1893(明治26) 年6月16日


 六月十六日 (船中日記)
 今日ハ曇りだ 舟もたてニ上つたり下つたり 段々へどヲはく奴等が多くなつてきた 下等の奴等ハ大抵皆やつゝけて仕舞板の間ニ女子供皆ごたまぜニごろねだ 此の船は日本通の仏船とハ違つて上等ハ船の中央だからたてゆれの時ニハ余程ゆれが少ない 夫レニ引かへ下等ハ頭とけつだからむちやにゆすぐられる おまけニ食ヒ物が悪いのだものを なんだかパンににしんの干物の様を食て居る たまるもんか 下等のかんぱんハ下で上等のハ上だ 中等の甲板ハ矢張上等の続だけれども垣がこしらへて有つて上等の処ニハ来る事ハ出来ない 上等の奴ハどこニでも行ける 仕合仕合 オレなんか巴里で支那人と云ハれて閉口して肩幅狭く暮し付ケテ居たのだから殿様ニ為た心地で大威張 ゆうべ夜中の内ニ袖が浦ハ通り過て仕舞て今日ハ大西洋 波が有ると云のぢやネへが何分ニも波が大きいから舟ハひよこ付てる 上等奴等も段々べとをはき始めた 晩めしニハ余程人数がへつた オレが船ニ弱いくせニなんとも無いのは不思議でならない めしなんかゞ非常ニうまいぜ 九年間西洋食で体が前より丈夫ニ為たのかナ 夫レとも酒をのみならつてお酒でへどをはいた事なんかゞ有るから容易ニ胸が悪クならないのか知らんて 酒で思ヒ出シタ 此の船ハ米利堅流で食事ニ酒は無い 水計だ 酒の飲み度い奴ハ葡萄酒でも麦酒でも別ニあつらへて取るのだ オレ様ハ御倹約でお冷ヲめし上る 船中でのオレの楽しみハ下等の奴等のごたネの様を見るのだ あワれ至極 むかしの戦争のあとか又飢きん年とでも云ヒそうナざまだ いごけない様ニいき付て居るおつかさんの母をさぐつて居る赤子があるとかとみれバ又其わきニげろをまくらニして目をぎたつと見出シテ青ざめて居る小僧も有り 此の者共ハ総てゞ七百五十人計だそうだ ホロニユの猶太人が一番多いそうだ 其他伊太利人アツシリヤ人等也 仏人も少シハ居るとの事 大抵荷もなニも持たず只打被のまゝの者が多いそうだ 気楽ナ連中也 上等の客ハ四十人だ 中等ハ四十五人 中等の中ニハ随分下等ナ人間が多い様ニ見ゆ 今日夕方に一人の亜米利加人が話ヲしかけた 此の男仏語ハ出来ない よんどころなくイエスと云しやれ久米公ニオレの得意ナ処ヲ見せてやり度いナ 其米人ハ独逸で音楽の修業をしたのだそうだ 直ニ其奴の知人の女ニ引合した 其女も伯林からの帰りだそうだが仏語を一と通り話すので先づ訳は解る ブーロニユニ此の船ニ乗る時ニ若い二十五六の男が独り乗た やせぎすの色黒 寧ロ黒より黄ろの方 まあ誰れかれと云より久米公の種類だ どうもどこかで見た奴ニ違ヒないと思つて居る内ニどう云ピウシかで話が始まり聞て見ると此の男ハオレが暮村で先年知り合ヒ一緒ニ水浴びなど幾度もしたカナダ国の画師キヨユルンの友人でいつか暮村ニ来た事も有り又キヨユルンから暮ニ居た黒田と云奴の事ヲ兼て聞て居るとの事 道理で見た様ナ奴だとオレが思つたのよ 処でハゝアそうかと云て直ニ知り合ニ為た アヽ河北の女博士ニ聞度い事が出来て来た 舟がこんなニ非常ニゆれる時ニともかはなかに立て居て見ろ キユーツと高くなる時ハいゝがシユーンと下る時ニハからだ丸で浮様でへその下の辺から金玉の根の方迄こそぐつたいような変な心地がするぢやネへか 之レから先が問題だ なんと女もこんな心地がするかナアー 金玉がなかつたらこんな心地ハしないだろう それとも和郎の説ニ依て女ハ男ニ金玉のはへそこなつたのだとして見れバアノ手や足を切てのけた人が寒い時など無くなつた手の先や足の先が寒いと云様ニなく為た金玉がこそぐつたくなるかも知れぬ 分らネへや