1905(明治38) 年1月22日

今日は日曜で一日休んだが大して悪くもならない。夜は昨日より気分はいゝ方である。聖波得堡の擾乱の報続々発表せらる。冬宮の榴弾射撃に始まり皇帝の避難、コサック兵は発砲して数千の死傷を生じ、騒乱全国に蔓延せんとする形勢に見へる。之が為めに露債は大下落。巴里にて一時八十六法を報するに至り其反動として我公債の暴騰を示し六分利は百磅を超過し、四分利八十磅を告るに至り兜町の市況も之れに促されて日々株式の騰昂をなし九鉄の如きも先限の最高価は六十円にも昇らんとす。実に愉快なる現象であつたが露国の罷工騒きは一時鎮圧に終りたるも全国不穏の状態は依然として変ぜず。之が為め財政の大困難を生すべきは勿論であつて戦争の結末も略々判断せらるゝというは目下世界の識者の胸中なるが如し。〔欄外に「相良邸宿舎の兵出発す。」〕

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