1904(明治37) 年11月14日

一ツ橋後上野展覧会に廻る。昨日限りにて閉会。今日は跡片附けのため会員を集めた。黒田は十二時頃になり漸く見へた。糸川の事及岡田の借金整理の事など相談する。昼後になりて会場は荒増し片ついた。和田が請求者となり茶菓子を買ひにやる。三時過から帰る。

1904(明治37) 年11月15日

今日は一ツ橋に自転車を置去りにして本郷廻りの街鉄に乗り辛ふじて上野の時刻に間に合ふた。帰りにも切通し四ツ角から街鉄三田行に乗り三銭で山内まで乗る。夜小泉翁葡萄牙製の鑵詰を持参した。間もなく偶然ながら小父さんも来会久し振での会合であつた。翁は相変らずの不景気。併し秘露開拓事業は隈伯の賛成を得たというで大に悦んで居た。如何にも隈伯の賛成しそうな事柄である。

1904(明治37) 年11月16日

今日は天気であつたから一ツ橋から上野への掛持は甘く行つた。併し昨夜全く下た見をする暇がなかつたから前膊骨の講義は大にまづかつた。今日合田の話で校長が帰つた事を知つた。一昨日かに横浜に着いたという事なり。三時半過一寸逢つた。帰宅後入浴して居ると佐野と小代がやつて来て三田に喰ひに行こうというので余儀なく支度をして出掛る。暫くして菊地も来る。珍らしく三人分の肉を平らげた。割り前は六拾一銭五厘なり。帰りは皆んなで集る。菊地は例のアルコール元気で開戦を促したが今夜は少しでも割増しでおとつさんの声も出なかつたのは先々大出来。

1904(明治37) 年11月17日

昨日から今朝にかけて号外の声が聞えた。籬の残菊という風で、余り景気のいゝ呼び声でもない。事件は旅順から駆逐艇が一艘芝〓へ逃げ出した事でそれが自ら爆沈したという丈である。何しろ旅順の長引くには大に一般の人気に関するやうである。其割に株はまだ辛じて直段を維持して居るやうなり。

1904(明治37) 年11月18日

午前は髯そりをやる。午後一ツ橋のお勤めを済し直さま帰り入浴。夜竹野老人来る。中野の妹婚礼の一件を話す。此間静岡のお客で三、〇〇やられて又々こんな余計な事が出来て大弱りなれば是が所謂Nuなものか先日早稲田の園遊会での話など聞く、世の中は実に余計な苦労で成り立つて居るものヂヤ。

1904(明治37) 年11月19日

今朝一ツ橋授業後松崎校長に面会して改革云々の話をする。又手当金交付の時期を尋ねたが年末であるというので安心した。思へば此頃のやうに金にがつがつした事は今までにないのである。午後目黒に参る。父上は在宅、石井八万より送つて来た地形図につき色々支那開拓談が出で糸川の上海開発談などやる。又醋酸は好況の由にて今や唯一の待望は此会社の運命に依つて繋がれたる有様である。よねに中野祝ひの品買入のため二円渡した。三時過に目黒から出て札の辻に中丸精十を訪ふた。是は此間から小泉に頼まれて居る自転車売買の一件で、昨日小泉が態々人力で中丸との相談が出来たというやうな事であつたから其後の様子を聞くためであつたが中々とうも甘く運ばない。差当り是非共入用であるのは僅か百円の金の出来難いのは実に意想外である。夫れがために夜食後は小父さんを尋ねよふとして居る処に小泉来り共に三河台に出掛けた。其結果今一度小代が中丸の処へ談判に向ふ事となる。後両人我家に来る。

1904(明治37) 年11月20日

此頃は実に不思議な天気続きで畠なんかは既に雨を祈つて居るそうであるがこうなると中々降らない。今日又取り分け好晴で前週よりの約束によりこま及彬を連れて紅葉見に出掛ける。九時少し前に家を出で山内より街鉄の電車で上野に至り停車場で少時待合せて十時廿五分の汽車に乗込む。三等車中々の雑踏である。十一時前に王子で降り稲荷社を経て滝の川に向ふ。もう十余年前に来たのだから此辺の様子は全く違つて居る。滝の川で茶屋に休む。日曜であるから人出は多いが制服を着た学校の生徒が大多数で余り有福な方は少ないやうである。夫から途中滝不動というのを一寸見物し飛鳥山を下りて停車場に近つくと丁度汽車が来たので之に乗り上野に一時に着き電車で新橋まで走り、橋善で昼飯。今日は奥座敷の奇麗な室に始めてはいつた。夫から日影町を歩いて切通しを昇り三時に帰宅。今夜は早寝で九時にはおひけにした。夜中猫から騒動が始まる。追記、王子よりの帰途飯倉で大植木鉢を買つて来てゼラニオムの根分けをした。

1904(明治37) 年11月21日

午前は一ツ橋。午後白馬会流用金整理一件につき和田、藤島及小林に手紙を出す。岡田は黒田の中立で条件確定す。三時より黒田を尋ねる。野崎という老朽検事の肖像をかいて居る処であつた。長原より金を受取る事話し同氏へ手紙を出す。後に中丸来り自転車の話遂に纒らなかつたと聞く。併し黒田が又外に売れ口の話があるというので之に一縷の望が生じた訳である。五時過に帰宅した。

1904(明治37) 年11月22日

一ツ橋より例の如く上野に廻る。夜小代佐野来。八時過になつて小泉来る。中丸との自転車の取引き非常な不結果を以て局を結んだ事の顛末を聞く。此夜は十二時過きに散会し且中丸の不法なるやり方につき非常に不快に感じ之がために神経に激感し終夜快眠するを得ず。

1904(明治37) 年11月23日

今日は新嘗祭にて休暇。午後こまは彬を連れて愛宕山に散歩に出掛けた。二時過に小代来りとこかに出ないかといつた。昨夜の不眠で気分がわるい時であるから早速賛成、支度して門口に出たら丁度竹沢が来り三人で佐野の処へ行つて暫く話をする。別に面白い考も出ないで遂に今福で晩食という事にきまつた。若し是れが遠乗りの妙案でも出てどこまでかいつたならば災難を免れたか或はもつとひどい事になつたか分らない。兎に角人間の運命は全く不測なものでC‘etait écrit主義は決してけなしたものではない。それでいつも今福では遅くいつてひどい所に押込まれるからというので今日は明るい内に出掛けていつた。案の如く下坐敷が明いて居て珍らしく奥の右側の隅の部屋にはいる。小父さんは機械屋へ廻つて少し後れて来た。今日の肉は中々上等充分甘く喰つたが酒は何となく変な味がする様であつたが、竹沢におつき合で初の内に五六杯続けて引かけ三人の口で三本の徳利を並べた。是は例もよりか一本はたしかに多かつたに違ひない。六時過に仕舞つていざ勘定という段になつて何となく酔心地が悪いやうな気がして例の病気が発してはならないと思ひ用意のために便所に立つて見た。小便をやつている内に最う溜らない。吐いて仕舞かと思つたが我慢をして便所を出たまでは覚へて居るが其後の瞬間の事は分らない。なんでも椽側を歩いて来て曲り角でブツ倒れたのである。下女は倒れたのを見て驚いて連中に報告する。手拭を濡して頭を冷す。なんでもコツプの水を飲めというので始めて気がついたのだ。此間恐らく一分間位は経過したに相違ない。気がついて見ると小父さんはハンケチをぬらして頭の傷口を抑へて居る。オヤどうして怪我をしたのか不思議でならない。手でさわつて見ると、後頭の真中が大分へこんで居て血がついて来る。傷口はウェルチカルであるが別段庭に落ちたらしくもない。全く椽側に倒れて角にぶつゝかつた丈である。殆んど迷信家の材料になりそうな怪我の仕方である。マダ気分が本統でないから部屋に入つて横になり頭を冷して貰つた。竹沢は時計を出して脉搏を数へて居る。凡そ三十分近く休んでもう大丈夫になつたので人力を雇ひ、自転車は連中に頼んで置いて車に乗り、森元の伊東の処にかけつけた。不在であつたが代脈が居て傷口を洗ひ療治をしてくれた。存外傷は大きいといつて一ト針縫ふという次第。医者の手に掛るやうな怪我は一生に始めての事であるが、思へは妙な具合で怪我をしたもんである。遂に繃帯を頭の囲りに巻きつけて赤十字のお仲間入りとなり帰宅した。連中は先きに来て待つて居る。直様床を取らして病人になつてしまつた。

1904(明治37) 年11月24日

一ツ橋へは電報を出して断り美術学校にも欠勤届を出す。九時過伊東に診察に出掛る。十一時過竹沢が見舞に来てくれた。丁度昨日用意した鯛の潮煮で昼飯を出す。竹沢は明日房州に行くといつて居たが四時頃まで遊んでいつた。夜中丸に詰門の手紙を出した。

1904(明治37) 年11月25日

今朝合田に使をやつて今日学校で棒給を受取り、それを持て来て呉れるやうに頼んだが承知してくれた。朝は医者の処へ行きそれから昨日竹沢に貰つた二羽の鶉を料理した。午後は自転車の大掃除をする。機械の全部を取外した時に中丸がやつて来て色々昨夜の手紙に対する弁解を試みる。要するに友誼上の売買相談は謝絶して更に利益上の相対承諾というので別に異存に入れる余地はない事になつた。後小代も来て共に話す。鶉の汁に豚のゴタ煮で晩食を出した。中丸は食後間もなく帰つて佐野がやつて来た。八時過に合田が金を持つて来てくれた。

1904(明治37) 年11月26日

十二時頃山本芳翠来り戦地から飯盒を土産に持つて来てくれた。午後中丸再び来り自転車を他に売り払ひたいといつて居た。つまり余り事がやかましくなつたから彼の車に乗るのはいやになつたというのである。それはどうでもするがイヽと答へた。中野氏より婚礼の案内状が来る。怪我の理由を以て断はる。夜小代小泉佐野来る。

1904(明治37) 年11月27日

午前伊東に診察の際自転車売物の事を話す。其内に見に行くといつた。午後婚礼の贈物を探しに銀座まで鳥打帽子を冠つて行つた。新橋の勧工場に入つて見たが何も感服するものはない。芝口の鰹節屋にはいり糸巻の飾り物を見て之を約束す。お安く上つて仕合せである。夫より電車の中丸の処に廻り伊東の事を話す。此間の金の具面先を白状した。随分変てこな訳柄である。暮れ過に帰宅する。

1904(明治37) 年11月28日

まだ頭の繃帯が取れないから猶二日間不参の趣を高商学校に届けた。今朝伊東の処で傷口の糸を抜いた。昼飯には小父さんが来て一緒に食す。二時過に区役所に区会議員の投票に同行し、夫から家に来り入浴五時過に帰つた。三時頃に高等商業学校より爵位局の換出し状を持参す。五時過に菊地が見舞にやつて来る。後佐野も来て十時過まで話す。

1904(明治37) 年11月29日

今日は繃帯を取つたので午後上野に出勤す。途中宮内省爵位局に赴き代理の手続を問合せ学校で藤田に依頼した。授業後校長に面会、石膏一件落着安心した。夜佐野を訪ひ請求書送附の事を告ぐ、後小泉小代等と会す。

1904(明治37) 年11月30日

今日から一橋の授業を始める。去二十六日より旅順総攻撃が始まつたが松樹山、二龍山の方面は不成功に終りたるが如く甚た心配な訳である。バルチック艦隊は追々進航最早その一分隊は蘇西を通過したるの報あり。かたがた旅順陥落の永引くのは大に人気に関する所である。沙河方面も今に睨み合ひの姿であつて追々寒気は烈しくなり此先の成り行は未た遽かに知る能はざるものゝ如し。

1904(明治37) 年12月3日

今朝一ツ橋の帰り掛け目附の処で図らず竹沢に邂逅す。夕方には是非来るやうに約した。午後一時過より柳橋亀清で催せる校長帰朝祝ひ兼忘年会に赴く。其席で藤島の流用金の件承諾す。三時頃から校長の演説が始まつた。博覧会の視察話しは米国の政府館や非律賓部又はインヂヤンの事なんか丈で専門の美術部には一言も及ばなかつたのは変である。夫でも大分山鳥流で点燈後に済んだ。間もなく食饌に就いたが校長の勢ひで六十人余も集つて大広間に一杯になる。給仕には芸者が三人お酌が二人であつたと思はれ是は校長と川端の寄附があつたというのでそれで出来たのであろう。酒後は小使長の禿頭爺が踊りで醜態極る。こんな事で月給割りの高い会費を巻き上けられるのは馬鹿馬鹿しい次第である。彼是れする内七時過になりまだ中々酒が済みそうでないからコツソリ引揚ける。外に出ると丁度雨はやんた処であつたので急ぎ踏進八時前に帰宅した。家では竹沢小代小泉佐野連中留守中に集つて居て大分賑ふた。

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