1905(明治38) 年1月2日

今朝は八時に一同起き立つ。船の都合がわるくて明日此処を立つては冲も東京まで帰り着く事は六ケ敷というので今日の船に乗る事にした。滋賀先生は船では覚束ないから陸を大仁に山越する由。兎に角帰りの支度を整へ勘定も済した。六人の総勘定僅かに十四円八十何銭というのであつた。茶代は積金にて家に三円女中に一円やつた。十一時餅で腹をこしらへやがて宿を出る。船場に至りて聞けば今日は船が損じたとかで出ないというのである。案の如く予定のプログラムは一変せざるを得ない。そこで断然熱海まで陸行する事に一同賛成し茶屋で人足を雇ひ、荷物をかつがせる。熱海まで一円の約束である。若し余り骨が折れるやうなら網代で泊るというので其支度をなし、磯谷兄弟に分れて十二時に歩き出した。小父さんは銃を肩にして途中を打ちながら歩こうという訳で出発する。海辺の眺望の良い暖かい道を尻端折りして歩く心地は中々わるくない。意外な事で此愉快な気持を儲け得たのである。伊東から一里で宇佐美という村は伊東よりも却て面白い処である。此村の鎮守の森で小父さんは小鳥を二羽射留めた。夫より山道にかゝつてだんだん登つて行く途中には裏白の沢山生へた藪を通る。峠の上の茶屋にて一ト休みする。亭主は猟師て今も兎を料理して居るのであつた。小父さんが此辺に鳥は沢山出るかと問ふにそれは一日に十五や二十は見つかるのだが取れると取れないとは腕前の如何にありとの返事は大に小父さんのアムール・プロプルに反動を起して生意気な奴といつたが是はいつも聞く至当の返事である。此茶屋を出ると直くに降り坂にかゝり瞬間に急路を下る途中海の見ゆる処より近路らしい径路に入る。傾斜が急で霜解けのために表面のみグチヤグチヤてあるから滑る事一ト通り、遂にエキリーブルを失つて尻餅をつき羽織も着物も泥だらけになる。中頃に至りて小父さんは鶉が居そうだといつて左の畑にはいつて行つたが間もなく雌雉子が一つバタバタと飛び出したのを連発て射て落たはもうけものであつた。山路を下つてしまへば網代港である。荷かつぎの爺は跡になつたであらうといつて探して居るうち奴さんは如才なくチヤンと清水屋という宿屋にはいつて待つて居たので、まだ時間はあるが誰も熱海まで進行せんというものはない。宿屋の様子も鳥渡気に入つたから裏二階に上る。荷物かつぎには八貫やつて返した。二階坐敷の眺望は中々妙である。前は松の大木を隔てゝ箱根足柄の山々が海面に聳へて居る。今や温かき光を送つて来る夕陽は港口の人家に当つて潮に耀いて見へる。一寸中国あたりの景色に似た所がある。菊地は早速ブツクを出して写生を始める。小代は台所へいつて鳥汁を命した。熱海から来た十人斗の鉄砲連は宿屋で一杯やつて前岸に繋いた船に乗つて帰つて行く。此際椽側に写生をして居た菊地の耳に誰かの声で旅順が落ちたというのを聞いたといつた。何んだか分らないが或は事実かも知れないと思つたか、是ころ都では既に今朝来知れ渡つた事で其反響が今斯る僻地の浦頭に居る我々の耳に入るとは割合に迅速なもんである。夜食は久し振で人間らしい飯を食つた。甘鯛の煮肴いかの酢の物で一杯やり、小鳥の汁は誠によい味に出来た。菊地は酒が利いて直に寝てしまひ跡は三人で十時頃まで遊んだ。是れが即ち旅順開城規約成立の当日の日暮しであつた。

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