本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
十二月二日 (京都出張日記) 朝京都出張の辞令を受取る 十二時半ニ内を出て永田町の樺山文相の邸ニ立寄り新橋ステーシヨンニ行 久米見送りの為学校の校長 教員 職員 生徒其他友人親藉等多人数集まり居れり 一時四十分の気車にて立つ 出る時久米君万歳を三度呼ぶ 高島が音度取りをやる 品川まで見送る者長原 安藤 藤島 中村の四人 横浜まで来る者ハ小代 松波 佐野 菊地 合田 杉五一 岩村 吉岡及び久米の beau-frère 等也 西村屋ニ投ず 然ルニ西村屋不行届の為船ノ切符を買ふ事が出来ず直ニ松波が船会社ニ出懸けて談判をすると云さわぎニ為る 今日ハ土曜であるし又明日ハ日曜だから不都合だが特別ニどうかするから明朝早く来いと云事ニきまる それから皆で船見物ニ出かく 船ハ Océanien と云のだ 江戸幸と云横浜第一と云鰻屋ニ行く 松波の案内也 鰻ハ赤阪の金子ニも不及 西村屋ハ不都合だから他ニ引越すと云議が起り六橋桜山崎屋と云処ニ行て談判して此処ニ泊る事と為る 六橋桜と云のハ此辺ニ六ツ橋が有るからの事 それから此の六橋の名ハ柳桜をこぎまぜての歌から取つて柳橋とか桜橋とか付けたそうだ 之れハ松波の説也 これより車を命じて quartier へ走る 此の途中皆歌などどなつて中々ナ景気也 其勢で quartier をぶらつく 随分さきの方まで行て気付いたのハ小代が見へぬ事だ 先程山崎屋の談判中から奴ハ見ヘぬ そうすれバ車ニハ乗らなかつたものと見へる それから手分けをしてさがすやら大心配 又議論も盛ニ出た 佐野が車ニ乗てステーシヨンから山崎屋辺をたづねたがとうとう知れず 又伊勢屋カラ電話で山崎ニ聞合ハセを度々やつた 之も無効 On a retenu en tout cinq femmes et par le moyent du tirage au sort on a décidé que parmi nous il y aura les cinq qui resteront. J’ai laissé ma place à Gauda. 岩村と四人で車で宿屋まで帰る 此時十時半也 今暫らくして立帰る旨を告げて又四人で東屋と云料理やニ上る On a fait venir deux chanteuse dont une s’appellé Kominé 松波が景気付た事ハ不思議ニて一人で歌などうたふ どうだ zinfandel でも取らふかなど云ひ出す それから皆で松波を zinfandel と字す 松波益得意也 鯛めしと云ものを食ハせると云て鯛と豆腐と今座敷で煮て食た汁の中ニめしを入れて煮て食ハした 形ハ丸でへどの如きものであつたが腹がへつて居たから甘かつた 十二時半頃宿屋に帰る 米 合二人ハもう帰てねて居る それからオレなんか雑談を云ひながらねて居ると一時過ニ為つて芳 菊二人帰つて来た 杉ハ伊勢から東京へ帰ル
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十二月三日(京都出張日記) 七時半頃ニ目をさましねながらものごと云て八時半頃に起る 松波ハ M.M.会社ニ出かけて切手の談判をして荷物積込の都合をつけて来た 朝めしハ皆一緒ニ食ふ それから久米が一人で西村ニ置てあつた荷を船ニ積ミ込ませて帰へる これから皆で唐物屋ニ買物ニ出かけた オレハシャツだのコルだのを買つた 此ノ時松波が十円でおもちやの気車を買ふ約束をした 皆で大笑して之れハ zinfandel 以上の景気だと云た 菊 岩 吉の三人ハ東京へ帰る 昼めしニハ合 松 久 佐と五人丈ニ為つた めし後ニハ宿屋の二階で話しをした とうとう松波が気車の買物をやめる事と為る 四時二十七分の気車に乗る事と為り皆とステーシヨン内の buffet で珈琲をのみ wine をのみ別れをした 佐 松 合ハ東京へ帰る オレなどの気車が少し先きニ出た 六時頃に大磯駅ニて下車 町を散歩して千鳥と云ふ小さい料理屋ニ這入り食事す 七時四十三分の直行気車ニ乗る 久米ハ横にて長崎までの通し切符を買ふ 今日横で新らしいシヤツを買つたから東京から持て来た古いシヤツとカラハ合田ニ頼で東京へ返へす
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十二月四日(京都出張日記) 米原で弁当と正宗を買ふ 午前九時過ニ七条ステーシヨンに着す 直ニ車を命じて木屋町富貴楼へ宿を取る 堀江を訪ふ 幸在宅 其れから三人で市役所へ行き市長ニ面会 今回出張の主意を話して去る 又其足で河原町の京都新聞社を見る 富貴楼にて昼めしをやる めし後ニ寺町の古道具古仙堂にて久米が仏像の買物をやる 堀江と三人で祇園の中村屋で晩めし 夫れから尾張楼ニ出懸けこゝに一泊 小房 小円 三代子等を久振にて見る 午後東京へ電信并ニ端書を出す
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十二月五日(京都出張日記) 九時過ニ起きてぐづぐづして朝昼兼体のめしをゆつくりやらかし三時ごろから四条通から寺町の方をぶら付 古道具屋を冷かし富貴楼ニ帰り藤島 長原 中村あての手紙を一通認む 湯ニ入り宿のおかみニ呉服の買物ニ付聞合せ方などして出かけ様として居る処ニ堀江来る 三人にて宿屋にて食事し夫れから堀江の家ニ行き道具屋を呼ニやり道具など見て十一時過ニ為り帰る 切込人形を一つ三十銭にて買ふ
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十二月六日(京都出張日記) 八時頃起る 九時過ニ丹羽圭介氏来訪 又堀江が竹内棲鳳氏同道ニて来る 市役所の大沢芳太郎氏来る 大沢 竹内 堀江の三氏を招待して河原町ノホテルにて食事す 今日丹羽氏が今度巴里の博覧会へ出す陶器類を見せるから来いと云約束が有つたから二時過から其方へ行く 丹羽氏ノ住居ハ伏見街道也 大学総長の木下氏 飯田新七氏 錦光山等居合せたり 夫れから高島屋の方へ廻り久米は故郷への土産物など買ふ オレハ羽織の注文をやる 此ノ店ニ居る間に暗くなりかゝつて来た 一寸宿ニ立もどり祇園の中村屋へ出かく 市長の内貴甚三郎氏 飯田政之助氏 松尾寛三氏 丹羽圭介氏 竹内棲鳳氏 錦光山宗兵衛氏 堀江氏等の集会也 飯田 丹羽氏の御馳走のよし かへりがけに丹羽 錦光山 竹内 堀江等の諸氏と一力に立寄る 此処の払は我レ我レニテ引受ける積なりしに之れも果さず 十二時過帰る
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十二月七日(京都出張日記) 朝八時頃起る 松尾氏 久米をたづねて来る 又錦光山氏来る 堀江も見ゆ 此の連中と久米を送って七条ステーシヨンニ行く ホテル時代の喜勇に遇ふ 久米十時の汽車にて立つ それより聖護院の木下大学総長を訪ふ 在宅にて面会 十二時頃帰る 一時過より大沢氏の案内にて織物会社に出かけた 一と通り工場を見物して西陣組合事務所に行き事務所員の案内にて川島の工場を一覧す 帰路堀江の家に立寄る 堀江を引張て内へ帰る 三人で食事する処に木村虎吉が来た 木村ハ巴里ニ居る事と思つて居たのに出て来たので驚た 来月の三日とかに又巴里へ行くそうだ そうこうして居る処に中林が来た 一寸居て帰る 又黒田天外と云人が来た 此の人は日出新聞の記者で種取りに来たものゝよし しばらく雑談を云て明後朝を約して帰る 堀江 大沢氏等十一時頃ニ帰る 今晩お種からの手紙を受取る 客が皆帰つてから返事をかく(此の手紙今日の昼めし後に一寸かきはじめたのゝつゞき也) 十二時過ニ為た 今日織物会社ニ居る内から少しポツポツやつて来たが夕方から少し本式に降り出し一時ハ大分強く雨の音がして居たが十二時頃にハ又静に為た
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十二月八日(京都出張日記) 八時ニ大八木一郎氏の父常正氏来訪 十時頃大沢氏来る 又一緒ニ西陣組合事務所ニ行き昨日の案内者ニ導かれて紋業菅善三郎を訪ふ 此の人元岡山の人にて年二十七八 中々元気な風の人也 十二時ニ為つたから此の菅氏を引出し大虎と云料理屋ニて昼めし それから四人連で旧式紋業家松室以忠氏を訪ふ 夫れより菅氏及事務所員某ニ別れ大沢氏と美術工芸学校へ行き校長ニ面会 夕方ニなり旅館へ帰る 大沢氏ト食ス 菅氏 小山氏 中井氏来訪 暫時談話せり 堀江君来る 又京都新聞社の記者村上香氏来る 十一時頃二人とも帰る
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十二月九日(京都出張日記) 此の日久米より羽書来る 返事を出す 朝八時頃より森栄 田村宗立 黒田天外 大沢芳太郎諸氏来る 十時過より大沢氏の案内にて染織学校を見る 帰りがけに中澤工学博士方ニ名刺を置く 午後一時半頃大沢氏再来る 共に粟田口錦光山氏を訪ひ工場陳列室等を見る 又錦光山氏の案内にて五条坂なる陶器試験所の工場并に参考品蒐集所を見る 帰途大沢氏に別れ錦光山氏と木屋町玉川楼にて夜食 雑談十二時に至る
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十二月十日(京都出張日記) 朝九時頃起る 中井氏 岩佐恩順氏来る 十一時前より三人にて堀江君方ニ行く 堀江ハ今日すゝはきにていそがしくして居る 途中父上注文の短冊を買ふ 又三人にて京極を通り四条大橋ニ至る 時ニ十二時半頃也 宿の女将橋の脇にて我々を待つて居り花蓮亭なる料理屋ニ導く 錦光山氏先きニ来て居た ボツボツ飲で居る処 北本雄氏つゞいて黒田天外氏及大沢氏来る 同勢七人と為る 二時過に此の家を出て祇園町を東へ行き万亭ニ入る 宿の女将 大沢氏 北本氏等は早く帰る 大沢氏ハ明日東上のよしニて別を告ぐ 居残りたる四人は十時頃まで遊ぶ 天外氏ハ千鳥足と為る 中井 天外の二君ニハ大和大路の角にて錦光山氏ニハ四条の小橋ニて別れオレハ一人で京極へ廻り木屋町へ帰る
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十二月十一日(京都出張日記) 昨夜ハ二階ニ来た客が女など呼び集めて夜の二時頃まで騒いだのニ時々目を覚まされた 九時頃ニ起て見ると霧雨が降て居て向岸の家などがぼんやりして中々いゝ景色だ 東京から来た手紙をよみ新聞をよみめしを食ふ 食後床屋ニ行き髪を切り髯をする 宿へ帰ると女将が昨夜から風呂を取つて置たから這入るならたかさせると云事 其れは至極結構と承諾し間もなく風呂の用意が出来た 被物をぬいだ処ニ黒田天外氏来る 一寸待たして置て湯ニ入る 色々小供の時からの話などして居る内ニ昼ニ為つた めしが出た めしを食て居る処ニ菅善三郎氏来る 又錦光山氏来る 三時半頃ニ客を待たして置て京都新聞社ニ行き村上氏の原稿を一読し不都合な点の訂正を乞ひ帰る 暫時ニして菅氏帰る 又黒田氏も去る 最後ニ錦光山氏去る 此の時ニハもううす暗く為りかゝつて来た 直に堀江君の内へ行く 同君と同道にて縄手の鳥新でめしを食ふ 九時頃ニ二人連で宿に帰り十二時半頃まで話す 床に這入つて日記をかく 今夜ハ十二時前ハ隣の大可楼や宿の二階でいやニ騒いで居たが今ニ為ると静まつて夜廻の金棒の音と河の音計で世間が誠ニ静でいゝ 目がさへてねむられず書物をよむ 二時頃ねむる
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十二月十二日 曇天也(京都出張日記) 朝九時頃起る 中井氏来る 共に堀江君を訪ひ三人連にて博物館を観る 夫れより五条坂の焼物屋を冷かす 六兵衛方にて菓子器の如きものを一個母上へのお土産として求む あこや茶屋にて昼めし 昼めしとハ云へ三時頃に為つた故腹が大分へつた 其代りニめしが至極甘かつた 清水まで行く積であつたけれどもくたびれたゆへ此処より宿屋へ引返す 暫時宿にて休息し又三人連にて出かけ堀江君の新聞社へ一寸立寄り夫れより堀江君方へ出入の寺町の道具屋を観る 仏像一体を購ふ 代金二円五十銭也 堀江君方ニ至り十一時頃まで話しす 京都新聞の英文記者の某氏及村上氏見ゆ 例の如く美術論も出 維新の英雄の評も出 又古代建築物等の話も出た すしの御馳走ニ為る 今夜ハ此のすし丈で晩めしを食ハず 三条通より木屋町へ一寸這入つた処まで中井氏と同道し明日を約して別れたり 宿ニ帰つて女将より大阪のペスト汽車中の人殺し及南京虫が一度此の家ニ出来て難儀した事等の談話を聞く 今夜帰る時ニハ月がよかつたが道ハ中々悪かつた 木屋町ニ寝るのハもう今夜限りと思ふとなんだか少し残り多い様だ しかしもう今度ハ此の位で沢山だ 天外氏の著書を暫時ねながらよみ一時半過ねむる
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十二月十三日(京都出張日記) 朝九時頃ニ起て十時頃に市長の処に別れニ行く積りで一寸出かけたら堀江君ニ出遇ひ共ニ引返へし堀江君ハ金を五十円持て来て呉れた 之れハオレの旅費が足らなく為つたからの事だ 堀江君と錦光山の処ニ行き十二時頃宿ニ帰り堀江君と二人で昼めしを食ふ 一時半頃ニ出かけて内貴市長の処ニ行き暫時話して別る それより飯田新七氏を訪ふ 之れハ昨日飯田氏より進物が来た体を兼て別ニ行たのだ 番頭の案内で陳列場を一と通り見る 宿に帰つて告別の端書を書きかけて居た処ニ中井氏が来た 同氏ニ荷造を頼で置て二人びきの車で木下 中澤の又氏ニオレの古いクラバツトをやつた 第一東京の内へ電信で明日帰る事を知らしてやつた 別れの端書ハ左の諸氏へ出ス 丹羽 菅 黒田 北本 小山 中井とめしを食ひ始めて居た処ニ堀江君が来 又錦光山氏が一杯機嫌で来た 八時八分の汽車に乗る 送つて来て呉れた人ハ堀江 錦光山 中井の三氏と宿の女将也 汽車ニ乗るのに金が足りなくなつたから又堀江氏が足して間ニ合ふ事となる 上等の汽車で帰る 此の汽車ニ乗り合ハしたる客ニ中西信三郎と云人有り 此の人西陣の情実を委しく知り居る如き人にて話し中々に面白し 十二時頃まで色々話してねる 上等のお蔭で足をのばしてねる事が出来た 翌朝十一時二十三分東京着
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三月二十四日(百草園紀行) 午後一時二十五分四ツ谷停車場発 同行ハ佐野昭 小林萬吾 湯浅一郎 北連蔵 安斎豊吉に拙者ト都合六人なり 高島 矢崎 中澤等も来る約束であつたが来らず 三時十五分頃日野駅ニ着す これより道を聞きながら百草を指して行く 途中の景色ハ平たき畑にて其中ニ処々小川有り 水清し 玉川の支流を渡りて間もなく不動堂の立派なものあり 不動より百草までハ半道足らずと思ふ 百草園と云ふのハ松蓮寺とも云ふ 松蓮寺と云寺の跡にて今ハ一個人の有なりと聞く 寺の形ハ今ニ存すれども旅宿営業を為す 此ノ旅宿営業はいゝかげんのものにて吾れ吾れは折角此処をあてにして行たけれど至極不丁寧の四十位の婆が居てめしも無く又寝所もないなどとぬかしとうとう此処を立ち去ることゝ為る 此の松蓮寺は高き山の頂上に在り玉川の流を目の下に見る 又此処に桜もいくらか植ゑ付けてあるから桜時には来る人も多くあるよし 山を下り麓の居酒屋玉川屋と云ふに這入り味噌汁にあぶらげの焼いたのと漬物にて甘くめしを食ふ 汁が非常ニ甘かつたから三杯かへて食た 此の代価六人前にて二十四銭とハ安いものだ あまり安いやうだつたから別に茶代をやつたら此処の婆さん大によろこんだ 日野より此の辺までは二里はたしかなり 玉川屋を出る時は早五時過なり 此の玉川屋ニ来合せた豆腐屋ニ案内されてしばらく行く 薄暗く為る頃に豆腐屋に別れ左に折れて川を渡り府中へ向つて行く 河原に出た頃はもう一歩先きに行く人の形ハ真黒ニ見ゆ 砂原のやうな処をやゝしばらく行きそれから畠け道と為る 真暗にて方角も分らず幾遍も途中のあかりのある藁家をたゝいて道を聞く 畠道の中にて玉川屋より買つて来た蝋燭に火をつけ地図を開き評議をしたなどハ一寸困つた印なり アヽ此処まで来れバ安心だといふ一本筋の広い道で両側にまだらに人家の有る処に出てから本当の府中の町と云処まで出るまで二十町位はあつた 兎に角百草から此の府中迄は少なくも一里半はあるに違ない 地図を開いて評議した辺などが所謂分配野の真中頃でもあつたろう 府中といふ処一寸繁華な処で此の辺の市場だ 人口六千許 松蓮寺で宿る事を断ハられたお蔭で府中といふ処を知つた 仕合也 八時頃ニ此の町に着き宿屋を鳶屋と先づ極めて這入込だが座敷が悪く取あつかひも面白からず 六人の内佐 小とオレとの三人が委員と為り他の宿屋を聞合せに出懸く 先づ警察所に行き聞合ハしたるに中屋と云ふがよからうと云ふので其中屋と云ふのに行て見たら宿の女主 下女等まで至極心地よき連中にて今夜は都合悪く客多けれどどうにか都合すると云事でとうとう仕舞に六畳二た間の離れを明ける事に決し大に安心し鳶屋へ残して来た三人の者を早速呼び寄せ此処に宿る これより風呂ニ入り酒にめしといふことに為り食後には皆寄つて今日の紀行を例の狂句にて作ることをやつてとうとう二時半に為つた
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三月二十五日 (百草園紀行) 今朝方は大分雨が降つた 九時頃にぼつぼつ一人起き二人起き皆床を出て直にめしを命じたが飯を済ませ勘定をして宿屋を出る時は早十一時過ニ為つた 府中の町中での立派なものと云ふのは国魂の社であるらしい 此の社ハ武蔵の国といふのを神としてまつゝてあるのだそうだ 社の有る処ハ杉森の中でいかにも神様のありそうな処だ 社殿の構造も悪くは無い様だ 只拝殿の屋根が柱の高さに比べて大き過ぎるやうだ 此の国魂の社の境内を通り抜け右の細い道に出てこれより川を指して進む 河原ニ出る手前で道は(以下不記)
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五月二十五日 晴 (欧洲出張日記) 朝五時半頃ニ起きて仕度を為し氏神様を拝み六時少し過ニ内を出て新橋へ行く 送る者は佐野 菊地 中村 矢崎 中澤 篠塚也 安藤ハ神戸まで一緒ニ行くとて昨夜荷物を持て来て今朝亦来て一緒ニ立つ 新橋にハ磯谷 白瀧 湯浅 小林 安斎 伊藤 長原其ほかに時事の堀井卯之助君及び美術学校の生徒某が一人来て居た 長原君ハ昨夜中村 菊地の二氏と内にとまつたが何か用が有つて今朝吾れ吾れの出る前に何処かへ廻つて来ると云て出かけ停車場で再び一緒ニ為つた 六時五十分新橋発の気車ニ乗る 篠塚 堀井及生徒某にハ此処で別れた 今度同船で仏蘭西へ行く人達で此の同じ気車ニ乗る人が有る それハ農商務の商品陳列所長の佐藤顕理君だ 日本美術院の岡崎雪声氏も此の気車で立つ だから停車場ハ見送り人で一杯だ 吾れ吾れはこそこそと赤切符で乗り込だ 横浜に着いて一寸六橋桜に立ち寄り安藤の乗船切符等の事を頼み直ニ船へ行く 横浜の西洋人で国へ帰る者の見送人や又佐藤 岡崎其他の渡航者の見送人で桟橋ハ勿論船中ハせき合ふ程にぎやかだつた 九時ニ船が動き始めた 見送りの十二人は桟橋の上に立つて居つてハンケチを杖の先ニ付けて振つたりなんかして居たが段々小さく為つて誰れが誰れだかよく分らなく為つて来た 此の時にハ向ふからも此方の形も知れなく為つたと見えて十二人の一と塊りが散り始めた 兎ニ角安藤が一緒だから皆ニ別れても心細い様な感ハ起らない 此の船は仏国のメサジユリー・マリチーム会社のサラジーと云船だ 吾れ吾れハ中等ニ乗つた 同船の日本人ハ上等ニ佐藤氏始め四名計り 中等ニは吾れ吾れ二人と岡崎氏のほかに三人 尤も二人ハ女だ 此の女供ハ綿羊的で西貢迄行くものだそうだ 中等の室ハ一室ニ四人づゝ這入るのだ オレハ岡崎氏等と三人同室する事に為つたが今ハ全体乗客が少ないから多く為つたら又元へ帰ると云約束で部屋を替えて貰ひ安藤と二人で一室を占領する事ニして貰つた 食事ハ一日ニ五回だ 第一は茶か珈琲かシヨコラで六時より八時の間に食ふ 第二は十時で本当の昼めしだ 第三は一時でソツプの外に冷肉にチイス位 又ソツプがいやなら茶でも飲ませる 第四が六時でこれハ夜食だ 之れが一番念入りの食事だ 第五が九時で茶にビスケツト位のところだ 海が静な上ニ安藤と一緒だから雑談など云てのんきに暮らす 夜遠州灘でも思ひの外静でよかつた
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五月二十六日 (欧洲出張日記) 朝九時頃に神戸に着いた 京都の堀江君からの電信を受取つた 直ニ上陸して内と堀江とに電信をかけた 日野敬全氏が安藤の迎ひかたがたオレの別れにわざわざ京都から来た 三人連で元町を散歩し買物など済ませ夫れから日野氏の指図で天王と云ふ所ニ行た 天王と云ふ処ハ湊川の上の山の麓で温泉が有り連込用の茶屋が沢山有る 三川屋といふのを撰んで這入つた 先づ湯かたに被更えて風呂ニ行く 風呂は何か鉱泉で少し臭い 三川屋の直く下に小さな家が有つてお宮の拝殿の様な姿の建物が見ゆる それが湯やだ 湯壺は美麗で深い 胸の辺まで湯がある 湯から出て食物を命じ又芸者を二人呼びニやつた 芸者は柳原と云ふ処から出張するのだそうだ 三四時頃ニ為つて芸者が来た 地ふた(上り下り)といふものをひいてきかしたが静な調子で中々面白いものだ それから大あばれニあばれて七時頃まで居た 安藤と日野が船まで送つて来た 又餞別ニ二人から葉巻煙草を百本呉れた 船で仏蘭西の麦酒を御馳走してお土産ニ仏蘭西煙草を日野氏ニ贈つた 九時半ニ二人ニ別れた 正十二時ニ船が出た
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五月二十七日 (欧洲出張日記) 朝から雨で瀬戸内のいゝ景色は一切見えない 四時頃ニ赤間ケ関の前ニ来た フアーブル・ブラント氏が御維新前の話などしてあすこに長州の陣の有つた処だなどと指示してくれた 白い幕ニ黒い丸をかいて外人ニ大砲と見せる積でやつて居つたなどハ随分可笑い話だ 夜の入らぬ内ニ瀬戸を通り抜けて仕舞つた 今日は雨の上ニ風も少しあるから玄海でハかなりゆれるだらうと思ふ 今晩の食事ニはエイマールの兄弟の頭の者が一人とオレと二人切りだ
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五月二十八日 (欧洲出張日記) 玄海も思ひの外静であつた 今朝三時に船が止まつたので目がさめた 窓からのぞいて見ると陸が近く見える 長崎港の入口ニついたのだ 又寝床ニ這入つて六時頃に再び起きた 長崎港ハ今朝の九時ニ出帆だといふので上陸する暇がない 内と鹿児島とへ出す端書を書いて三井物産の人ニ頼で出す 其内ニ三井物産の小汽船が有るから一寸町へ行て見様かと云話が起り佐藤 岡崎 飯塚の三氏と上陸 皆一寸した買物を為し又オレハ内へ安着の電信かけた 船へ帰つてから安藤へやる手紙をかき三井物産の人ニ頼で出した 三井の人ハつまり佐藤氏の為めニ来たものと見える 今日ハ午前の内ハいゝ天気だつたが午後曇て来た 又沖ニ出るニしたがつてうなりがつよく為つて四時頃ニハ船が随分つよく横にゆれた 今晩の食事にハエイマールと岡崎氏と長崎から乗つた希臘人だと云ふ奴とオレと四人丈だつた
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五月二十九日 (欧洲出張日記) 今日ハ曇だ 朝六時半ニ起き風呂などニ這入つた 海ハ至極穏かで病人も段々よく為つて甲板ニ出て来た 午前十一時前頃から支那の猟船がぼつぼつ見えはじめ又海の色が一変して黄色を帯て来た 之れハ揚子江の入口の印だそうだ 又右と左に小さな島が遠くに見えた 二時頃ニ為つて左右ニ条を引た様な陸が現れた 即ち吾れ吾れの船は揚子江の川口ニ這入つたのだ 水の色は全くどろ色だ 雪どけか又は嵐のあつた時の川水の色だ 之れハ今日ニ限つてこんなのではなくいつでもこういう色だそうだ 検疫の為めニ一時船をとめ英人の医者が小蒸気でやつて来て船員船客の頭数を調べた これが四時頃でこれから又船を少し進めて錨を下した メサジユリー会社から小蒸気をよこして皆其船に乗り移つた 此の時ハ五時頃だつた 丁度二時間計川をさかのぼつて上海に着いた〔図 写生帳より〕 吾れ吾れ日本人一同東和洋行の番頭に案内されて人力車で其宿屋に行た 此の東和洋行といふのハ日本人がやつて居る宿屋で下女なども日本人だ 下女は今六人居るそうだが皆日本服だ 此の家の主人が佐賀人だそうで雇人も大抵同国者のやうだ 日本語の分る支那人も一人居る 直ニ案内者ニ連れられて人力車を五台連ねて支那料理に出かけた 泰和館とか云ふ家だ 一とテーブルで六円と云料理を云ひつけて食た 兎ても五人でハ食ひきれない 燕の巣といふものなどを始めて食つた 此の料理屋は一寸大きな家だ 先づ此の地屈指のものだそうだ 這入て突き当りに座花酔月といふ時が書いて有る 座敷と云のは二階だ 往来の側に一と部屋一と部屋にしきりがしてあり部座と部座との間は硝子障子の様なものだから隣は無論のぞける 一体に実ニきたならしいが芸者などをよぶのは矢張こう云ふ処で呼ぶのだそうだ 此処を出て四馬路の寄の様な処ニ這入つた 栄華富貴楼といふ処だそうだ 舞台の左右に扇子形の額がかけてあつて栄華富貴とかいてあり又正面ニハ横長の額が有つて響過行雲とかいて有る〔図 写生帳より〕 此処ハ一人前四十銭だ やかましい音楽をして其節ニ合ハして歌ふのだが芸人ハ皆若い女だ 其女を自分の机の処ニ呼ぶ事が出来るのだそうだ 此処ニ這入つて腰をかけると銘々にお茶を出した 又コツプ形の白い茶碗に紅茶のやうなものを入れて出し舞台の芸人の前にも此のコツプ形の白い茶碗がならべてある 此の辺のにぎやかさは実に想像外だ こんな見世物の中ニも人が多いが往来も一杯の人だ ぶらぶらして居る人の中を大いそぎで籠ニ乗て通る女が有る これハ芸者がお座敷に出る処だそうだ 籠の先にハ提灯をつけた人足が走つて行く 此処を散歩して居るものハ大抵皆支那人で西洋人ハ殆んど見えない 今這入つた寄の前に大きな珈琲屋の様なものが有る 此の家ハ客が一杯だ 又縦覧随意といふやうな風で出る人入る人がせき合つて居る位だ 中ニハ一つの机に二三人四五人づゝ居つて女ニ雑談などして居る 女ハ女郎の様なもので云ハバ遣手婆と云ふ種類の老婆が若いのに附て居て客を引く 若い女ハ十五六とも見ゆる位のが沢山居た 驚く程の美人といふべき奴ハ見えなかつたが其代こんな奴がといふ程の醜婦も居なかつた 此処ハ即ち春江評花処といふ家だ 亜片を飲む部屋ニハあやしげな目付をした男がいくらもごろごろして居て見て歩いて居る人にハ一向気もつかないで一生懸命ニ吸ひつけて居る 亜片ハ必ず寝ながら吸ふものと極まつて居ると見え椅子の大きな様なものがあつて其椅子の中央部に朱檀の盆の様なものがはまつて居る 即ち其盆の上に亜片の道具を置き其両側に寝ころんで亜片を吸ふのだ 此の亜片をのむ処ハ一種不思議な臭がする 此の四馬路 五馬路といふ所は東京で云へバ新橋とか吉原とかと云ふやうな処で色町だそうだ 古道具屋を冷かし夫れから西洋料理屋ニ行てラムネを飲だ 古道具屋ハ中々懸値を云ふ 先づ一円五十銭とゆふたものなら五十銭位にハまける 西洋料理屋ニハ机の上に硯と紙と備へてある 其紙にハ活字で老爺……勿遅と書いたものが何だと聞たら芸者を呼びニやる札だそうだ 其札の中ニ自分の呼びたいと思ふ女の名を書き入るれバ使の者が持つて行くのだそうだ 又此の料理屋ニ芸者の名のかいてある帳面が有つた 此地ハ遊ぶ方の事ハ中々開けて居るらしい 芸者を呼ニやる札ハ桃色の西洋紙にして老爺叫の下に女の名をおき第と号の間ニ部屋の番号を入れて送るのだそうだ 中々便利な仕方だ 芸者で尤も有名なのは(原文数字空白)と云ふのだそうだ 支那でハ芸者の事ヲ何々先生と呼び芸者屋の事ヲ何々書屋と云ふそうだ どうしても支那ハ文字の国だナ 此の西洋料理を出て帰りがけニ広東女の居る家を一寸見る 至て下等なものらしい 様子なども之れぞと云て面白い点がない —- 老爺叫 至四馬路東首一品香 第 号房内侍酒速 速勿遅—-
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五月三十日 (欧洲出張日記) 中々今日は暑い 佐藤 岡崎 飯塚の四人連で馬車を雇ひこの東和洋行ニ居る日本語の分る支那人を案内ニ連れて市中見物ニ出かけた 愚園 張園などを見る いづれも支那の金満家がこしらへた遊び場処で人の縦覧を許すのだ 愚園の方ハ入場料が一人前十銭だ 支那風の楼閣が出来て居て其中をあつちこつちと通る様ニ為つて居る 廊下や建物の周囲に大胡不流の岩がセメント固メデ出来て又建物は中ニ蓮池を取り囲でどうしても唐詩選中の或るものを形ニした様だ 蓮ハ未だ花ハない 漸く新しい葉が少し許出た処だ 張園の方ハ丸で趣が異つて居る 此の方ハ欧洲風だ 三つ許離れ離れの建物が有るが重なものは集会所ニ使ふ為めのものか椅子や机が沢山列べてある 之れに附属して西洋料理屋が有る 此の部分ハ西洋人がやつて居るのだそうだ 此の洋風の張園に不似合なものは支那の人相見が一人園中の奥の家ニ居る事だ 支那で人相を見て貰ふも亦一興と忽ち二十銭憤発スル事と為つた 其処で案内に連れて行た支那人が筆を採つて人相見の爺が云ふ事を記した 尊相骨格清高今歳僅交眼運部目像鳳形三停相配六府相匂五官端正乃是富貴相局眼生威厳可惜鼻太低以致富厚貴子息先女後子為寉寿元古稀有余子ト三人団円福寿双全 在上海張園内 清国醒世道人評 光緒二十六年夏月 東和洋行華人代筆 昼飯はホテルデコロニーといふ仏国風の宿屋でやらかし後買物などして午後五時半頃MM会社の小蒸汽にて本船へ帰つた
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