1905(明治38) 年4月14日

午前はかき物でくらす。午後思ひ切つて兜町に出掛る。是は波児的艦隊出現以来九鉄は段々下押して五十八円台となつたから此際買戻した方が得策と考へたからである。行きがけに宗十郎町の床屋で頭を刈らせるため大分待たされる。通りで電車に乗込み日本橋にて下り丁酉に立寄つたが洲戸は不在である。夫からあちこち探して漸く中島の店が見つかり八・三〇位なら買ひ戻して差支へない事を頼む。果して出来るか分らぬが出来なければ元々の事である。三時過になり濠端線で高商に赴く。今日は臨時休業なれど自転車を取りに行つた訳である。四時帰宅。夜藤島の友人の猿渡という人が尋ねて来て仏語の口を依頼した。

1905(明治38) 年4月15日

午前は一ツ橋十時までやる。今朝美術学校で新入生に校長の訓示があるから出て来いという事であつたが行かなかつた。午後は彬にいちを附けて上野に花見にやる、天気になつて大喜びと思ふ。小林萬吾幕の損料内金五十円を持参した。五時過に小代来り佐野を待合す。間もなく佐野も来る。何れかに飯に行く処なれど油のために見合せ鳴戸鮨に丼を注文した。小泉は京阪地旅行で居らぬ、矢張物足らぬ様である。飯の時にお神酒が出て来たのは閉口であつた。八時二人を置去りにして溜池まで自転車を飛ばす。光風原稿締切日であるから編輯会が開かれている。坂井の他に黒田和田も来た。十時まて居て御免を蒙り帰宅後又一ト廻りやつた。十一時散会。

1905(明治38) 年4月16日

九時から自転車で目黒に行く。小供等は花見に出掛る処であつた。マヽンの語は少々耳障りであつたが是も一種の運命と思はなければ仕方がない。父上は昼後から湯島に演説に出掛けるとの事であつた。九鉄株の話で得意の実験談が始まる。十一時に退出帰りに十番で豚肉を買入れて帰宅す。午後は月報原稿の執筆で丸潰れお負けに山口亮一が来て暫らく暇を取られた。こまは今日花見をするつもりで菊坂の山口の方に朝から出掛けてすかを喰ひ大不平で昼後三時頃に帰つて来た。

1905(明治38) 年4月17日

朝八時始りの処大降りにて人力車をおごつた。十二時まで課業をやり電車で帰つた。バルチック艦隊が新嘉坡の沖合に見へた事の報があつて以来十日間になるが其後は十一日に柴棍の東北に見えたというのみで行方不明であつたが今日の号外には仏領安南のカムラン湾某地を根拠地として碇泊すという大本営の公報が出たので大概様子は分つた。

1905(明治38) 年4月18日

昨日の天気に引換へ今日はすつかり天気になつた。併し北風にて中々寒い。今日は火曜で朝九時から一ツ橋の方が始まる。十二時までブツ通しにやつた。昼休みに校長が教員室に出て来て春季修学旅行の相談がある。来廿七日頃一泊で箱根行と極つた。要するに学課を休む口実となつて生徒と教員との両徳である。昼後上野廻り、北風が強くて難儀である。上野の花は昨日の風雨で全く見処はなくなつたれど天気で随分賑やかである。考古学は四時十分前まで講じて五時前に帰宅す。昨今露艦に関する新報なく市場は大なる変動なし。

1905(明治38) 年4月20日

一ツ橋及上野仏語第二回講義午後は二時より四時まで帰り向ひ風で沙埃り大困難。夜こまを連れて森元町の高砂亭で源氏節を聞く。イヤ見た例の乞児芝居の真似事で斬り合殺人で持切り、戦時のスペクタークルとはいへ余りといへば幼稚至極である。十時半過にはね雨に逢ふ。

1905(明治38) 年4月21日

午後三時に高商をしまつて一旦帰宅し、電車で出掛る。本郷弓町小島氏に至り弔詞を述べ五時に湯島天神前支那料理龍鳳館に校友会月報慰労会出席す。来会者は正木会長始め例の通りである。併し岩村が来たから中々賑やかになる。話しはいつまでも尽きない。九時半に引揚げて岩の発起で広小路の常盤という汁粉屋に一同はいつた。此処で又大食の話が始まり正木氏の境の酒造家で正月に餅の喰ひ競の話など出る。十時過になりボツボツ降り出したので急ぎ電車に乗り岩と一緒で大門で下り幸ひ降りやんた時で無事帰宅。

1905(明治38) 年4月22日

朝高商。昼食後こまが裏で植木をほじくつて居るのに何とかいつて居る内僅かに十五分斗の時間に表口の下駄箱の上に並べてあつた靴を三足持つて行かれた。身上あり丈けやられて早速難儀をする。併し外から見へる所に置いたのが間違ひで止むを得ないとはいうものゝ如何にも胸屎が悪い訳である。〔欄外に「今夜始めて雷鳴を聞く。」〕波羅的艦隊は其後矢張り仏領安南のカムラン湾に隠れて居て其目的とする所は未だに不明。我海軍の手筈は如何んなものであるかは猶更不明。此処暫くの間が余程面白いのである。若し昨年の実験が無かつたならば夫れこそ此上ない気味の悪い訳であろうが海軍の手並みは陸軍のそれに比べてより大なる偉功を奏して居れば国民は何時でも何処にても出逢ひさへすればお手の物と信用し切って居るところであるから敵艦の我領海に近くの事の一日も速やかならんを希望するやうな訳である。処で新嘉坡を出て北航しそうであつた艦隊が仏領内の港湾に碇泊して動かないとなつたので失望もする。又何か巧みがありそうで聊か気が揉める様になつて来た。此際世界の問題となつたのは仏国の中立問題で日本からは直ちに其説明を要めたるに対し極めて曖昧な返事で胡魔かして居る。一つ間違へば戦争が大分ゑらくなつて来そうでもある。英国も此際黙つて居る事は出来ない。新聞の議論は大分喧かましいやうである。こうなつて来ると露艦の手際が益々現はれて急に強くなつたやういひ囃してくる。それに後発の第三艦隊も今月の十七日に錫蘭沖に見えたとの報知もあり其到著を待つて大挙襲来するか又は反対に分れわかれに太平洋上に出現するならんといひ或は我艦隊を引寄せ遠距離の海上で一戦試みる計略なれば日本で此れに乗つてはならぬと心配する者もある。兎に角そういつまでもクズクズしても双方仕方がない。もう近い内に事変が生するに相違ないとは思はれる。市場は不相変強硬出現の日に六十円七十銭に昇つた。九鉄が八円六七十銭に居据りになつて隈伯の戦局悲観説も大なる影響を与へない。此処双方睨み合ひで第二の戦争をやつて居る。拙者も聊か雑兵の一人となつて居るのも妙な訳で事件の成り行きは余程面白い処である。畳籤でも吉が出る位であるから大丈夫なもんと思はれる。

1905(明治38) 年4月23日

日曜で珍らしき快晴なれども一寸よき趣向もなく朝は四畳に籠つたところ九時頃田中猪太さんが光風の挿画の事でやつて来た。間もなく小代が来て小父甥の間新工場の図案が始まる。戦争で大分景気がよさそうな様子に見える。十一時頃二人とも帰つた。午後目黒に御見舞した。よねは時計屋に病気見舞といつて米吉の車で出掛けた。棉服と宿車とは少々不釣り合である。無心の小児に不倫の称呼を慣用せしむるに至つては沙汰の限り、何れの日が懲罰の目的を達し得べきか此間に最も憐れむべきは無心の孤児である…。父上は元気で謡曲研究会で音楽と拍子の論を演ぜんとする由話がある。相場の話もいろいろあつた。醋酸会社は近来余り面白からぬ様子らしい。なんでも一ト山やつて見たい気持が充分あるやうだ。四時過に御免を被り麦酒道を通りたる途中、枯れ枝の疎林に柔らかな夕日がさして白き新芽が光を帯び其間に向の屋根がすけて見へる景色なんともいはれぬ春趣がある。麦畠の緑色も中々潤はしい。広尾通りを経て五時に帰宅した。

1905(明治38) 年4月24日

朝は一ツ橋専攻部は総欠で待ち損である。夕方に小代が来てロールチェーヌが見つからないといつて弱つて居た。局外中立問題がやかましくなり日本よりの抗議其功を奏して波羅的艦隊は愈々カムラン湾を立去つたらしい。是から先は何れに向ふか分らぬが多分とこかで第三艦隊を待合すならんとの評判であるが何しろ予想した程に早く埒明きそうには思はれぬ。

1905(明治38) 年4月25日

今朝は余程危しかつたが思ひ切つて自転車で出掛け大当りであつた。一ツ橋から上野廻りきつちり四時までやつた。帰りに本郷に廻り赤門前の靴屋でゴム靴一足五・八〇で買入れた。忽ち不用心の祟りが来たのである。五時半帰宅晩飯はロース肉に新蕗で一寸甘く喰つた。夜八時過ぎに坂井氏が来た。雑誌月刊説再興を主張したが兎に角二三号出して見る事を勧めた。雑費の中に五拾円渡した。

1905(明治38) 年4月26日

今朝光風一号校正が廻つて来た。九時に一ツ橋、今日は雨天で虎の門まで歩いて外濠線に乗つて見た。中々手間取つて実用にならん。十一時本一ノ四五は総欠で休み、早目に弁当をしまひ神保町から街鉄電車で上野に廻る。五時半帰宅す。

1905(明治38) 年4月28日

今日は丸休み、朝ゼラニュームの写生をした。午後本郷の靴屋に取換へに行つた。帰りは九段を通つたが川上紀念像の除幕式と臨時大祭の支度とで賑やつて居た。一寸小父さんを尋ねて五時に帰つた。夜宇田川町川竹亭に出掛る。役者揃ひで見られる。

1905(明治38) 年4月29日

今日も水彩をやつてマンマと出来損なつた。余り調子づくと万事が此通りである。夕方よりこまと橋善に久し振りで出掛けた。食後勧工場を一ト廻りし尾張町角より電車に乗、須田町にて乗換へ本郷菊坂町牛呑会に出席す。来会者は少数であつた。それでも十時近くまで話し合田菊地と一緒に青山線にのる。途中日比谷で岩村がはいつて来たのは妙であつた。御所前から三人話しながらブラブラして十一時過に帰宅。

1905(明治38) 年4月30日

朝から榎坂町田中氏を尋ねる。十郎病気見舞のためである。関節炎がこうじたので一年余かゝつて骨が腐敗したのである。実に恐るべきもんだ。十時半帰る。十二時少し前に佐野が来た。風を引いたので今日は休んだといつた。豚に筍の子の煮しめで昼食をなし食後佐野の古手紙原稿調べをなす。其内に遇然と小泉翁がはいつて来た。昨夜名古屋から帰つたので取敢へすやつて来たという。お誂への勢揃ひで例の一件が始まり五時まで続く。小泉は是から龍土に用があるといつて帰り、佐野と二人でブラブラ歩いて小代を尋ぬるにまだ帰らないので暫く待ち合せ余り遅いから出ると途中で出逢つた。それから佐野と二人で晩飯をやる積りで行くと丁度小泉も出る処で一緒になり龍土軒にはいる。中喰でウイスキー一杯をやる。食後小代を引張出し、再び会し十二時までやる。

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