1893(明治26) 年6月21日


 六月二十一日 (船中日記)
 今朝起てみると天気がなかなかいゝ 朝めしを食て甲板ニ上つて見ると日がかーんと当つて居るが随分寒い だが丁度十一月の初霜の頃の寒さの様ニいゝ寒さがす 暮村で木靴をはいて紅葉の落て居る中をグワサグワサ云ハして歩いた頃の事などが思ひ出されて面白い心地ニ為て来た もう今ハ大西洋も半分の余通り過て丁度テルヌーブと云島の前の辺ニ来て居るそうだ アヽ時の立つのハ早いもの 前週の今朝ハ寺尾の板の間で目をさましたのだつたがもう今と為てハ巴里も友達も皆もうだめだ 此辺のこんなニ気候の寒いのハ氷が近所ニ流れて居るからなど云人有り 此辺の海ニハくじらが沢出居ると見へてあつちこつちニ潮を吹くのを見受た 但し此のくじらハ通常のくじらとハ少し違つて一種小さきもの也とぞ 聞くがまゝニ記す 今朝も和蘭人と酒二本計持て下等ニふる舞ニ行た 今日ハばゞあの様な奴ニ計呉れたから先づよかつた 夫レから帰つて来て居ると下等の甲板の片隅ニ年の頃二十五六の男が鼻水をたらしながらしやがんで居る 其者ひざの処二頭から布をひつかぶつて居るからよくハ別らないが先づ年の頃十四五とも見ゆる女の子がつぷして居る 其ざまいかニもあわれニ見へたからナンダこんな奴ニこそ酒でも飲ましてやつたらあつたまりもしてよかろう 且兄弟か夫婦か知らぬが二人で中よくぬくもつて居るところハ面白しと思ヒ直ニ葡萄酒ヲ一本買ヒ同船の若い和蘭陀人の小僧に持たして呉れてやつたら其男の驚た事此の徳利を何ニするのだろうと云様ナ体でなんとも云ハズキヨロリとした処実ニ奇だつた 思ハず吹き出シて其儘ニして帰つた あとハどう為たか知らん