1904(明治37) 年11月5日

今朝こまを一の井へ療治にやる。十一時に中丸来大会補助の件話す。十二時半に家を出で小代を誘ひて信濃町停車場に行けば菊地は既に一ト足先きに来て居る。猿橋までの切符を求めて一時三十九分発の列車に乗込。佐野は四ッ谷から乗りて来て一緒になつた。新宿からは非常な乗人があつて車中は大混雑を極める。其中に丸髷に吾妻コートの女が拙者の側に割り込んだ。年はやゝふけて居るがまんざらでない面相であるのはいゝが、式部的の雄弁家で車中で連れになつたらしい横浜の生糸商らしい色の黒い三十男を相手にして漢語交りの弁舌をシャガレ声で滔々と振ふのである。以前はえらい豪家であつたのが「零落の極」に及んだというやうな訳で今は何か沢山な女を監督して大なる責任ある身分らしい。神奈川の神風が売り物となつた事につき種々の計画談など聞く。此女傑のお陰で八王子までは一向退屈をせずに過し同処より中央線の汽車に乗換へ間もなく出発する。小仏の隧道を出入する内日は没した。上野原にて三十分余待ち、夫がために延着、六時頃猿橋駅に下車す。もふ四方は全く見へぬ頃で、投宿には恰好の刻限である。途中で如何にも見事な柿があつて皆んなで頬張る。中々甘い。それが一銭五厘とは馬鹿に安いという評判。十町余も跡戻りして橋畔の大黒屋に入る。以前トロンコアと二人で泊つた家で、しかも同じ二階坐敷にはいつた。部屋は汚ないが気持のいゝ家である。入浴後夜食には鯵の塩焼随分新鮮である。こんな処に生の肴があるのは鉄道のお蔭であろふ。食后佐野の蝉丸が始まり夫から無茶にうなりやがて寝に就く。

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