1905(明治38) 年2月2日

今朝雪降りで十分斗遅刻した。一ツ橋より本郷に廻り明朝来観を約し、上野まで人力で行く。今日はノットを忘れてまごつく。学校では海野勝珉昨夜丸焼けとなつた事を聞く。こま墓参の為め今夜国元に出発した。

1905(明治38) 年2月3日

朝八時より大学で解剖実験、可なり立派な屍体があつた。十時に畢り青木堂でウ井スキー二本を竹沢に届ける事を命じ一寸原町の宅に立寄りしも留守であつた。日本橋丁酉支店に赴く。鬼塚不在で九鉄処分は出来ず。夜熊崎稽古に来る。松崎の失敗其他高商の内情をきく。

1905(明治38) 年2月4日

一ツ橋より直ちに新橋に行き壺屋で食事をなし、佐野を待受け十一時半の汽車に乗込む。竹沢の出発を見送るためである。船宿上州屋にて同氏に逢ひ本船サイベリア号まで一同と出掛る。中々立派な船である。此船にはセバストポリの船長其他旅順の落武者が大分乗つて居る。一寸面白い連れである。喫煙室でビールの御馳走になり二時過に別れた。帰りは海野と一緒になり三時四十五分の発車に乗る。新橋で橋善に入り三人夜食して後分れた。夜十時頃に小泉大人来訪一時半まで差向ひで過した。

1905(明治38) 年2月5日

朝黒田を尋ね貯蓄債券買入の事取極める。色々話して居る内、糸川が来り商栄館一件の話をする。不思議な場会に出つこわしたもんである。併し円滑に運びそうで結構である。間もなく糸川は帰り昼飯は御馳走になる。三宅より雑誌発行の計画を坂井義三郎に話したという事で至極賛成して置いた。夫から目黒に行く。おすみ転学一件のためなり。夕方に帰宅。

1905(明治38) 年2月6日

午前は一ツ橋にて十二時半まで稽古。帰り掛けに芝区役所に立寄転学届の事問合せ後白金学校にも寄り目黒に至る。父上は今日副島伯の葬儀にて不在。よねに書面を学校に出すやうに命じて直様広尾道を帰る。通り掛に小代を尋ぬ。未だ寝て居たがモーいゝといつた。

1905(明治38) 年2月7日

一ツ橋より上野に廻る。学校では本日校則改正の会議を開く。例の通くだらぬ議論が粉出して容易に仕舞はず、遂に点燈時刻になりたれど再会をすれば猶暇取るというので弁当の注文をなし夜に入りて継続し試験及ひ学年規程までも議決したのは大出来の方であつた。併し散会は九時過になり、あかりの用意がなく自転車は置去りで十時半頃に帰宅。

1905(明治38) 年2月8日

朝小林萬吾が来た。一ツ橋専攻一年の方は出席二人しかなくてレクチュールを少々やつてやめにした。午後は上野で三時までやる。帰り掛けに亀屋で珈琲とバタを買入れた。帰宅後入浴。夜七時頃にこまから静岡発の電報が来たが時間表には今頃に出る汽車はないから寝てしまつたら一時過に帰つて来た。

1905(明治38) 年2月9日

今日は雪空になつて中々寒い。高商学校では今日は祝捷会の催しがあるのでフロックコートで九時前に出懸けて行つた。儀式は校長の祝文朗読で其後に陸海軍人の実戦談は面白かつた。殊に第一師団の参謀少佐鈴木資朝という人の二〇三高地占領の実歴大に人を感動せしめた。右終りて校長の語に対して学生間に冷笑の反動が起つたのが頗る妙な顕象と思はれた。併し先々無事に相済んで焼芋及び赤飯の立食は混雑を極める。午後は学生の種々な催しがあるのであるが一時から上野に廻つて再ひ見には行かなかつた。夜熊崎稽古に来る。

1905(明治38) 年2月10日

今日は十時から美術学校で宣戦詔勅煥発の一週年祝賀会を十時から催された。儀式は至極簡単で唯校長の演説が一時間斗あつて後すしの折詰で酒を飲み一時頃に済む。夜溜池牛呑会、六時に歩いて出掛けた。出席者は十三人しかなかつた。雑誌発行の件は決定。三宅と和田が委員となり計画を立てる事になつた。食後少々展覧会について相談あり。十時に散会した。

1905(明治38) 年2月11日

紀元節二日続きの休みで全体ならとこかに出掛ける訳であるが誰もそんな趣向も発起するものなく一日内に居た。是れも戦争の影響といつてもよかろう。久し振りでゆるりと休み風呂桶の繕ひなんかやつた。午前には安仲が来た。午後三時過に小泉翁来る。例の慰みを始める。夜食には五目丼を取寄せる。夜は佐野も会す。併し小泉は内から迎ひが来て八時半頃に往つた。佐野は十一時に帰る。

1905(明治38) 年2月12日

午前九時過より目黒に出掛けて行つた。パヽは此頃は至極健康で仕合せなり。黒田から頼まれた事を尋ねる。夫からの話で日本には極上流の貴人には古から多婚主義が行はれて居つたという事柄を聞く。又戦後経営上馬賊に関する公開演説をやるとの事である。昼食を御馳走になり二時から帰つた。夫から小代の宅に立寄つたが又々熱が出たといつて寝て居た。丁度伊東が来診をしたが別段何処もわるいところはないとの事、四時過帰宅。

1905(明治38) 年2月13日

午前は一ツ橋にて課業。十二時半より約束にて安仲の処に行つた。掛け物の売品があるというのでそれを見せて貰ふためであつた。竹堂の田舎家の景色を拾円にて譲受けて持ち帰つた。途中日本橋の丁酉支店に立寄り鬼塚氏を尋ねた処が胃の中に腫物が出来て吐血し危篤の容体、冲も本復は六ケ敷からんとの事で誠に驚いた。後に至り此日に死去した事を聞く。実に人の命ももろいものである。

1905(明治38) 年2月17日

今朝大学にては死刑の立派な屍体があつて上肢及下肢の一部を示した。十時半畢る。後一ツ橋の帰りに宗十郎町の床屋に寄り直ぐに目黒に行く。よねの西洋料理大奮発であつた。鶏肉のパイが得意であつたと見へる。林檎のガレットは上出来。食後は父上も上々機嫌で時局談あり。又武士道は逆境にありては花が咲けども順境になると兎角卑屈なる者の口実となりて独立心を妨くるとの説御尤である。八時過より帰る。

1905(明治38) 年2月18日

午後和田来り必迫の金調談をなす。明日長原に逢ふ事を約す。今日は例会日なれど誰も来なかつた。今日露国センジュ大公暗殺の号外出づ。内乱が漸く鎮定したかと思ふと又々こんな騒動が起る。専制国の末路は到底擠ふべきにあらず。此変乱に乗じて波得堡の罷工再炎満州軍の輸送は杜絶する等悉く我に取りて有利の報道あり、そふかと思ふと一方には又第三艦隊はノソノソ出掛けるやうな按配である。万事姑息の計ばかりて大勢の帰する所は推知し難からざるなり。

1905(明治38) 年2月19日

和田の一件で朝から本郷に長原と相談に出掛る。今文で昼食をなして後黒田を訪ふ。高橋源チヤンが控へて居た。和田の一件を相談するため無用な時間を潰し老廃検事の肖像をかく傍観者とならねばならず、四時にやつと話が纏り和田の処に立寄り一旦帰宅す。夜は溜池にて雑誌発行の相談会十時半までかゝる。帰りは雪降る。

1905(明治38) 年2月20日

月曜八時半の始りなれば二人曳の車にて出掛る。間もなく雪は歇みて日光かゝやき心地よき天気となる。帰りは電車にて一時半頃帰宅入浴。夜八時過徳田の妻来、次女が本郷の梅月という菓子屋に嫁入つた故祝ひの品を贈つた礼に来たのである。同人の話に静岡では旅順の俘虜将校が来て金が落ちるとの事、殊に写真屋大繁昌で是までこんな金のはいつた事はないという次第で全く露国万歳を唱へる様子である。おゑつさん今夜は泊る。

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