1893(明治26) 年6月14日


 六月十四日 (船中日記)
 西洋の千八百九十三年の六月の十四日朝十時二十分の気車で巴里を立つ とうとうオレの命が之レできれて仕舞ニけりだ 停車場迄送て来た者ハ皆親友の者共計さ 先其名ヲ記せバ寺尾 河北 大鳥 吉田 杉田 川村 別れと為ても別ニかなしい事もなニもない 矢張近在ニ遊ニ行時の心地さ ブローニユニ着たのハ二時十分頃也 途中でハ若夫婦一組いやニつゝき合たりなんかしてふざけるので思ひの外時が早く立た 亭主ハ英人 妻ハ仏人也 妻の野郎ハ仏語が出来ないと見へて亭主が例の妙な調子で仏語をしやべる 一寸をとなしい半分馬鹿の様ナ男だ 中々以て女ニほれて居ると見へて雑談をする 人目をはゞかるなんかんて事ハ西洋でハ流行らぬから別ニめづらしい事もネへ 雑談をされて女がノンと云処をやさしく色めかしてニヨンと云のハ面白かつた 中々ぬからぬ面付のめすさ 目口鼻の相様一と通りまつげが長いので何ニと無く一寸悪ク無様ニ見ゆる 毛の色ハ黒さ まあなんでも間男ハ受合の方らしい 手の指などのふとい処を以て奴が英人を亭主ニした原因を考て見るニ其女ハどこかの田舎の者で身分の軽き者 其レニ英人先生旅の空でほれ込みまじめな男だもんだから口車ニ乗せられてとうとう本式ニ妻とした者と裁判す 今ニ舟に乗つたら今少シハすゞしく為るだろうなんかんて話して居る 処でハア此奴等もオレと同船するのか之レハ妙だと一時思つたハ大間違 奴等ハ英国ニ渡るのだつた 此の者共の外に気車ニ乗合た者ハ独逸人夫婦 棒も壺も六十以上の老人等 極まじめでなニか話して居る それから仏人が一人 三十五六の男 どこかの会社の雇で用向で英国ニ行と察す 始の頃ハ手さげの中の書附などの取調をして居たが後ニハ腕を組で仕舞た ブローニユニ着く三十分位前ニ湖水の様ナものゝ有る処を通つたが其処で英人の妻の仏人と話が始まりました ツールトとか云て泥見た様ナもので日ニほして薪の代用ニするものを取る 重ニ貧民の用ゆる所也云々 弁ぜつたくましく論した 其外ニハ本当の英人夫妻 年の頃五十計 此奴等ハ真ニ英人さ 前向ニ座て居たが気車の着少し前ニ何ニやらたつた一と言云ひカわした計 ブローニユニ着くと船会社から人が来て居たので其者共ニ荷物の切符を渡し只傘と杖と持た計りで奇妙な宿引を引連れて町見物ニ出懸く 先づ宿屋ニ傘かくしニ入レテ置た小説をあつけ波止場に行く 船ニハ今夜の十一時半頃ニ来いと云事だから此の方ハ安心 波止場ニ行着くとなんだ夕立と云次第 波止場の中頃ニ在る御休家と云様ナ茶見世に立寄る 雷が鳴るやら大雨さ 此の雨を幸手紙ヲ少シ書く オレハ全体亜米利加の銭がもう直ニ入るだろうから少シ(半分以上)銭を替へさせなくつちやなるめへと案内ニ相談して見ると銀行ニ連れて行くと云 其処で少々小降ニ為た時をうかがひ茶屋を出るとザアザアと来て走り出シテ税関の出張所と云様ナ処の門ニしばし雨宿 又小降ニ出ると又大雨 又雨宿 とうとう鉄道馬車ニ飛ビ乗り銀行ニ行着く 百仏丈銭を替へた 皆札でよこした 亜米利加ニハ日本の様ニ紙幣流行と見ゆ 此の銀行から出様とした時の雨ハ盛さ しのをつくとハ此事なるべし 向の辻の坂の様ニ為た処ニ川が出来鉄道馬車ハ通らなく為て仕舞ヒ上つた オレ様なんか傘がネえので大困り 又走つたり雨宿したりして近所の酒屋に立寄しばし休息 それからとうとう雨が晴れたので宿屋に帰る 時に六時頃だつたか それから又手紙書を始た さて夜のめしハ先づ上等 独りで食たから中々愉快 食後ニハ又手紙ヲ書た 郵便切手と状ぶくろを買に煙草屋に行たら驚た すてきな美人がへい入らつしやいましと云訳 アヽブローニユと云処中々以テ馬鹿ニならぬ処だぞと思た 十一時半の乗込と云のだから時が少し有り過る体だ 此の方が急ぐのよりいくらいゝかしれない あつちこつち港の辺をぶら付 時を計つて宿屋ニ帰り案内者を連て船付場ニ行く オレ様の御召船ハ御値段がお安い丈植民を連て行舟だそうだ 道理でさつき種々さつたな出立をした連中が大きな包などしよつたり頭の上ニのせるやらして町を通つたのハオレ様の御伴の者共なりと知られたり 其一隊が船附場の待合所ニ一杯這入込で居上るわい アゝどうも変ナ心持ちにならせ腐る 住なれし国を打すてゝ又生て帰るか帰らぬか知れない旅ニ行く どんな考をして居上るだろう ナンタ若い者共は雑談なんかして居て苦のネへ野郎共だ いよいよ乗込ヲ始めたのハ十二時過ニ為た 先づ伴廻りから乗せ上ら 世話人の奴等がヒツチかるやらなニやら丸で毛だもの同然ナ取あつかいをする 十九世紀で文明とかなんとかかんとか立派ナ様ナ事を云て居る世界ニハ珍らしい 人間同等の権理なんかんて御ふざけハいやですよと云議論ヲ実行して見せて呉れ様ナものさ 移住者の人種は三四種ごたませ也 伊太利人と渋色のアルメニヤ辺の者共が多い様だつた 総勢で百八十人とか聞く 其奴等が乗り込んでから上等中等の御客が乗た さて其乗た舟ハ小蒸気ではしけ舟也 岸から本船迄十五分位懸つた 本船ニ乗り移る時ニハオレなんかが先で移住者が次也 這入口ニ船の御医者が立て居男でも女でも子供でも赤んぼでも皆一々頭を検査シテから通す 頭がはげた様ニシテ出来者でも有りハしないかと思ハれる様ナものハ別にして置て皆とまぜず 之レがすんでから荷物積が始まつた なんでも舟の出たのハ二時頃だつた どうもねる気が無かつたからかんばんをぶら付て居たら夜がほのぼのと明て来た