1904(明治37) 年12月3日

今朝一ツ橋の帰り掛け目附の処で図らず竹沢に邂逅す。夕方には是非来るやうに約した。午後一時過より柳橋亀清で催せる校長帰朝祝ひ兼忘年会に赴く。其席で藤島の流用金の件承諾す。三時頃から校長の演説が始まつた。博覧会の視察話しは米国の政府館や非律賓部又はインヂヤンの事なんか丈で専門の美術部には一言も及ばなかつたのは変である。夫でも大分山鳥流で点燈後に済んだ。間もなく食饌に就いたが校長の勢ひで六十人余も集つて大広間に一杯になる。給仕には芸者が三人お酌が二人であつたと思はれ是は校長と川端の寄附があつたというのでそれで出来たのであろう。酒後は小使長の禿頭爺が踊りで醜態極る。こんな事で月給割りの高い会費を巻き上けられるのは馬鹿馬鹿しい次第である。彼是れする内七時過になりまだ中々酒が済みそうでないからコツソリ引揚ける。外に出ると丁度雨はやんた処であつたので急ぎ踏進八時前に帰宅した。家では竹沢小代小泉佐野連中留守中に集つて居て大分賑ふた。

1904(明治37) 年12月4日

今朝伊東で漸く繃帯が取れて清々する。午後上野精養軒で東洋写真会をやるというので審査を頼まれて居るから正直に二時に出掛けた所がまだ陳列の支度中で仕方がない。団子坂の長原の家に廻り藤島に金を渡してくれる事を話し、後此頃手に入つたという師宣の板画及び画本類を色々見た。中々立派なのがある。英山其他デカタンの錦絵を集めるという趣向は一寸面白い考に相違ない。暫らくして後精養軒に行つて見たら、今度は人が集まつて居た。審査員では江守と川端とが来て居る。相談の上二点を撰定する。今日は玉章爺昔し油絵を稽古した時分の事を色々話しかけた。兎に角頑固一点張りなところは可愛らしい。点燈後黒田もやつて来て無理やりに食卓に就かした。同じ喰倒しをやるのなら仲間があつた方がイヽのだ。食卓の向に座したのは東野とかいう男で今日二等賞を取つた金持らしい風の人で色々写真の話をした。食後は活動写真の余興は面白かろうと思つて来たのであつたが矢張り商売物の偽せ物でいやになる。併し種類は非常に沢山であつた。黒田の内からは中勝のお伴で太陽がやつて来た。帰りがけ太陽がパチに一度入りたいとの話があつたからいつでもおいでなさいといつて置いた。実の所はオレのファンムを見たい好奇心があるのだと思つた。三橋の処で黒田と分れ自転車で十時過に帰宅す。

1904(明治37) 年12月9日

午前目黒に出掛けた。父上は南の坐敷にて書き物中であつた。早稲田より日本美術論執筆の課役が当つたとの事である。何とかしてのがれたいものだと思つて居る。茶碗蒸の御馳走を受け乾物の珍品を色々貰ひ携へて帰る。午後一ツ橋より帰途床屋に立寄り頭部の怪我も痕跡も留めぬやうになつた。夜佐野が来て美術学校より石膏の製作費を受取つた事を告く。後小代も来た。

1904(明治37) 年12月10日

夕方五時過に竹沢が来た。丁度晩飯を済した後で鳴戸すしの丼で酒を出す。リエージュ博覧会へ出掛ける事につき話があつたというので相談をする。後小泉も竹沢より電話で来会す。小代を呼びにやり大会半夜過になり竹沢は泊る事になる。

1904(明治37) 年12月11日

昨夜の雨はすつかり上つてしまつて今朝は誠に気持ちのいゝ天気になつたので此儘で過すのは残念であるから竹沢を引留め佐野の処を尋ねたるに役所で不在。そこで小代の方に廻つた。丁度顔を洗つて居るところであつた。夫で三人一緒になりブラブラ芝の方に歩き郵電学校で佐野に電話をかけ今福で出縫ふ事になる。三田に行きながら小父さんの機械屋に一寸立寄り煙草機械の現状を見る。今福は此間の怪我以来始めてゞある。怪我の現場を調べたが別に角張つたものもないのにあんなに切れるとは妙である。間もなく佐野も来り食事中正月旅行の相談中々纏りにくい。先づ伊豆の伊東あたりという見当がついたが扨日取りに至つて甘く一致しない、厄介な話。今福を出たのは二時過で是からどこという当てもなく品川行の電車に乗る。余り遠方に行つても同じ事であるとの説で御殿山の方から田畝に下りる。竹沢と小代との間に山鴫談は盛んであつた。川端に製作場のある辺を廻り踏み切を踰へて妙華園に向つた。桐ケ谷通りから左に切れて漸く探し当つた。入り口の部屋に少々花物がある丈だ。此側に鶴が一とつがひ畜つてある。此間猿橋で鶴の尻にある黒いものは尾ではないという佐野の説を実際に見る事が出来た。成る程あれは羽の元について居る毛で尻尾は白くなつて居る。一銭づゝで鶴の餌をかつて入れてやると長い嘴で鰌を探つて取る。中々面白い。此時に羽を広げたので全くそれに違ひない事が分つた。そふすると飛んでる鶴に黒い尾があつては可笑しい訳である。是から裏の方には温室があつて蓮やスミレが出来て居る。高台のキヨスクで休息して園を出る。此花屋敷は河瀬秀治氏の住居である事跡で知つた。それから附近の田舎道をブラついた。大根や漬け菜を盛んに洗つて居る。田野の風情は一寸気持がよかつた。三ツ井の地面だという広い囲いの周囲を通り全く方角を失つた姿になり、もう段々薄暗くなるので道を聞いて鞠子の街道に出で桐ケ谷の辻から品川の方に引返す。晩飯には葱まという注文であつたが以前の釜飯の事を思ひ出しウツカリはいつた処牡蠣飯は出来るが至つて淋しい様子、やり損なつたと思つたが仕方がない。形斗りの鮪鍋に酢がきで一杯やり、釜飯も評判が悪く勘定は四十六銭五厘の割り前も不感服蓋し昼のロースが全く消化し終らなかつたのは不平の一原因に相違ないのだ。電車を札の辻で下り人力で帰つたのは八時過、夫から又十一時頃まで話した。

1904(明治37) 年12月13日

今日は雨中の掛け持は大困難である。考古学はカルデヤの初め大分胡魔かしの方であつた。夕方雨は変じて雪となる。十二月に雪を見るのは近来にない珍らしい事だ。天帝が満州滞陣の困苦を都人に知らせるためだと迷信家は思ふであろう。昨日から旅順敵艦壊滅の報が来る。二〇三高地占領の結果船艦繋留の位置が充分に観測されるので最早遁るゝ所はなくなつた訳であるそうだ。何しろ戦闘艦巡洋艦の重なるもの六七艘やられたのは先々目出度き方である。是で総攻撃不成功の埋め合せはついたといつてもよかろう。

1904(明治37) 年12月14日

今日も一日掛け持ちの日で雨雪中を駈け廻るのは中々困難であつた。今朝は無拠車屋をあつらへたのである。併し今頃の雪の事だから大して積んでは居ない。多くて三四寸位である。上野の帰りは電車で遅くなる。

1904(明治37) 年12月15日

今日も一ツ橋から上野に廻る。学校の帰りは黒田と一緒になる。電燈会社で電柱の旧物があるから会で建築をせる時の用意に出来る丈買入れて置いてはどうだろうと思ふと話す。大きいのは高三十尺もあるそうだ。直段は一本一円何十銭とかいつた。併し之れは大に考へ物であろうと思はれる。広小路でぬかるみの中に立つて永い間電車の来るのを待ちやつと三田行が出てこれに乗込む。黒田とは日比谷で分れ芝で降り、五時過帰宅す。六時比糸川正鉄来訪、一昨日上海より帰京したとの事で色々彼地の実験談をなす。油絵展覧会は目下露艦の水平上陸して乱暴をやるので見合せたるも充分望みはある故追て時機を見て再ひ渡航するとの事。上海商人の風習及支那人の外に出る習慣ある事等の着眼は確かに当つて居るやうである。一時間足らず話して帰つた。八時高商の学生熊崎良仏語の稽古に来る。先日からの約束に依る。十時頃まで話す。

1904(明治37) 年12月16日

午後電車で一ツ橋に行く。本日より予科は試験始まり休む。一年の方も英語会をやるといふので休んだ。帰りに東京電気外濠線に乗り日本橋釘店を海苔を求め京都の堀江に送り出す。夜小泉小代来る。

1904(明治37) 年12月17日

今朝一ツ橋では言ひ訳丈の稽古をなし直に帰る。午後目黒に出掛ける。父上は少々御気色勝れず、さんさん小供の智慧つかぬというのでお小言を聞く。生来の事なれば仕方がない。又正月の餅搗きの事を相談する。爺夫婦此頃少しく御覚へ目出度からぬ様子。併し餅は遂に頼んでやらせる事にした。四時過一旦帰宅夫から菊坂研究所の牛どん会に行く積りで歩いて出掛けると狸穴坂上の辺で竹沢に出逢ひ話しながら共に歩く。白耳義博覧会一件愈行く事に極つた由。久保町の処まで同行して電車に乗り本郷まで走る。今日は場処の悪いためか至極さみしい。色々な建議は出たが何もきまらない。南行連一同と電車にて帰る。

1904(明治37) 年12月18日

朝金次郎餅米を取りに来た。午後早稲田大隈伯に参る。丁度昼飯後で秀島家良を相手に碁を打つて居た処で側には武富時敏と他に一人の政治屋が控へて居る。此連中は間もなく行つてしまつて跡は秀島丈になつた。先生は碁盤に向ひながら時々美術史の話があつた。其内に田原良純が来てアセトン語から時局談になり、英国は三年間の南阿戦争で二十何億の金を費したが日本で二億の金を費した程も響いて居ない。今度の戦争も無論二十億以上は遣ふ事を覚悟しなければならないが其埋合せは決して償金などを当てにするやうではいけない。是から国民が一生懸命に働いて製造業の発達によりて働き出さなければならない、といふ至極元気なお説で今日の大隈伯程に大きく見へた事は今までになかつたと思ふ。伯爵夫人は不相変此中をピラピラと動いて居られる。別段御挨拶申上けるやうな話しの種はなく此間の怪我の話位一寸やつた。三時にまんぢうのお汁粉を御馳走になり何れ一件は正木と相談するといつて御免を蒙つた。四時過帰宅。夕方小代来る。まぐろのさし身で一杯やる。後佐野もやつて来た。歳末の旅行は伊東という事に大概極つた。

1904(明治37) 年12月19日

今朝一ツ橋に出掛けたが一年四五の組には誰も居らず。全くのむだ足となる。それから上野へ廻り大隈伯の話をする。其内に行つてもいゝというので其儘帰宅、午後目黒に行く。父上は御留守、何か用事でもあるのかと思つたら来廿一日に刑事裁判所より呼び出しがあつたのでよねが大恐慌を起した訳であつた。四時半過に父上帰宅。たゝき肉の西洋料理を御馳走になり八時過に帰る。

1904(明治37) 年12月20日

今日は高商学校で予科の合同試験を行ふ。書取及び発音符の題を出す。十時に終る。一年の学生は居らぬ様子であるからむだに待たずに上野に行つてしまつた。講義を終つてから校長室に行つたら西尾が来て居た。

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