1905(明治38) 年3月22日

今月は予科の試験であるから病気を押して一ツ橋に出る。十時半にしまい帰りに医師の所に寄り十一時半帰宅。今日は熱はないが気分勝れず美術学校へは病気届を出す。

1905(明治38) 年3月25日

丁酉銀行約束手形の期日であるから車で書替の手数をやりに行く。新支配人に面会した。至極よさそうな爺さんである。九五〇の割引料二十円五十銭余を払つた。帰りには伊東氏に立寄り診察を請ふた。午後床を引かしたが休まなかつた。夜小泉佐野例会。

1905(明治38) 年3月26日

今日は久し振りで気持のいゝ天気になつたので午後自転車で外出。永田町古川氏を尋ねて黒田より地所譲受けの相談あることを話す。帰途に小代を尋ねる。少時の後佐野も来た。今夜九時に岩村が着するという事で迎ひに行こうといつて久し振りで何か会食する事を約す。五時半より三人で出掛けて例の今福で晩食、胃弱の際少々喰ひ過きた方である。四国町から街鉄の電車で銀座で下り佐野は近常で弗入れを買つた。新美術館に一寸立寄り停車場で聞けば九時半に着するのは大垣から来るのであつて神戸の汽車は十一時過でなければ来ないというので間違ひであることが分り岩村の宅の方に出掛けて行つた。果して主人は五時半に着いたのであるが我々の迎ひに行つた事を聞いて態々新橋に出掛けた跡であつた。仕方がないから其まゝ帰つた。

1905(明治38) 年3月27日

朝岩村を訪ひ旅中の話を聞く。欧洲の戦争に対する感動は日本で想像したやうなもんではないという事。今となつてはそれに違ひないと思はれる。それがために買入れ品等についても多くの便宜を得たとの事である。一時間斗話して帰る。夜こま同道新橋辺まで歩く。まだ夜寒の事であるから人出は少ない。小林時計屋から勧工場をひやかした。

1905(明治38) 年3月28日

朝九時より自転車で目黒に出掛けたるに白金にて父上に行逢ひ永田町に行つて直に帰るから待つて居れとの事。今日は一日暇であるからゆるりと構へる。十一時半頃父上帰宅せらる。すみは今日学校で免状が渡つたというので大喜びで昼頃に帰つて来た。それで来月よりは白金小学校に転学する都合になり寄留換の甲斐もある訳である。昼飯はよねが手練の西洋料理である。父上は例の時局談で持切りであつた。四時になり辞し麦酒会社道から広尾に出て帰つた。今朝彬に所得税を区役所に持たせてやつたところ領収証を取つて来ないので大にまごついたが無事であつた。

1905(明治38) 年3月29日

暖かになる。目黒からスープをこしらへて送つて来た。終日引込んで居る。午後万長にすみの袴を求めに行き後に色合いが俗であるから取換へることにした。夜高島大人来訪。九日に戦地より帰つたとの事で沙河陣地冬越しの談面白し。併し戦争も一度も見ないといつた。

1905(明治38) 年3月30日

今朝もよねがソップを持たせてよこした。胃病の養生のためと思はれる。昨日の市場は平和見越しの大騰貴。九鉄も一時六円三十銭に落ちたのが七円を少し越した。午後森元町の写真屋にて撮影す。高商卒業生の請求に応するためなり。夫より春暖に乗じ散歩、街鉄車に乗り銀座にて下り竹川町商栄館の様子を見に行く。画の数が少なく入場者は不平なりという。高林及び高橋と少時話し帰路に就く。夜熊崎来。

1905(明治38) 年3月31日

今朝こまは一井に歯の療治に行つた。午後自転車にて目黒に赴き途中白金台町の松村氏方に立寄りおすみ入校につき配慮せられたる礼を述べる。目黒には小供の袴を持つて渡たす。父上は在宅。光風の序文が出来たというて示された。微雨降り出したるにより自転車は預けて三時の汽車にて品川へ廻る。同処まで是まで六銭の所を参銭の通行税がかゝる。四時前に帰宅すれば雨は止んだ。

1905(明治38) 年4月1日

朝九時よりこまの請求で三越呉服店の売出しに出掛る。今日は雨天なる故混雑はさほどではない。フラネル地二反を求める。それから白木屋の方にもはいつたが品物は余程少なく且少し高いやうに思はれた。人出はたんとなかつた。電車で大門まで戻り雨中を歩して赤羽を越へてんぷら屋で昼飯をやる。到底橋善のやうな訳には行かぬ。一時に帰宅す。午後試験調へ。

1905(明治38) 年4月2日

今日は日曜明日は祭日で全体より余程賑はふ筈であるが天気がわるくて丸潰れである。今朝試験調べでくらす。十一時過に菊地が来て後に岩村の処で逢ふ約束をする。甚たお粗末な食事をして後岩の家を尋ねたるが小代の内にいつたというので三河台に出掛け四人集り久し振りでの懐旧談をした。四時に一同出掛け高樹町に立寄り再び散歩。あの辺で菊地の新築の貸家などを見て赤十字社病院の盛んな新建築に沿ひて笄町を廻り木村町を通り仙台坂下から善福寺境内を過ぎて目的の更科にはいる。日曜の事であるから奥坐敷はお客が一杯ではいれず仕方がなく表の店の方に上る。こつちでは混雑はないが電話のチリンチリンは如何にもやかましい。内の者はそんな事は一向平気で立働いて居るのは感心なもんだ。盛籠二つづつと天ぷら一つたいらげた。岩村が例の家中の評判は穿つたもんだ。小父さんは前歯が痛むといつてふさいで居たのは遺憾なり。近来裏座敷を拡張してからさし身や茶碗蒸の料理なんかこしらへるやうになつたのは不必要な事で更科も堕落したという評判一決した。彼是一時間半も話して長坂上で分袂七時に帰宅した。

1905(明治38) 年4月3日

大祭で実業団体の大祝捷会を催す筈であつたが此雨ではお流れだろう。高商のボート会も昨日の日延べが又雨でどうなつたか到底だめだろう。美術学校の恤兵展覧会も同様不景気に相違ない。予は終日家居、光風原稿に著手す。夜雨中なれどこまに促されて麻布亭に源氏節を見に行く。拾銭で芝居の直似が見られるので中々大入りである。芝居が始まるや否や忽ち殺人を演じたには閉口。所謂武士道の教育はこんな事で間断なく施されて居るのだと思つた。事柄は越前のお家騒動で形の如き悪者、愛妾、忠臣の腹切はりつけの場までもある。西洋人がいくら研究しても分らない軍人教育の真相は畢竟こんなもんである。役者にはたつた一人見られるのがあつた。此女役者の手踊りなんか面白い所があるに相違ない。源氏節の本人岡本美登松なるものゝ本芸は充分に見えないが唯地語りを一人で引受けるまでの事である。はねは十時過ぎになる。

1905(明治38) 年4月4日

昼前は瑞西旅行記を認める。午後は少し明るくなつたのでこまを携へて白木屋に出掛る。客は此間より多いやうである。蒲団の裏になる色物を求めた。帰りは神明の太々餅に寄り四時帰宅。夜松方正作より電話が掛つて八時頃歩んで出掛ける。例之通浮世画の買物の評判にて十一時まで話した。

1905(明治38) 年4月5日

午前山内より街鉄電車に乗り日本橋まで行く途中、日比谷公園及び三菱の明地にては一昨日より延期された実業団の祝捷行列大賑ひであつた。茅場町にて下り、丁酉支店に洲戸氏に面談。九鉄株売払ひの事を頼む。月越しに七円台になり平和見越しもはかばかしからぬ故一ト先づ手放する事に決したのである。早速電話で午前の相場を問合せてくれたが意外にも一円上りで八円五十銭になつたという事である。依て其指価を以て六月期にて売払つてもらう約束をした。若し是が昨日話したのであつたならば見すみす拾円の損になるところであつた。併し妙なもんでこうなつて見るとなんだかまだ上りそうな気のするもんで今日出来なければいゝと思ふ位であつた。兎に角スペキュラッションを実地にやつて見たのは是れが始めてゞあるがどんな結果になるにや、一寸面白いもんだが実際有害な事には相違ない。龍ノ口まで歩き途中斎藤知三氏に出逢つた。電車にて山内まで来て十一時半に帰宅。午食後直様目黒に自転車を取りに行く。長坂下より十銭で三光坂の下まで人力に乗り田圃路を歩いて麦酒会社の裏に出る。花はないが春野の気持中々いゝもんである。目黒では父上は早稲田のお留守。すみは二年級の教科書を買つてもらつて大喜び。此頃時々脳充血を起して卒倒する事があつて医師より気を詰める事は禁じられとのよねの話。何でも是はあんまりきびしく育てんとするため無心の小児の神経を衰弱せしめたる結果に相違ない。此孤児の如きは直に非家庭主義の犠牲となりたるものにて実にかわいそうであるが是も成り行で仕方がない。追つてそれを償ふ時期もあろうと思ふ。三時に帰宅。先日少々雨にぬれて銹が出たので手入れをする。此前に古物を買入れた風呂を始めてコウクスにてわかして見た。不経験のため大に手間取り漸く五時にはいつた。夜は熱気。

1905(明治38) 年4月6日

今朝十時新予備科教員会議途中日本橋丁酉支店に立寄る。会議は重に時間割の事である。先づ都合よき時間が取れたので結構である。十二時過になり弁当、後恤兵展覧会をのぞき降り出して来たから大急ぎで帰宅した。

1905(明治38) 年4月7日

午後長原来り表情論の繕ひをなし四時頃までかゝる。今朝丁酉に出掛る。九鉄は八・五五で買れたが昨日の後場は六〇を越えたので実にいやになる。素人の商売はこんなものなり。

1905(明治38) 年4月9日

九時半頃小代来り岩村を誘ひ今福にて昼飯をなし殆ど半日暮してしまつた。全体明日の日曜にかけて一ト晩泊りにとこかへ出掛けよふとの話であつたがとうと纏まらずにしまつた。それから第二次回は小代の処に集り晩飯には菊地も加り大和田に会食。高島を呼ひにやり再ひ三河台に集り大人の昔囃しで大に賑はひ十二時過になる。今夜バルチック艦隊新嘉坡出現の号外出づ。実に意外千万なる出来事なり、市場は大に反動を見る。

1905(明治38) 年4月10日

今日は余りに気持がいゝから岩村の処に出掛けて散歩を進めて居ると丁度小代も来り菊地を音づれ、四人で出掛る。大人も同行の筈なりしが新聞社の都合で来られず残念であつた。青山学院から渋谷停車場を経て宮益の通りで蕎麦屋に入る。こちらは全くカルチェーミリテールとなつて繁昌して居る。此蕎麦屋なども兵隊あて込の奇妙な給仕女なんか居る。これからどこという目的もなく代々木の方向に進んで行く。青岡園の牛乳所で乳を飲む。此家の主婦青んぞうの若い女で色々もてなした。横手の隣に新築中の小別荘が見へたがあれは鍋島さんの御家老の家だといつた。こゝを出で土手についた田圃路を行くに風なく日が暖かて何ともいはれぬ気持がする。菊地の旦那久米氏の煙草製造所の脇を廻つて同氏の家敷の前を通り菊地の案内で庭を見る。芝山で足を出して休息した。帰り掛け三太夫の福島というが出て来てお茶を呑まされた。やがて礼をいうて出ると裏口の処で犬が三疋待伏せをして吠へかゝつたのはおかしかつた。甲州街道に出で銀世界の前で団子を喰つてこゝから堀之内の方に向つた。晩飯はしがらきのノツペーと極つたからである。堀之内へは一里余りであるがまだ日が大分高いやうだからそろそろ歩く、菊地は余程疲労の体で屡々休む。モー八町ばかりしかないという処で左側の漬物屋へ一同お土産の折を求めそれを提けてしからきへはいる。先以ノツペーを注文する。大した結構なものではない。ぬたに差し身、玉子焼なんかで一人前三十何銭は高くない。中野で七時過の電車に乗り新宿で街鉄の車に移り三宅坂にて青山線に乗替へ無事に帰宅。久し振りでいゝ散歩をやつた。

to page top