本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年3月24日

 三月二十四日(百草園紀行) 午後一時二十五分四ツ谷停車場発 同行ハ佐野昭 小林萬吾 湯浅一郎 北連蔵 安斎豊吉に拙者ト都合六人なり 高島 矢崎 中澤等も来る約束であつたが来らず 三時十五分頃日野駅ニ着す これより道を聞きながら百草を指して行く 途中の景色ハ平たき畑にて其中ニ処々小川有り 水清し 玉川の支流を渡りて間もなく不動堂の立派なものあり 不動より百草までハ半道足らずと思ふ 百草園と云ふのハ松蓮寺とも云ふ 松蓮寺と云寺の跡にて今ハ一個人の有なりと聞く 寺の形ハ今ニ存すれども旅宿営業を為す 此ノ旅宿営業はいゝかげんのものにて吾れ吾れは折角此処をあてにして行たけれど至極不丁寧の四十位の婆が居てめしも無く又寝所もないなどとぬかしとうとう此処を立ち去ることゝ為る 此の松蓮寺は高き山の頂上に在り玉川の流を目の下に見る 又此処に桜もいくらか植ゑ付けてあるから桜時には来る人も多くあるよし 山を下り麓の居酒屋玉川屋と云ふに這入り味噌汁にあぶらげの焼いたのと漬物にて甘くめしを食ふ 汁が非常ニ甘かつたから三杯かへて食た 此の代価六人前にて二十四銭とハ安いものだ あまり安いやうだつたから別に茶代をやつたら此処の婆さん大によろこんだ 日野より此の辺までは二里はたしかなり 玉川屋を出る時は早五時過なり 此の玉川屋ニ来合せた豆腐屋ニ案内されてしばらく行く 薄暗く為る頃に豆腐屋に別れ左に折れて川を渡り府中へ向つて行く 河原に出た頃はもう一歩先きに行く人の形ハ真黒ニ見ゆ 砂原のやうな処をやゝしばらく行きそれから畠け道と為る 真暗にて方角も分らず幾遍も途中のあかりのある藁家をたゝいて道を聞く 畠道の中にて玉川屋より買つて来た蝋燭に火をつけ地図を開き評議をしたなどハ一寸困つた印なり アヽ此処まで来れバ安心だといふ一本筋の広い道で両側にまだらに人家の有る処に出てから本当の府中の町と云処まで出るまで二十町位はあつた 兎に角百草から此の府中迄は少なくも一里半はあるに違ない 地図を開いて評議した辺などが所謂分配野の真中頃でもあつたろう 府中といふ処一寸繁華な処で此の辺の市場だ 人口六千許 松蓮寺で宿る事を断ハられたお蔭で府中といふ処を知つた 仕合也 八時頃ニ此の町に着き宿屋を鳶屋と先づ極めて這入込だが座敷が悪く取あつかひも面白からず 六人の内佐 小とオレとの三人が委員と為り他の宿屋を聞合せに出懸く 先づ警察所に行き聞合ハしたるに中屋と云ふがよからうと云ふので其中屋と云ふのに行て見たら宿の女主 下女等まで至極心地よき連中にて今夜は都合悪く客多けれどどうにか都合すると云事でとうとう仕舞に六畳二た間の離れを明ける事に決し大に安心し鳶屋へ残して来た三人の者を早速呼び寄せ此処に宿る これより風呂ニ入り酒にめしといふことに為り食後には皆寄つて今日の紀行を例の狂句にて作ることをやつてとうとう二時半に為つた

1900(明治33) 年3月25日

 三月二十五日 (百草園紀行) 今朝方は大分雨が降つた 九時頃にぼつぼつ一人起き二人起き皆床を出て直にめしを命じたが飯を済ませ勘定をして宿屋を出る時は早十一時過ニ為つた 府中の町中での立派なものと云ふのは国魂の社であるらしい 此の社ハ武蔵の国といふのを神としてまつゝてあるのだそうだ 社の有る処ハ杉森の中でいかにも神様のありそうな処だ 社殿の構造も悪くは無い様だ 只拝殿の屋根が柱の高さに比べて大き過ぎるやうだ 此の国魂の社の境内を通り抜け右の細い道に出てこれより川を指して進む 河原ニ出る手前で道は(以下不記)

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