1904(明治37) 年10月1日

朝高等商業学校の課業を済まし十一時前帰宅す。午食後こまは彬を連れて本郷山口りせを尋ねた。一時頃小原大衛来訪、展覧会画集の件用談来火曜日に会することを約す。四時半小泉老人小代を伴ひ来る。小父さんは少々不加減で景気がわるい。五時過ぎ竹沢の来るを待受け一同外出、途中佐野も加はりて三田の今福に赴く。朔日と土曜とで客こみあひ暫らく二階の入込場所で待つたが其内菊地の鋳さんも会した。併し肝腎の大人は遂に来すにしまつた。大分の間待つた揚け句に甘く調子に乗せられてビアホールの奥に追ひ込まれて佐野の肝癪玉が危く破裂せんとする時に漸く部屋が出来てお目出度なつた、酒も肉も大分消費された。帰りは六人ブラブラ歩き狸穴の八百屋で無花果を買入れ連中残らす我宿に集つた。跡は例の通りて今夜は拙者の失敗に終つた。原町は不相変不思議に大当りである。十一時過解散。

1904(明治37) 年10月2日

朝九時頃よりこまの請求に依り三井の売出しを見に行つた。日曜の事で大混雑全く魚市場同前の乱状を呈して居る。斯る場合に踏込んだのは始めての事だが存外面白もんだ。婦人の大騒きやるのは全く無理でない。秩父縞を一反三円二十五銭で求めた。こまは七円近くの買物をなし大満足、帰りは橋善にて昼食をなす。今日のフリチューんは左程でなかつたが量の多いので持つて来る。例の通り電車で大門から歩して一時過帰宅す。午後は自転車掃除。三時頃高島大人来訪、昨夜の違約を謝し今日六時より愈従軍の途に上る由にて門口にて別を告げた。

1904(明治37) 年10月3日

一ツ橋は雨中人力車で行く、帰りは霽れ電車にて帰る。午後天気になつたから自転車で目黒に赴く。用向は区役所から毛布寄贈の勧告が来たので古いのを一枚探すためであつた。丁度目黒でも同様の事で算段中であつてよねが有る丈の古毛布を物置から出して来るのを調べて青地の大ケットを貰ふ事にした。父上は例の醋酸会社の成功を予想して大気焔である。十年の後は七八万の資産が出来る目算であつた。柿や栗を食して満腹五時に帰宅す。三田のブリッキ屋が来て居て雨樋の取替へ方で積り直段十二円余(凡四十間として)にて注文する。夜正木氏への手紙を終り明朝シャートル便にて出す筈。

1904(明治37) 年10月4日

高等商業学校の授業を十二時に済まし今文にて昼食、上野に廻る。今日は美術学校は紀念日にて休み、展覧会で画集撰定の小原との前約による。寺山啓介に出逢ひ暫く話す。帰途淡路町の亀屋に立寄、九島への贈品をあつらへ三時過帰る。夜は日記認め十時に畢る。此時朝日新聞号外の声を聞く。

1904(明治37) 年10月5日

電車にて高商一時間の授業後上野に赴く。帰りは合田と一緒になり展覧会に寄り木戸銭の始末をなし。再び電車で帰宅す。此時やゝ荒れ模様で気づかひたるも夜に入り風静り天気になる。

1904(明治37) 年10月6日

一橋より上野へ乗輪にて廻る。今日展覧会に立寄りたるも湯浅中沢に頼んで早帰りする。夜佐野小代来。小代は中袋を繕ひに持つて来た。今度の大祭休日続きに平塚に行く案が出たれど予は不賛成を称へた。

1904(明治37) 年10月7日

午後一橋にてはファルデルに出逢ひ話をして居る内に時間が過ぎ大にまごついたが三十分斗稽古が出来たのは仕合せであつた。三時にしまつて帰る。尾竹竹坡来。和田へ送りつけた。

1904(明治37) 年10月8日

朝早出天気が少々怪しかつたが段々よくなる。一ツ橋より本郷を歴て下谷銀行にいつたが金額少きため預入出来ず。引返し淡路町の亀屋にて送達賃の事を問合す。昼前に帰宅。午後三時頃に敦翁来冦、小代竹沢続いて来り、佐野も役所の帰りに寄り又々大会となる。大和田の丼飯を注文す。但し佐野は食後に出直す。十一時半まで闘ふたが不思議にも原町の景気がいゝ。其前敦翁は軍用自転車着荷の赴を話した。戦争については今日万朝号外ステッセル投降の止むを得ざる事を電奏せりとの新報は決してあてにならぬ。今日コラン先生より長文の手紙を受取つた。重に戦争についての意見で我好結果を期待するとの文であつた。

1904(明治37) 年10月9日

今日は目黒行を思ひ立ち松茸売りより三枚の木の子を四十五銭で買つた。天気怪し気なりしが思ひ切つて九時半から出掛けたところ生憎に父上は長岡少尉の葬式でお留守暫らく待つた。今日は昼食のおつき合をするつもりで来たのだから庭先など歩いて廻る。よねの兄が来て居た。何となくムツムツして居る。十二時少し前にお帰り、間もなく食事にはライスカレーの真似事余り上出来でもない。学校通ひのお手際にしては左までの事もない。父上の戦争談に今の露西亜と幕末政府対長州事件との比較は一寸面白いやうである。二時から帰つて来た。四時過に中沢が来て展覧会の画を太陽其他の雑誌に掲ぐる事につき小原の故障云々の事を相談す。断じて差支へない由を答へた。昨日よりブリッキ屋が雨樋の取替へにかゝり今日の夕方で出来上り大に気持がよくなつた。此頃手間取りの忙しさに暫く日記もお留守になつたが此間に開戦以来最大の出来事というべき沙河会戦の報が達した。黒鳩が憎態極る大言を吐いて事かゝつた大逆撃も九日以来五六日間の戦争でマンマと失敗に畢つたやうで実に気持がよかつた。我軍は獅子の口中に頭をつき込んで居るには違いないが、其獅子たるや口中に牙はなく此頭を噛み潰す力はないのである。併し此勝利は未た其終局は告けないで暫時睨み合ひの姿である。市中では今度は提灯行列もやらなかつた。株式市場の不況は実に不思議といふの外なし。

1904(明治37) 年10月14日

午後商業学校で黒田の手紙を受取り、今夜は生洲で川路の知事さんと会食の趣通知したから、帰宅入浴後正六時料理屋に出掛けた処誰も居ない。一時間余り待ぼうけで馬鹿を見た。七時過になり皆やつて来た。川路の同行は女婿糸川という人と煙草専売の佐々という男とであつた。飯が始まつてからは佐々の家庭気焔で閉口した。糸川は竹川町商栄館の持主で上海で一ト計画やるという話があつた。十二時過帰宅したが小泉翁は留守中待つて居たとの事でお気の毒。

1904(明治37) 年10月15日

午後こまと日本橋向まで買物に行つた。松屋という呉服屋をひやかし少々求めた。四時過小泉翁松茸を持つて来る。早速松茸飯をこしらへさした後小代佐野も来会。

1904(明治37) 年10月20日

早朝金次郎使に来る。八時より学校廻り三時半に解剖の講釈を済まし展覧会に立寄つた処、竹沢が丁度見物に来て居つたので暫く話し土曜日を期して分れた。今日は拙者の当番なれど湯浅に跡を托して帰り、通り掛に家に立寄り直様目黒へ出掛けた。恵比寿講で御馳走の使を受けたのである。お客は竹野の穏居と原未亡人とである。朝から来て居たのであつた。今日はよねの西洋料理のお浚へで西洋蒲鉾(斯く始めて名つけられたのである)キャベツ巻の二品に海老の半ぺんが出来た。ライスカレーは塩加減が過きた。林檎の菓子は中々の大出来、いろいろ引受けて空腹の処を中々詰め込んだ。両女客は八時の汽車で帰り跡少時話す。早稲田の支那処分論は愉快である。又謡曲研究が早稲田に始まるという話もある。彼是手間取る内雨が降り出し大に閉口、朝から催しかけている雨なれば急にやみそうでないと思ひ是非なく自転車を一泊させる事とし八時五十分新宿行の汽車に乗る。新宿よりは甲武鉄道の電車の初物をなし信濃町で下り青山御所前から人力で十時前に帰宅した。

1904(明治37) 年10月21日

今朝京都堀江氏へ松茸の礼状を出す。午後電車で一ツ橋に赴く。帰りはズツト三田まで乗り通し伊皿子にて降り人力で永峯に行つた。父上は佐野老人とよねとを連れてお出掛け、すみは独り残されて哀れな様子であつた。自転車を取り降らぬ先きと思ひて走り帰る。

1904(明治37) 年10月22日

朝は一ツ橋。午後小代の四男死去の事を聞き見舞に行く。竹沢小泉続いて来る。後一同我家に集る。例の大和田の丼、食後に佐野も来た。翁は相変らずの不結果で竹沢の勢当るべからず。休日をひかへて大分晩くなる。半夜過に及ぶ。

1904(明治37) 年10月23日

終日小代の処で暮す。墓標を頼まれたが出来て来ないので段々引張られた。午後には佐野も見へた。三時過に黒田を一寸尋ね白滝へ送金の件を相談し、帰りに小代の処に立寄り墓標を書いた。

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