1905(明治38) 年1月3日 Tuesday


一月三日 晴

七時半頃に起き出で朝飯は小鯛の塩焼に玉子の汁、雑煮の餅も至極加減がいゝ。此清水屋という宿屋は是までの処では申分のない評判であつた処で愈出掛けるといく段になり、又荷物担きの人足を頼まうとするとくや昨夜お注文の船が出来てチヤンと待つて居るとの事、なにそれは直段を聞いた丈で注文はせぬと争ふたが亭主が出て来て折角支度をしたのと正月の事であるから御無理でも乗つて戴きたいといつて止まない。昨夜からの待遇は申分なかつたが此一事で大に感しを悪くした。熱海に昼前に着くだろうかといつたら昼前ところではなく十一時には旅順陥落の籏行列があるから其前に帰つて来る積りだという。是で陥落も愈確実となつた。船に乗る事は小父さんと佐野とは第一に賛成したのであるが、拙者は此暖かい天気に二里の山越へをして此辺の風景を眺めながらブラブラ歩きをするのを楽しみにして居たのだから失望せざるを得なかつた。併しモー仕方がない、宿屋の前から船に乗込正九時に出発した。漕き出して見ると静かな海風に浴する気持決して悪くはない。船は四丁櫓で押すのであるから中々よく走る。船中で生じた一事件はヂョンの病気で、元来腹具合のわるい所を船に揺られたのだから忽ち腹痛を感じたと見へて艫先に出てビリビリ始めた。臭い臭い一ト通りてない。小父さんは立つて行つて介抱する。トート着岸するまで抱へ通しであつた。其内船は熱海湾に入り市中では祝捷の旗がひらめくを見る。海岸には白衣の負傷兵があちこちに散歩するのを見る。丁度十時に着船する。船賃一円六十銭の外に酒代を要求したが与へなかつた。熱海では直様山手に登り人車鉄道のステーシヨンに向ふ。樋口の裏門を通り過きた横町で如何にも豪義な金持の家族らしい女連に逢つたが小代は其中の一婦人に対して挨拶をして居るから我々は一ト足先きに停車場に行つて待つて居ると、何そ図らんそれは小泉翁の一行であつて間もなく翁もやつて来て此奇遇を喜び遂に我々と同車して三等車を一台買ひ切りにして十時半に出た。随分甘い都合に行つたものである。こうなつて見ると網代で船に乗つたのも損はなかつた訳で若し陸を来たならば或は最終の人車に間に合はなかつたかも知れない。左なくとも東京帰着の時間は非常に後れたに相違ない。車中で小泉氏が持つて居た今日の日々を見て、元日にステッセルより開城の申込があつて二日の午後日露両軍の委員が会見するという事を知つた。途中は色々な話で四時間の箱詰めも大して退屈せずに二時少し過きに小田原に着車、小泉氏と別れて電車停車場に向ふ。此処ても正月と祝捷とで大賑ひ、狭い町で紙旗の続いたのを軒から軒に掛け渡したのは中々奇麗であつた。停車場では少し待ち合せ其間に菊地と小代とは塩からの桶詰を買つた。二時四十五分の電車に乗り国府津に着。まだ一時間斗間があるというので蔦屋本店にはいり昼食をやる。此時に朝日新聞号外旅順開城談判結了の公報が来た。やがて発車時間になりて車に乗込み四時半に発す。途中は無事到る処に軒提灯を見るのである。殊更横浜はイルュミネーシヨンをやつて市中は賑ひの様子である。七時半品川にて佐野と二人で下車、始めて通行税を払つて電車に乗り札の辻で下り今福で晩飯をやり、おひろひで家に帰つたのは九時少し過きで昨日陥落の報で大賑はひの様子を聞いた。

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「1905/01/03 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/872446.html(閲覧日 2024-04-24)