1905(明治38) 年2月13日

午前は一ツ橋にて課業。十二時半より約束にて安仲の処に行つた。掛け物の売品があるというのでそれを見せて貰ふためであつた。竹堂の田舎家の景色を拾円にて譲受けて持ち帰つた。途中日本橋の丁酉支店に立寄り鬼塚氏を尋ねた処が胃の中に腫物が出来て吐血し危篤の容体、冲も本復は六ケ敷からんとの事で誠に驚いた。後に至り此日に死去した事を聞く。実に人の命ももろいものである。

1905(明治38) 年2月17日

今朝大学にては死刑の立派な屍体があつて上肢及下肢の一部を示した。十時半畢る。後一ツ橋の帰りに宗十郎町の床屋に寄り直ぐに目黒に行く。よねの西洋料理大奮発であつた。鶏肉のパイが得意であつたと見へる。林檎のガレットは上出来。食後は父上も上々機嫌で時局談あり。又武士道は逆境にありては花が咲けども順境になると兎角卑屈なる者の口実となりて独立心を妨くるとの説御尤である。八時過より帰る。

1905(明治38) 年2月18日

午後和田来り必迫の金調談をなす。明日長原に逢ふ事を約す。今日は例会日なれど誰も来なかつた。今日露国センジュ大公暗殺の号外出づ。内乱が漸く鎮定したかと思ふと又々こんな騒動が起る。専制国の末路は到底擠ふべきにあらず。此変乱に乗じて波得堡の罷工再炎満州軍の輸送は杜絶する等悉く我に取りて有利の報道あり、そふかと思ふと一方には又第三艦隊はノソノソ出掛けるやうな按配である。万事姑息の計ばかりて大勢の帰する所は推知し難からざるなり。

1905(明治38) 年2月19日

和田の一件で朝から本郷に長原と相談に出掛る。今文で昼食をなして後黒田を訪ふ。高橋源チヤンが控へて居た。和田の一件を相談するため無用な時間を潰し老廃検事の肖像をかく傍観者とならねばならず、四時にやつと話が纏り和田の処に立寄り一旦帰宅す。夜は溜池にて雑誌発行の相談会十時半までかゝる。帰りは雪降る。

1905(明治38) 年2月20日

月曜八時半の始りなれば二人曳の車にて出掛る。間もなく雪は歇みて日光かゝやき心地よき天気となる。帰りは電車にて一時半頃帰宅入浴。夜八時過徳田の妻来、次女が本郷の梅月という菓子屋に嫁入つた故祝ひの品を贈つた礼に来たのである。同人の話に静岡では旅順の俘虜将校が来て金が落ちるとの事、殊に写真屋大繁昌で是までこんな金のはいつた事はないという次第で全く露国万歳を唱へる様子である。おゑつさん今夜は泊る。

1905(明治38) 年2月21日

九時に家を出たが徳田の妻は間もなく帰る様子であつた。今日の講釈は甚た不出来であつた気がする。一ツ橋から上野に行くに時間が迫つて甚た究屈に思はれた。四時半過に帰宅するにこまは本郷に徳田と共に出掛けてまだ帰らず。留守は小女独りの処に表に怪しき男がはいつて来たといつて大騒ぎをして居る。幸ひ今日は裏の戸の破損を繕ふために大工が来て居てまだしもよかつたが甚だ不用心な事である。こまは六時前にやつと帰つて来たから不注意を戒める。夜は仕事をした。

1905(明治38) 年2月22日

今日は降り出しそうな天気であつたが奮発して自転車にて出掛け大当りであつた。午前上野では頭骨を始める。上出来の方。例刻帰宅す。今日の新聞に拠れば昨日ブールス市場大好況を呈し、電気及瓦斯株騰貴せり鉄道株は余り動かず九州株は五拾七円止りである。此好況は勿論露国の紛乱に依り平和克復の企望生じたるとの説多く、且倫敦に於ける本邦公債は益々騰貴し四分利八十三磅を超え六分利は百四磅に昇りたる影響現はれたるに依る。此際期待せらるゝ所は唯沙河大決戦の結果如何にある事にて結氷の融解以前に是非共軍の行動を見るべく本月二十日には我軍の活動を開くべしとの説は早く伝りたる所にして、此際露国の出来事は一として士気の沮喪を招かざるものなく為めクロパトキンが神経衰弱を報するあり。或は総司令官の位置危しと伝ふものあり。兎に角十月以来対峙して動かざりし二大軍の決戦は今や眼前に迫り其成果は彼我の形勢に大変動を生すべきこと勿論である。 丁度一ヶ月彼是れ取紛れて日記を怠つた間に戦争開始以来の最大なる捷利が事実となりて現はれたのである。勿論此事件は世界の歴史上に偉大なる記念を遺すべきこと疑を容れないので奉天附近の会戦は二月の廿七日かに右翼軍の清河城占領を以て開始せられたが同時に旅順より参加せる乃木大将の軍隊は最左翼に廻りて意外なる大活動をなし、忽ちにして長灘新民屯の方面より猛進して奉天の西北、敵の退路に迫り東西相応して包囲の形勢は大成したれば敵軍全く潰乱して三月八日総退却を始めたるを激撃、三月十日には奉天我有に帰し猶追撃急にしてやがて鉄嶺も防備の暇なくして我軍に委ね遂に開原及ひ昌図までも前進占領せらる。敵の満州軍は茲に於てか其太平洋艦隊と殆んど同一の状態に打なされたといつてもいゝ我軍の功烈真に其比を見さるものである。併しながら一般の人気は勝利に忸れたといはんか割合に平気で此赫々たる武勲を迎へたやうである。株式市場の如きは実に反動的低落を告げたるに至つては不思議な人情といはざるを得ない。さりとて斯くまでの成功は世界の人心を感動せざるの理なり。そのお蔭にて英米市場に於ける我募債は四分五厘九十を以て三千万磅の巨額は忽ち之に応じ同時に敵国の外債談は巴里に於て不調に帰せんとする。此際進退に究したるは一月以来亜弗利加の一島に寄り泊せる波児的艦隊の行動にして其第三四艦隊も日月の経過に促されて止むを得す蘇士を超へて東航せんとするのである。或は其本隊も既に馬島を発して東行せんとすとも到底それをなすべき勇気ありとは信ずるを得ず、万一然ることあらは我は再ひ之を粉韲せんこと難きにあらざるなり。兎に角是れからの成り行きは戦争の永続する程益々我に利なるべきは決して疑ひないのである。

1905(明治38) 年2月28日

一ツ橋より上野に廻る。例の如し。学校の帰途に校友会雑誌編輯委員の慰労会で湯島天神前の元酣雪亭跡龍鳳館という支那料理に正木氏始め一同集る。料理は勿論此間竹沢の御馳走であつた神保町のとは比較にならない。大に日本化した煮方であるが併し直段の割には一寸喰へる。別誂への八宝飯などは上出来であつた。話しが大分はづんで九時近くに散じた。

1905(明治38) 年3月5日

今日は黒田の処で鴈の御馳走をするから昼食にこいという事で十一時半頃から出掛る。長原藤島中沢中村合田など来る。ソース・マイヨネーズを製するので合田と黒田と三人掛りでやつた。御馳走は中々大袈裟で無暗詰め込んだ。其半に磯谷が来て戦争の画に買人が出来て家なんか買つて大に景気ついて居る話をする。併し銀座の方は愈立退く事に運命は極つたのである。世は様々なもんというべし。後菊地も来る。熊野屋の倅も来て大人数となつた。夜雑誌編輯の相談のため和田の所に出掛けた。和田は此間から胃痛で寝て居る。三宅坂井会す。製版家の某も来て居た。十時頃帰宅。

1905(明治38) 年3月9日

一ツ橋より大学に立寄、上野に拠り途中時事の号外を求める。奉天占領の記事あり。是れは少し早過ぎた勝報であるが学校の食堂では此号外で賑やつた。

1905(明治38) 年3月10日

朝八時半大学に出掛る。此週は死刑の屍が三体も集り解剖室は大繁昌、中にも赤児殺しの婆の如きは珍らしき肥満せるものであつた。〔欄外に「奉天占領」〕

1905(明治38) 年3月14日

今年始めての暖気である。上野から帰途に大村氏帰朝の祝宴で梅川楼に赴く。来会者四十人許、例ながら久一さんが隣席での大気焔には凹まざるを得ない。久一さんは此会を以て奉天占領の祝捷として大に飲むという説である。又うん公がある芸者を捉へて重野の事でひやかしたが一向平気なもんであつた。帰り掛に先年岡崎の御馳走になつた時壱円おごつた下女が覚へて居て挨拶したには驚いた。

1905(明治38) 年3月15日

今日一ツ橋で本一の学生は春休みに近づいて今から欠席者が多分にある。言訳丈の稽古をして跡は巴里の珈琲談で時間を畢つた。〔欄外に「此夜鉄嶺占領」〕

1905(明治38) 年3月18日

午前は一ツ橋、午後目黒に出掛ける。商栄館へ送る画の事時間に間違ひありて人足は無駄になり馬鹿を見る。四時頃より帰宅すれば家の方でも間違へたのを持つて行つたので大騒ぎであつた。

1905(明治38) 年3月19日

是まで磯谷の陳列所で大分金が取れたので跡を所有主の糸川が引取つて真の美術館にするというので中勝が其事務員となり陳列を担当する訳である。今日は朝から来てくれというので九時に出掛けて行つたところが誰も居らず二階下の冷たい土間に埃りをあびて待つて居ると十時過に糸川と中勝も来り十一時半頃黒田もやつて来て色々内部の装飾等話す。昼飯は三橋亭の御馳走もなまぬるい口当りで却つてそんな用意をしてくれない方が有難かつたのである。彼是三時頃まで日当りのない冷たい空気を呼吸したゝめインフリュに冒されるのを明らかに感じた気持がする。之がために遂に一週間斗りも病床に臥すやうな事になつた。

1905(明治38) 年3月20日

朝自転車で一ツ橋に出掛る。予科は試験中でなく本一だけ普通の授業をなし、夫から試験問題の準備をなし、十二時に学校を出て帰途には永田町田中氏に立寄り黒田から頼まれた地所の相談をなし一時半頃帰宅、直様平臥する。発熱八度三分斗に及んだので伊東の来診を請いたるに速に来てくれた。診察後古画の話で一時間余も話して行つた。夜小泉来訪佐野を迎へにやる。

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