本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1893(明治26) 年6月23日

 六月二十三日 (船中日記) 昨日から海が余程静ニ為たが今朝見ると又一層おだやかだ 空ハ曇つて居るが気候ハ余程暖か也 甲板で伊太利ニ逢つたら今朝ニユーヨルクから飛脚がついた 之レハ去る十七日とかの新聞だと云て新聞を持て居た 此の野郎又雑談をぬかし上るべらぼうめ 此の広い海ニ飛脚が来るもんかとハ思つたが不思議なのハ今迄見た事の無い男が一人ぶらりとして居るのだ 夫レカラ何ニか用が有つて下ニ下りたら僕長に出逢ひ奴が云ふのニ今朝ニユーヨルクから水先見が来たが知つてるかと 其処で始めて前の事が本当だと分つた ハテナ此の水先見がこんな遠方迄出懸て来るのハどう云訳だろうか 全体何の必用が有るのかナ 何処ニ船が着ときもこんなものか知らん 今迄ハ知らなかつたわい 今日ハまあ終日あの番附の入画の為に暮したと云てもいゝ位だ 総で四枚かいた 之レで沢山さ ナアニ四枚ぢやなかつた五枚さ 但シ其内一枚ハやぶかれて仕舞た 之レニハ面白い事が有るのハ食堂でも又寝部屋でもオレの隣ニ居る仏人と称する田舎者のフアラと居奴が此間アイスクリムを非常ニ食ひ上つて病気ニ為たのだ 船中の大笑と為たのさ 其レと云のも其野郎が真の馬鹿すくだからの事 処で今度の入画でオレが其奴がアイスクリムを食ふとしてよだれをたらして居る処の画をかいたのさ 其レヲ見て非常ニ怒り上つてとうとう引破て仕舞上つた オレも怒てやろうかと一寸思つたがいや馬鹿ニ対しておこるのハ猶馬鹿だと思ヒ直しアレキサンダーと笑て仕舞つた 何ニしろ此のフアラと居奴ハ余程ぬけて居るがマア聞いてくんなせへ 今夜の寄芝居の番附を見腐つて仏蘭西の国歌が書てネへと云て不平て居上ら ナアーンダ世界中どこでも仏蘭西の国歌計り歌ふもんかべらぼうめ 和蘭陀の船ニ乗て米利堅国へ行のだと云事を忘れたのか とんまめ 夜食後船の鼻ニ出てアレキサンダーと将来の事などを談ず どうしても成る可く早く再ビ巴里ニ出て来ると云が二人の考の極のつまり也 もう狂言が始まると云て黒ん坊が呼ニ来た 其内ニアレキサンダーハ二等ニ居る仏人のめすをとつゝかまへて話を始めた オレは無拠音楽を聞ニ下ニ下りて行く 丁度一度目の奴が仕舞て引込む処だつた 此の狂言中で一番面白かつたのハ和蘭陀人のブークルマンと云奴の笛だつた 一番体屈さしたのハスイス国の政府からシカゴの博覧会ニ送られて行と云六十計の丈夫ナ老人が独逸語での演説さ なニをぬかしたのかさつぱり分らなかつたもんだから非常ニながたらしくくだらネへ事をぬかした様ニ思ハれたが分つて見たらまさかそうでもなかつたろう 言葉の分らネへと云と人の相場がはつきりとしネへから一番困るわい 此間から一緒ニ遊だりなんかする和蘭陀国の若い衆がオレをよんでシヤンパンを一杯振る舞つた 其人の一人がおれが入画した番附ヲ以テ居上つて是非記名して呉れと云ので記念の為ニ名を記し置きぬ 十時半頃ニ狂言が仕舞ニ為て和蘭陀国の例の小僧と甲板を散歩す アレキサンダーハ未だあの女と話して居るわい なアーんだくだらネへ 寝言をまじめで聞て居るより甲板のすゝしい処で女と話しでもして居た方がいくらましだか知れハしネへや

1893(明治26) 年6月24日

 六月二十四日 (船中日記) 今朝いつもの様ニ起しの鐘をならしながらナンダカ変な事を大声で呼ビ上て通つたが何の事とも別らなかつたがあとで聞てみれバナントか云島が見ゆると云たのだつたそうだ 島ハともかくも食堂ニ船中で買入れた酒の書出シがチヤーンと控へて居た オレ様ハ仏蘭西ヲ出てから此の方と云ものハめしの時など水計で通して居るが此の書出しの酒ハ三等の貧乏者共へ呉てやる為ニ取たのだ 十二時少シ前ニ為て右の方ニ始めて地方が見へて来た 之レハニユーヨルクの入口ニ有る長島と云のだそうだ 即ちあの名高い世界一と云ブロークリン橋ハ此の島とニユーヨルクとの間ニ懸つて居るとの事 昨夜ネる前ハなんだか霧雨が降而居たが今日ハ立派ナお天気さ ニユーヨルクニ乗り込むのニ至極結構ナ事也 面白面白米利堅のお娘さん方ハ小躍をして居るハ オレ様ハ地が見へるかそうかナと云丈で心持ハうれしくもかなしくも屁のヘツかす なんともネへや だが横浜近くニ為たりと来た時ニハ少シハ妙な心持がするだろうと思う かへすがへすも奇ナのハ下等の奴等だ もう直ニ着くと云のできたないなりニめかし上つた アツシリヤの奴など日本流のしやれをしたのなんか居るわい 国流の襟ニ洋服の上衣 それニ丸帽とハ出かした 中等の奴なんかも大抵(以下欠)

1893(明治26) 年7月1日

 七月一日 (ニューヨーク日記) 此の前の土曜日の晩ニニユーヨルクニ着て今日迄丁度一週間の滞在ニ為た 牛窪さんのおかげて大層面白く暮した 村の親爺も遊で居るので奴の案内で方々見物した 又奴のおかげて日本めしハいやニなる程食た どうも中々心深な男さ 其御礼ニお梅さんなんかと附合てカルタ打なんかやるのハ一切やめるがよかろうなど云ヒ度もない事を奴の為と云ので云て来た 之レハ一つハ牛窪さんからの頼も有つたからの事さ 今日も亦お昼の御膳を親爺の処で御馳走ニ為た 夫レゆつくりとして五時半頃ニ立つた 牛窪君ハ勿論親爺親子三人連で停車場迄送て来て呉れた 夫レカラお餞別ニ親爺が何ニか紙ニ包だものを二つ呉れた 今朝島村さんと治郎先生の処ニ別れニ行た 治郎さんニ貧がオレニ餞別ニ呉れた画ヲ以テ行て見せたら大変よろこんだ 島村さんの処ニハ今度ハたつた一二度行た お神さんが出来たり子が出来たりしたもんだから以前の様ニ気兼なくする事ハ出来なく為て仕舞た 何と云ても前ニあんなニ度々御厄介ニ為た事などもあるのだから今度オレのかいた画の写真を持て来て居るのを幸一枚記念の為ニ昨日持て行て上た 牛窪さんニも一枚上て置た 島村さんが気車の都合などを書記の関さんニ頼でいろいろしらべて被下た 今日行たら又サンフランシスコトバンクーバーとの飛脚船の出る日やら着日又船のよしあしなど教へてくださつた 之レで少し旅の方角がついた様だ 又新二郎ニ出す電信文の下書も書いてくださつた 新育で受取た手紙ハ新二郎からのが一通 之レハ領事館で受取る 夫レから巴里のミラスの妻から一通 之レハ牛窪さんの見世に領事館から送て来たのを牛窪さんが其日の夕方渡してくださつた ナンダあの船が新育の向の陸ニごつとりと着た時ニ色々な人が沢山迎ニ来て居る 其中ニ牛窪さんの顔が見へたのハ何よりうれしかつた 新育ナラバ先づともかくも新育のズーツト左の(海から向つて)方の川向だからどうして新育ニ行事が出来るだろうかと一寸心配ニ為たのさ どうもオレハ気が小さいのか知らネへが独旅ハつまらネへ事ニ心配するから困る 実際言葉の能ク通ぜぬ処でハ気が何となくせまくなるわい 久米公が居たらと思ふ事が幾度も有る 牛窪さんニ久米公からオレが新育ニ行と云事が前以て云てやつて有つたのだつたが全体オレの乗た船ハ十七日ニ出る筈のが十四日ニ為りおまけニオレからハなんとも牛窪さんの方へハ云てやつてないのだから態々迎ニ来て居てくださる事とハ思ハなかつた 久米から牛窪さんへやつた手紙ニハ船の名ハ間違て居る上只いつ出ると計で何処の会社の舟とも無いので見付けるのニ大層骨が折れたそうだ 先ツ多分此の船だろうと云ので其船が見へ次第ニ電信ヲよこして呉れと港の極はずれニ有る一番先きニ入船の見ゆる処の電(以下欠)

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