1905(明治38) 年1月22日

今日は日曜で一日休んだが大して悪くもならない。夜は昨日より気分はいゝ方である。聖波得堡の擾乱の報続々発表せらる。冬宮の榴弾射撃に始まり皇帝の避難、コサック兵は発砲して数千の死傷を生じ、騒乱全国に蔓延せんとする形勢に見へる。之が為めに露債は大下落。巴里にて一時八十六法を報するに至り其反動として我公債の暴騰を示し六分利は百磅を超過し、四分利八十磅を告るに至り兜町の市況も之れに促されて日々株式の騰昂をなし九鉄の如きも先限の最高価は六十円にも昇らんとす。実に愉快なる現象であつたが露国の罷工騒きは一時鎮圧に終りたるも全国不穏の状態は依然として変ぜず。之が為め財政の大困難を生すべきは勿論であつて戦争の結末も略々判断せらるゝというは目下世界の識者の胸中なるが如し。〔欄外に「相良邸宿舎の兵出発す。」〕

1905(明治38) 年1月26日

一ツ橋より上野に赴く途中、医科大学に立寄る。今週は屍体が来ないので休む事になつた。其方が都合がよいのである。午後其事を生徒に話す。夜佐野来る。

1905(明治38) 年1月27日

午後は一ツ橋三時半帰宅入浴。五時から佐野を尋ね花園橋より電車で小川町まで行く。今夜は竹沢の御馳走で支那料理を喰う。招待者は杉、黒田、合田など一緒で一昨年の御猟場一件についての御馳走である。中々甘いが沢山でやりきれない。小父さんが病気で来なかつたのは残念至極である。十時過に解散。

1905(明治38) 年1月28日

午後は高等商業学校彩友会の談話会を午後二時半より教員室で催す。天気がわるいからやめようと思つたが、少し明るくなつて来たから人力で出掛け佐野に絵はがきのアルボムを借りて持つて行つて見せた。異人連は大概来て居た。茶の席の英語演説は余り感服しなかつた。五時頃に帰宅す。夜和田が債券を持参した。鹿子木攻撃の文章を書いた事を話す。外に画かきの唯奉公は避ける事を注意す。たしか今朝富士郡の新下女が来たと思ふ。

1905(明治38) 年1月29日

午前会員流用金の調査をした。午後二時過き佐野が来て共に小代の病気見舞に行つた処が丁度小泉翁がやつて来て居る。夫から一緒になつて此頃発見された赤羽橋先きのてんぷらを喰ひに行く。こまも同道した。坐敷は一寸いゝが大して甘くはない。飯を待たされて大閉口夫から門先に出ると例の目まいが始まり通りかゝりの人力をつかまへてやつと無事に帰宅した。間もなく二人も来て始まつた。佐野が大景気遂に二時過に及んだ。

1905(明治38) 年1月30日

今朝誰か来たが記臆せず。十時頃に松方から電話で呼びに来て直様自転車で出掛ける。春章の狐の化ける図を買入れたのを評せしめるのである。夫から探幽の写生図の巻物も出して見せた。是は中々珍らしいやうである。昼飯の馳走になり一時過きに帰つた。こまを連れて日本橋まで買物に歩いた。

1905(明治38) 年1月31日

一ツ橋から上野出勤、夜菊地来り三、〇〇の負債。黒溝台附近敵襲の公報追々来る。近来の大戦争で我死傷数も七千以上で敵の損害は之に倍するならんとの推測なり。戦争は猶継続したるやうであるが、敵方より動き始めたるは何か余儀なくされた事情あるに相違ない。敵国の擾乱は一ト先つ抑圧されたやうだが困難の事情は減せず。沙河の結果によりては到底戦争は永続する能はざるならんと思はれる。併し露債は較其市価を回復して巴里八十八法位に昇つた。さりとて新規の募債は到底不可能なりとの評判である。

1905(明治38) 年2月2日

今朝雪降りで十分斗遅刻した。一ツ橋より本郷に廻り明朝来観を約し、上野まで人力で行く。今日はノットを忘れてまごつく。学校では海野勝珉昨夜丸焼けとなつた事を聞く。こま墓参の為め今夜国元に出発した。

1905(明治38) 年2月3日

朝八時より大学で解剖実験、可なり立派な屍体があつた。十時に畢り青木堂でウ井スキー二本を竹沢に届ける事を命じ一寸原町の宅に立寄りしも留守であつた。日本橋丁酉支店に赴く。鬼塚不在で九鉄処分は出来ず。夜熊崎稽古に来る。松崎の失敗其他高商の内情をきく。

1905(明治38) 年2月4日

一ツ橋より直ちに新橋に行き壺屋で食事をなし、佐野を待受け十一時半の汽車に乗込む。竹沢の出発を見送るためである。船宿上州屋にて同氏に逢ひ本船サイベリア号まで一同と出掛る。中々立派な船である。此船にはセバストポリの船長其他旅順の落武者が大分乗つて居る。一寸面白い連れである。喫煙室でビールの御馳走になり二時過に別れた。帰りは海野と一緒になり三時四十五分の発車に乗る。新橋で橋善に入り三人夜食して後分れた。夜十時頃に小泉大人来訪一時半まで差向ひで過した。

1905(明治38) 年2月5日

朝黒田を尋ね貯蓄債券買入の事取極める。色々話して居る内、糸川が来り商栄館一件の話をする。不思議な場会に出つこわしたもんである。併し円滑に運びそうで結構である。間もなく糸川は帰り昼飯は御馳走になる。三宅より雑誌発行の計画を坂井義三郎に話したという事で至極賛成して置いた。夫から目黒に行く。おすみ転学一件のためなり。夕方に帰宅。

1905(明治38) 年2月6日

午前は一ツ橋にて十二時半まで稽古。帰り掛けに芝区役所に立寄転学届の事問合せ後白金学校にも寄り目黒に至る。父上は今日副島伯の葬儀にて不在。よねに書面を学校に出すやうに命じて直様広尾道を帰る。通り掛に小代を尋ぬ。未だ寝て居たがモーいゝといつた。

1905(明治38) 年2月7日

一ツ橋より上野に廻る。学校では本日校則改正の会議を開く。例の通くだらぬ議論が粉出して容易に仕舞はず、遂に点燈時刻になりたれど再会をすれば猶暇取るというので弁当の注文をなし夜に入りて継続し試験及ひ学年規程までも議決したのは大出来の方であつた。併し散会は九時過になり、あかりの用意がなく自転車は置去りで十時半頃に帰宅。

1905(明治38) 年2月8日

朝小林萬吾が来た。一ツ橋専攻一年の方は出席二人しかなくてレクチュールを少々やつてやめにした。午後は上野で三時までやる。帰り掛けに亀屋で珈琲とバタを買入れた。帰宅後入浴。夜七時頃にこまから静岡発の電報が来たが時間表には今頃に出る汽車はないから寝てしまつたら一時過に帰つて来た。

1905(明治38) 年2月9日

今日は雪空になつて中々寒い。高商学校では今日は祝捷会の催しがあるのでフロックコートで九時前に出懸けて行つた。儀式は校長の祝文朗読で其後に陸海軍人の実戦談は面白かつた。殊に第一師団の参謀少佐鈴木資朝という人の二〇三高地占領の実歴大に人を感動せしめた。右終りて校長の語に対して学生間に冷笑の反動が起つたのが頗る妙な顕象と思はれた。併し先々無事に相済んで焼芋及び赤飯の立食は混雑を極める。午後は学生の種々な催しがあるのであるが一時から上野に廻つて再ひ見には行かなかつた。夜熊崎稽古に来る。

1905(明治38) 年2月10日

今日は十時から美術学校で宣戦詔勅煥発の一週年祝賀会を十時から催された。儀式は至極簡単で唯校長の演説が一時間斗あつて後すしの折詰で酒を飲み一時頃に済む。夜溜池牛呑会、六時に歩いて出掛けた。出席者は十三人しかなかつた。雑誌発行の件は決定。三宅と和田が委員となり計画を立てる事になつた。食後少々展覧会について相談あり。十時に散会した。

1905(明治38) 年2月11日

紀元節二日続きの休みで全体ならとこかに出掛ける訳であるが誰もそんな趣向も発起するものなく一日内に居た。是れも戦争の影響といつてもよかろう。久し振りでゆるりと休み風呂桶の繕ひなんかやつた。午前には安仲が来た。午後三時過に小泉翁来る。例の慰みを始める。夜食には五目丼を取寄せる。夜は佐野も会す。併し小泉は内から迎ひが来て八時半頃に往つた。佐野は十一時に帰る。

1905(明治38) 年2月12日

午前九時過より目黒に出掛けて行つた。パヽは此頃は至極健康で仕合せなり。黒田から頼まれた事を尋ねる。夫からの話で日本には極上流の貴人には古から多婚主義が行はれて居つたという事柄を聞く。又戦後経営上馬賊に関する公開演説をやるとの事である。昼食を御馳走になり二時から帰つた。夫から小代の宅に立寄つたが又々熱が出たといつて寝て居た。丁度伊東が来診をしたが別段何処もわるいところはないとの事、四時過帰宅。

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