1899(明治32) 年12月2日


 十二月二日 (京都出張日記)
 朝京都出張の辞令を受取る 十二時半ニ内を出て永田町の樺山文相の邸ニ立寄り新橋ステーシヨンニ行 久米見送りの為学校の校長 教員 職員 生徒其他友人親藉等多人数集まり居れり 一時四十分の気車にて立つ 出る時久米君万歳を三度呼ぶ 高島が音度取りをやる 品川まで見送る者長原 安藤 藤島 中村の四人 横浜まで来る者ハ小代 松波 佐野 菊地 合田 杉五一 岩村 吉岡及び久米の beau-frère 等也 西村屋ニ投ず 然ルニ西村屋不行届の為船ノ切符を買ふ事が出来ず直ニ松波が船会社ニ出懸けて談判をすると云さわぎニ為る 今日ハ土曜であるし又明日ハ日曜だから不都合だが特別ニどうかするから明朝早く来いと云事ニきまる それから皆で船見物ニ出かく 船ハ Océanien と云のだ
 江戸幸と云横浜第一と云鰻屋ニ行く 松波の案内也 鰻ハ赤阪の金子ニも不及 西村屋ハ不都合だから他ニ引越すと云議が起り六橋桜山崎屋と云処ニ行て談判して此処ニ泊る事と為る 六橋桜と云のハ此辺ニ六ツ橋が有るからの事 それから此の六橋の名ハ柳桜をこぎまぜての歌から取つて柳橋とか桜橋とか付けたそうだ 之れハ松波の説也 これより車を命じて quartier へ走る 此の途中皆歌などどなつて中々ナ景気也 其勢で quartier をぶらつく 随分さきの方まで行て気付いたのハ小代が見へぬ事だ 先程山崎屋の談判中から奴ハ見ヘぬ そうすれバ車ニハ乗らなかつたものと見へる それから手分けをしてさがすやら大心配 又議論も盛ニ出た 佐野が車ニ乗てステーシヨンから山崎屋辺をたづねたがとうとう知れず 又伊勢屋カラ電話で山崎ニ聞合ハセを度々やつた 之も無効 On a retenu en tout cinq femmes et par le moyent du tirage au sort on a décidé que parmi nous il y aura les cinq qui resteront. J’ai laissé ma place à Gauda.
 岩村と四人で車で宿屋まで帰る 此時十時半也 今暫らくして立帰る旨を告げて又四人で東屋と云料理やニ上る On a fait venir deux chanteuse dont une s’appellé Kominé 松波が景気付た事ハ不思議ニて一人で歌などうたふ どうだ zinfandel でも取らふかなど云ひ出す それから皆で松波を zinfandel と字す 松波益得意也 鯛めしと云ものを食ハせると云て鯛と豆腐と今座敷で煮て食た汁の中ニめしを入れて煮て食ハした 形ハ丸でへどの如きものであつたが腹がへつて居たから甘かつた 十二時半頃宿屋に帰る 米 合二人ハもう帰てねて居る それからオレなんか雑談を云ひながらねて居ると一時過ニ為つて芳 菊二人帰つて来た 杉ハ伊勢から東京へ帰ル