもつていきましてその六まいのうちからいゝのだけ二まいほどにつぽんのおかねで五十ゑんばかりニかつてもらいました まづこれでちよつとあんしんいたしました そのはやしといふひとハここでしようばいをしてをりましてなかなかりつぱニくらしてをりあぶらゑがたいそうすきでわたしのきようしんくわいニだしましたゑをかをうとゆつたのもそのひとです かねがいるならいつでもかすからなんてゆつてくれましたがかりずにすんでしあわせです いまこいだけかいてをるところニ九月二十五日つけの父上様からのおてがみと八百十八ふらんのかわせとがつきました まづこれでをゝあんしんいたしました 父上様ニそのおれいを申上げてくださいまし(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年11月13日

 十一月十三日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極元気勉学罷在候 御休神可被下候 此の週間ハ何ニも可申上事無之候 来年の共進会の為ニ女子の肖像大きなもの一ついよいよ描き始メ申候 此の前の如く今度もいろいろな画三つ四つかきため置き其内よりよき様なもの丈持ち出す積ニ御座候 鹿の児の画ハ未だ本式ニかき不申候 私ハ鹿の骨組等未だ研究致したる事無御座候 鹿の画ハ一層六ケ敷事ニ御座候 今日ハ之レから木の画をかくが為め散歩旁近所の森の中ニ行く考ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  グレ村より 清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

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