1904(明治37) 年5月2日

午後茅場町今村銀行に払込用に赴く。帰路京橋にて下車銀座通りを歩す。号外売りの声今朝来盛んにして、昨日九連城占領を報ず。此際時事新報第二の号外といふを求めたるに日本海第二艦隊の報告であつた。二日間五里霧中の彷徨は少々不手際であつた。入浴後こま発熱夜中呻吟す。

1904(明治37) 年5月5日

曇天のため電車にて登校す。五時半過帰宅すれば一昨日学校にて面会せし帝国文学会幹事といふ近視眼の学生待合せて居た。来二十一日講話の題は「戦争と芸術」といふことに取極める。種々雑談の後に帰る。今日は端午節にて菖蒲湯に入る。浴後晩くなり、夜食中に佐野来。節句にて夜なべは休んだといつた。岩村のアンタンションを話したるに頗る満足した。後こまも同席十一時半に至る。

1904(明治37) 年5月6日

朝大崎に赴く、父上は三十銀行におでかけになる。午後に第二軍遼東半島上陸の号外出づ。市中賑ふ。四時半頃よりこまを伴ひ、かきがら町久留米かすり屋に買物をなし、帰りに橋善にて夜食、客多し、上どん中々出来よし、傍には一人の職人らしき男と一人の兵士との酔談面白し、九時頃に帰宅す。

1904(明治37) 年5月7日

午前九時丁酉銀行に九鉄株記入のため持参、瓦斯株買換のことを諮らんと欲したるも鬼塚不在にて果さず。午後四時半頃小泉敦来訪小代に使を馳す、七時過蕗飯にて食事をしまつた頃に菊地も来り会遊子夜を過く。

1904(明治37) 年5月8日

午前月報の原稿を書く。十一時磯谷勘定のため来る。見世物大景気にて日々千二百人の入場ある由にて例の気焔談少々うるさくなる。さや豌豆に肴の煮附丈にて昼飯後程なく帰る 今日鳳凰城占領と普蘭店占領の号外来る。今夜都下新聞社催しの祝捷提灯行列があるといふので、家中のものを日比谷公園に見物にやり独りで留守番。秘密写真を発見す。併し秘密の程度は極めて浅薄である。

1904(明治37) 年5月9日

今日は日本晴の好天気であつた。午前は希臘考古学オリムピア遺跡及ポリクレツトの事を調べる。午後自転車にて外出溜池に合田を尋ねる。同処暗室落成試験中である。二時前より日本橋丁酉支店に赴く。途中呉服橋外の湟畔に大事ありて大に雑踏した。鬼塚に面会、瓦斯株買入の相談に及びたるに、本日の場面は愈騰昂八拾五円位の市況なれば、寧ろ之を見合せ九鉄の端株を買入たる方便利ならんとの事にて、其説に従ひ本株五株の売若くは買新株二の買入を依頼する。此際仲買の番頭らしき者来りて、唯今普蘭店占領の報疑はしく、鉄道及電信の破壊は清人の所為なりとの報伝はり少しく下火になりたりと告ぐ。市価の知覚機敏なるは此の如きもの歟。鬼塚氏は又二階に誘ひて、令哉の銘ある花見の幅を見せた。余り感心しない方であるからその意を告げた。三時半過帰宅す。本日の新聞は昨夜祝捷行列の盛況を掲け十万の参列者を報した。又和田倉門と桜田門との両処にては、通路狹隘なるに加ふるに街鉄電車の運転せるため四五十人の死傷者を生じ、内二十名は即死せり。人命を賭して得たる勝利を祝して更に人命を失ふ。こゝらが非戦論者の良き口実を求め得る処ならんも、われは塵芥の如き人命の決してさほどに貴しとは信ぜす。

1904(明治37) 年5月10日

今朝金次郎新茶を持参す。昼後学校出勤早く帰つた。夜虎之門金毘羅祭にこま及彬を伴ひ出掛ける。好季節にて大に賑ふ。薔薇石竹百合などを買ふて帰る。外債条件の発表と内債も亦近日募集せらんとす。その情報に依り、株式市場大暴落葢し。前日は騰昂の頂点なる如し。後日の変動果して如何。

1904(明治37) 年5月11日

千万磅外債募集条件愈発表せられた。六分利にして手取九十磅とは実に情ない条件の様だが、併し実際の処正貨欠乏で止むを得ない次第である。それに戦争に勝つても斯ふ信用がなくてはだめダ。昼後学校出勤五時帰宅。小泉待受けて居つた今日の号外は旅順の爆声を聞くと云司令官報多分露艦自ら破壊せるならんとの話。六時半頃小代も来る。飯後に開場おぢさん万歳である。珍らしく十時にしまつた。

1904(明治37) 年5月12日

今日は鎌倉地方に遠足をやるので学校は休みになつた。夕方寄席へでも行ふかと思つて居る処に菊地の野郎がやつて来た。軍人の肖像を売り出す積りだから其広告文をかいてくれろと頼みに来たのだ。それから是非小父さんを迎ひにやれと云ふので呼びにいつて間もなく来た。今夜は十時過で帰る。

1904(明治37) 年5月13日

一日引込んで居た。夜七時頃小代が来て一緒に麻布亭に源氏節を見にいつた。例の通芝居の真似事をやつたが先づ役者は揃つて居る方であつた。入りは七分通りである。

1904(明治37) 年5月14日

今朝佐野来浅井行の石膏は出来上り学校へ昨日届けたといつた。請求書及見積書は直に郵送する都合である。今日は降雨で大に無寥を感じたが午後二時小泉翁来訪。小代をも呼びにやり今日は頗る変化に富み盛んであつた。戦争談の材料はなし。十時過済み。

1904(明治37) 年5月15日

今朝は八時まで寝た。咽喉を損じ塩剥含嗽をなす。十一時頃大村西崖来訪、愈二十日の船で渡米するといふ。岩村も同船との事。午後銀座辺まで歩き修髪買物などをして三時に帰宅すれば竹沢が来て待つて居た。後程なく佐野小代も来集す。竹沢の房州地方情況談は大に悲観的である。債券を村民に割り当てたる方法などを聞けば、現今財政の基礎は随分怪し気に思はれる。戦後の結果については多少懸念なきにあらざるべし。九十九里浜の漁民は生活困難を極め古縄を粉末にして食餌とする位であるという。是等の窮民救済法を議するために、明日千葉県庁より大多喜まで旅行する由。例会は四時頃に開く。五時半頃高島大人も来り、間もなく四ツ辻の三ツ星に晩食に出掛け七時過に帰宅す。前約の小泉翁は八時半頃になつて参加し総て七人となる。併し十一時過には解散となつた。大なる輸〓を見ざるも近来の大会に相違ない。

1904(明治37) 年5月16日

今朝中丸来訪。白馬会展覧会設計につき相談なす。午後余り天気がよいから目黒に出掛けた。新緑の好季にて園内は清鮮を極む、目今燕子花〔アヤメ〕満開せり。

1904(明治37) 年5月18日

黒田のマヽン腸窒扶斯にて二ヶ月来臥床したるが、最早全快の由を聞きたり、祝ひに肴を贈る。岩村別れのため来訪。波士敦美術商店事業の見込を話す、至極賛成の意を表して置いた。電車にて出校し五時過に帰宅す。黒田が来て待つて居た。白滝に餞別云々の件話す。六時半帰る。夜小代来訪九時半まで話す。

1904(明治37) 年5月19日

今日は天気で仕合せ、午後学校五時半帰宅。六時より三田今福にて岩村の別れに会食す。小代、菊地、高島等先着続いて佐野、合田、黒田参集、竹沢は九時過になつてから来た。総て九人近来珍らしい賑やかな会食で、例の通り過去の旅行其他の紀念の跡ざらへで興を覚へ十時に散会す。こんな事は実に久し振りの事なり。

1904(明治37) 年5月20日

昨夜高島大人と二人で横浜へ輪行を約したから、今朝は五時に起きて支度をなして総ての用意を整へた。六時には大人早くも来る。然るに大人の車のタイヤアに小疵があつたため、其繕ひにて少々手間取つた。大人は又今朝の新聞にある初瀬吉野二艦沈没の報を告げたるに大々的奮慨の意気を示し、我軍人の戦勝に忸れて戒謹を怠るの故に斯る重大の損失を被ることを痛罵して止まず。七時少し前に車を聯ねて発程。御殿山より大井村道を経、停車場の処にて本街道に出で、蒲田を過ぎて小憩此時八時であつた。それから鶴見の宿外れで一度休んだ。神奈川の入口に四五町の砂利路あるの他は、道路は上等であつたが神奈川横浜間は電車軌道の工事で嶮悪を極む。横浜停車場に着いたのが丁度九時半一行を待受ける。間もなく来着。西村に伴ひたるも大勢にて上らなかつた。竹沢の周旋に依り、上州屋に車を預けて英国波止場に赴く。同処にも出発者多数の為め見送り人混雑を極めたから本船へは行かず、茲で御免を蒙り十一時小蒸汽発船を見送り、それから小代、合田、黒田、竹沢、高嶋と大人で公園前万花亭といふ西洋料理で昼食をなした。同処で上田得之助氏に出逢ひ松波の近状を聞いた。妙香寺に住して居るから尋ねて見よふではないかと合田が発議したるも断然不賛成を表した。黒田と合田は一時四十分の汽車で帰り残り三人と共に再び輪行を始める。今日は日があたつて中々暑い。神奈川で真田の紐を買つて衣物を縛り身軽になつて踏行す。生麦の畷道の芦簀茶屋で暫らく休む。竹沢は向の畠で覆盆子を買つて来て食して居た。三時頃に此処を出る。追ひ風にて疾走快いふべからず。一ト息で大森浜辺まで飛行見晴しの佳い茶店に休む。小父さんと大人とは頻りにところてんを啜り、竹沢は夏密柑を平らげた。南品川から東海寺踏切り路に出で、前の通り御殿山を経て四時半に連中と共に帰宅。皆して入浴心身快美を称す。後は例会開ける。夜になりて小泉、佐野も来場す。今朝早起にて疲労せるを以て十一時解散する。今夜は少々敗北の態なり。

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