1905(明治38) 年1月7日

昼頃に小代来訪。午後矢来町に正木氏を尋ねて去年辞令を貰つた礼を述べる。通俗補修教育に関するドキュマンを見る。飜訳をやつてくれないかというやうな口振りであつたが応ぜずに置いた。夜麻布亭柳派のはなしをきく。

1905(明治38) 年1月8日

午前十番から飯倉まで歩いた。昼少し前に竹沢来訪。後佐野小代も来集。久し振りで面白かつた。晩飯は丼飯で例の如し。十一時半過に解散した。昨日来バルチック艦隊旗艦沈没同艦隊廻航の報伝はる。多分事実なるべし。

1905(明治38) 年1月9日

一月の休みも別段何も出来ずに愈々今日限りとなり、明日からは又々機械のやうになつて働かねばならぬので色々仕度をする。又昨日小原からせつゝかれたソルボンヌの絵の説明書を認める。三時こまに迫られて飯倉に行つてドテラの裏絹を求める。夫から山内より電車で散髪屋に出掛け帰りには歩いて戻つた。夜なべには明日の支度にかゝる。

1905(明治38) 年1月10日

今日より二ヶ所の学校始まり朝九時半に高等商業学校の稽古は平日の通りになす。午後美術学校の方は一時間斗やつてやめた。カルデヤ彫刻総論を講ず。夜小原来ソルボンヌ壁画解説を渡す。松方氏より電話かゝり話に行く。

1905(明治38) 年1月11日

一ツ橋では専攻部は総欠席であつた。昼は宝亭にて食事す。解剖は骨盤の完形だけやる後校長の所に松田という人が尋ねて来た。是は開国五十年史の編纂者で早稲田伯から催促にやられたのである。今月中位に纏める事を正木が引受けたので助かる。夜小泉来訪小代も来た。翁は景気で大喜びであつた。

1905(明治38) 年1月13日

朝八時半に本郷に行つた。洋画科の生徒で来たのは僅か八人であつた。十時過に終り一度帰宅し再び一ツ橋に赴く。今日牛荘敵襲の公報伝はる。併し大なる損害なくして撃退したる由。旅順降伏の結果英国市場に於ける本邦公債の好況を現はし開戦当時六十二三磅なりし四分利公債は七十七磅以上の価を生じた。此影響により日本の株式相場も其価を維持する有様なり。三月限九鉄の直段は五六・六〇である。

1905(明治38) 年1月14日

今日は人力で一ツ橋に出掛け十一時過に帰宅す。越後生れの下女たのというのが国元から電報が来て暇を乞ふて帰る。跡は下女なして二日間過す。四時竹沢来り佐野を誘ひ三田今福に食事に行く。小泉小代は先きに待つて居た。今夜は竹沢が愈出発する事になつたので送別の意味を以て会食を発起したのであつた。六時過になり黒田と合田も会したので総勢七人となつた。中々賑やかである。併し余り大勢過ぎで面白い話もなかつた食事。合田佐野黒田と分れて跡の連中は皆やつて来て第二次会も盛んである。今夜は小父さん万歳である。

1905(明治38) 年1月15日

朝九時過より目黒に出掛る。父上はお休み中である。少々鼻加答児の気味で沙河軍と同様防禦手段を取るとの事である。豚煮しめにビールの御馳走になる。昼過きになり曹洞宗大学林の生徒が演説を依頼に来たのを相手に講釈が始まつた。三時過に立出でた。其前よねが表のばあさんが近頃不埒の所業がある次第を聞く。そんな風ては到底だめであらうと答へて置いた。帰宅後校友会月報の原稿を書いた。

1905(明治38) 年1月17日

今日は朝八時から稽古に廻り上野は三時過ぎに終つた。昨今の新聞には長崎に到著して居る旅順降将の話が記されて居る。ステッセルは丁度今日仏国の便船に乗込む筈である。此三週間斗りの間は日記を御不沙汰した。勿論前の一週は風の心地で休んで居たので出来事は少ない。然るに此間に世の中は大活動をやつて僅かに三週日の経過で天下の形勢一変したやうな姿である。即ち露国内の擾乱及び沙河左翼黒溝台附近の会戦の二大事件が生じたのであつて露国の不利益の位置たる事が愈々明らかになつて来た。依て此大切な時期の事を漏すのも残念であるから記臆をたどつて書いて見ようと思ふ。

1905(明治38) 年1月19日

今朝一ツ橋は休んだ。九時頃より電車で本郷にいつて大学に立寄り屍体の様子を見て夫から上野に廻る。夜北蓮が来て愈々戦地に出発するといつた。それについて芳翠のために二百円斗会から具面をしたいというのであつたが今手元に金はないから長原の方から引出さなければならぬので黒田の方に掛け合つてくれといつて断はつた。

1905(明治38) 年1月20日

八時より医科大学に赴く。前週の屍体が保存されてあつた。上下肢後側筋を見る。十時に終り、一旦帰宅し後一ツ橋に出掛る。前日より鼻加答児より喉頭に風邪がはいつて気分が悪いから早寝をする積りで居ると磯谷が来り芳翠の金の一件を相談して帰ると其後に又黒田が来た。結局断はる方針を取る事にきめた。

1905(明治38) 年1月21日

朝の稽古が済んで午後は床を引いて寝て居ると金子薫園という歌人が先日来屡々手紙をよこして居たのがついに例の画帖を持参でやつて来た。一時間斗話して帰つた。夜は早寝をする。熱が少々あるやうであつた。

1905(明治38) 年1月22日

今日は日曜で一日休んだが大して悪くもならない。夜は昨日より気分はいゝ方である。聖波得堡の擾乱の報続々発表せらる。冬宮の榴弾射撃に始まり皇帝の避難、コサック兵は発砲して数千の死傷を生じ、騒乱全国に蔓延せんとする形勢に見へる。之が為めに露債は大下落。巴里にて一時八十六法を報するに至り其反動として我公債の暴騰を示し六分利は百磅を超過し、四分利八十磅を告るに至り兜町の市況も之れに促されて日々株式の騰昂をなし九鉄の如きも先限の最高価は六十円にも昇らんとす。実に愉快なる現象であつたが露国の罷工騒きは一時鎮圧に終りたるも全国不穏の状態は依然として変ぜず。之が為め財政の大困難を生すべきは勿論であつて戦争の結末も略々判断せらるゝというは目下世界の識者の胸中なるが如し。〔欄外に「相良邸宿舎の兵出発す。」〕

1905(明治38) 年1月26日

一ツ橋より上野に赴く途中、医科大学に立寄る。今週は屍体が来ないので休む事になつた。其方が都合がよいのである。午後其事を生徒に話す。夜佐野来る。

1905(明治38) 年1月27日

午後は一ツ橋三時半帰宅入浴。五時から佐野を尋ね花園橋より電車で小川町まで行く。今夜は竹沢の御馳走で支那料理を喰う。招待者は杉、黒田、合田など一緒で一昨年の御猟場一件についての御馳走である。中々甘いが沢山でやりきれない。小父さんが病気で来なかつたのは残念至極である。十時過に解散。

1905(明治38) 年1月28日

午後は高等商業学校彩友会の談話会を午後二時半より教員室で催す。天気がわるいからやめようと思つたが、少し明るくなつて来たから人力で出掛け佐野に絵はがきのアルボムを借りて持つて行つて見せた。異人連は大概来て居た。茶の席の英語演説は余り感服しなかつた。五時頃に帰宅す。夜和田が債券を持参した。鹿子木攻撃の文章を書いた事を話す。外に画かきの唯奉公は避ける事を注意す。たしか今朝富士郡の新下女が来たと思ふ。

1905(明治38) 年1月29日

午前会員流用金の調査をした。午後二時過き佐野が来て共に小代の病気見舞に行つた処が丁度小泉翁がやつて来て居る。夫から一緒になつて此頃発見された赤羽橋先きのてんぷらを喰ひに行く。こまも同道した。坐敷は一寸いゝが大して甘くはない。飯を待たされて大閉口夫から門先に出ると例の目まいが始まり通りかゝりの人力をつかまへてやつと無事に帰宅した。間もなく二人も来て始まつた。佐野が大景気遂に二時過に及んだ。

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