1904(明治37) 年12月18日

朝金次郎餅米を取りに来た。午後早稲田大隈伯に参る。丁度昼飯後で秀島家良を相手に碁を打つて居た処で側には武富時敏と他に一人の政治屋が控へて居る。此連中は間もなく行つてしまつて跡は秀島丈になつた。先生は碁盤に向ひながら時々美術史の話があつた。其内に田原良純が来てアセトン語から時局談になり、英国は三年間の南阿戦争で二十何億の金を費したが日本で二億の金を費した程も響いて居ない。今度の戦争も無論二十億以上は遣ふ事を覚悟しなければならないが其埋合せは決して償金などを当てにするやうではいけない。是から国民が一生懸命に働いて製造業の発達によりて働き出さなければならない、といふ至極元気なお説で今日の大隈伯程に大きく見へた事は今までになかつたと思ふ。伯爵夫人は不相変此中をピラピラと動いて居られる。別段御挨拶申上けるやうな話しの種はなく此間の怪我の話位一寸やつた。三時にまんぢうのお汁粉を御馳走になり何れ一件は正木と相談するといつて御免を蒙つた。四時過帰宅。夕方小代来る。まぐろのさし身で一杯やる。後佐野もやつて来た。歳末の旅行は伊東という事に大概極つた。

1904(明治37) 年12月19日

今朝一ツ橋に出掛けたが一年四五の組には誰も居らず。全くのむだ足となる。それから上野へ廻り大隈伯の話をする。其内に行つてもいゝというので其儘帰宅、午後目黒に行く。父上は御留守、何か用事でもあるのかと思つたら来廿一日に刑事裁判所より呼び出しがあつたのでよねが大恐慌を起した訳であつた。四時半過に父上帰宅。たゝき肉の西洋料理を御馳走になり八時過に帰る。

1904(明治37) 年12月20日

今日は高商学校で予科の合同試験を行ふ。書取及び発音符の題を出す。十時に終る。一年の学生は居らぬ様子であるからむだに待たずに上野に行つてしまつた。講義を終つてから校長室に行つたら西尾が来て居た。

1904(明治37) 年12月21日

今朝もむだ足と知りつゝ一ツ橋に出懸けたが専攻部も総欠席で少々火鉢にあたつて上野に廻る。モー此学校に来るのも今日限りのやうなもんであるのにお手当の事は何とも聞かないのは少々困つた事である。併し此間の校長の約束もあるから何とかしてくれるだろふとは思ふがマサカ此上催促も出来ず閉口。美術学校で電話をかけて早稲田の会合を此土曜日と取きめた。今日解剖最終講義骨盤靭帯に至る。夜こまと神田の年の市を見に行く。今夜は十五日夜の月で余り寒くもなく上等である。併し市は電車の為に追出されて至極不景気であつた。餅網を一つ買つた丈で九時過に帰宅す。

1904(明治37) 年12月22日

今朝黒田の処へ行つて大隈伯より伝言の事を話す。十一時から上野に廻る。解剖二年は顔面部を終つた。午後小雨降り出したので無余儀自転車を置いて電車で帰つた。

1904(明治37) 年12月23日

今朝は元気になりたる故上野に自転車を取りに行く。給金を受取つて帰る積りであつたがまだ用意が出来す引返したが途中にて合田に出逢ひ受取方を依頼す。午後目黒に出掛け明日早稲田に行く事を話した。父上は裁判所一件で来られぬとの事であつた。夜佐野小代来。合田が学校の金を持つて来て呉れた。依て約束の流用金五拾円渡す。今日高商学校より辞令書受取る。

1904(明治37) 年12月24日

朝九時より出掛け一ツ橋学校に立寄り松崎校長に面会賞与金の礼を述べ十時半頃早稲田に赴く途中にて正木氏に出逢ひ同行す。黒田は先着にて待つて居た。三浦梧楼外一名のお客ありしが間もなく帰り、跡は美術論になり一国の品位上美術保護政策の必要ある理由を校長が得意に論じたのはよかつた。昼飯御馳走後五十年史の事は愈正木が引受けるやうになり、先々世話のがれである。二時半に話は済んで後庭園を一周した。鶏舎の工事中であつた。正木黒田に別れて後中野礼四郎宅を訪ぬ。同人の父病気中にて見舞を述る。帰りは小代と一緒になり四時半帰宅。夜七時頃からこま及彬をつれて愛宕の市を散歩し台所の道具色々求める。天気で人出は中々盛んである。桶や箒を持つて九時半過帰る。

1904(明治37) 年12月25日

朝九時より前日よりの約束でこまと買物に出掛る。大門から電車に乗り日本橋白木屋の陳列場を見て十円斗色々の反物を買入れ、夫から浅草橋香取屋にて下駄を求め再び街鉄の電車に乗り神田に向ふ途中停電にて二十分斗待たさる。須田町向ひの呉服屋にて買物をなし東電にて新橋の方に下り天金に入る。不相変楼上立錐の地なし。午後二時過に帰宅す。夜佐野小代来。歳末の旅行先は愈伊東と極る。

1904(明治37) 年12月26日

十一時過より電車にて一ツ橋学校に出掛け手当金300受取る。夫より外濠線電車に乗り日本橋丁酉支店に廻り約束手形の書換を済す。鬼塚氏が居て例の掛物類を色々見せる。田崎草雲の鶴の画七拾五円にて売物になつて居る由、余り感服せず。寧ろ在中の蓬莱山を取らんとする氏の考に同意す。彼是手間取りて遅くなり、夫より銀座の煙草屋にて葉巻一函を求め又亀屋でウヰスキー一本買入れ小泉氏の会社に尋ねて錫蘭茶のお礼にやる。夫から日影町の唐物屋にても買物をなし四時少し前に帰宅。五時に佐野が来て今福に晩飯に行く。小代菊地も会した。帰りに飯倉の通りをひやかし小父さんは風月堂でチョコレート・クリームを買つて来る。夫から一同来会十一時に散ず。今日目黒より菊次郎餅を持参した。

1904(明治37) 年12月27日

朝九時より目黒に赴く。父上はお休みなりしが別に病気にてはないとの事。今日は勘定を済した。昼飯にはたゝき肉の御馳走になる。父上は例年の風引も起らず、明日より房州東海岸に避寒に出発との事で先々結構である。二時頃に帰宅す。五時頃黒田来訪。今日は墓参に廻つたといつた。暫時にて帰る。夜佐野小代来、愈廿九日夜船にて出発と確定。

1904(明治37) 年12月28日

午前上野に出掛け校長に面会す。後会計掛より国庫債券仮証券を受取る。岡田藤島小林の分も受取つた。帰りに小川町に廻り文房堂にて水彩顔料を買入れ、又松村という靴屋で編上けを一足四・七〇にて求め十二時半過帰宅す。午後糸川正鉄を芝新堀町に訪問する。此間から二度斗留守中に尋ねて来た故何か用事であるのかと思つたが別に話もなかった。マターム糸川は玄関に出て来た。成る程細しやくれた様子であるが議論は承らなかつた。留守中美術学校より昇級の辞令を持たして来た。夜磯谷来り伊東へ同行を約す。後竹沢来り十時半まで話す。

1904(明治37) 年12月29日

朝九時半和田来訪。流用金殆んと無条件の消却を承諾す。十時より宮城及青山御所年末祝儀に出掛けた。午後西ノ久保でビスケットを買つて田中氏へお歳暮に行く。丁度竹野老人と執行の細君とが来て居る所で暫時話して帰る。菊地が五時までに来て同行する約束で支度をして待つたが来らず。段々時間が迫つたので終に佐野の処に出掛け二人で出立する。山門前より街鉄の車に乗り七時前に霊岸島に行つた。小代及磯ケ谷兄弟は既に来りて待合して居た。マダ時間があるので近所の蕎麦屋で腹をこしらへ七時半少し廻つた頃にはしけに乗込み石川島の岸にかゝつて居る伊豆行の船に移る。乗客は随分多数舳の左側の棚のやうな処に陣取る。小父さんは犬の世話で中々手間取る。凡八時半か九時頃になつてソロソロ動き出した。寒天で外には出られず乗り込んだ儘でジツトして居た。隣には伊東の者だという商人と大島に帰る書生とが話をして居る。頭を伸せば船側につかへる足を出せば手摺りの外にブラ下がるという究屈な場処で眠らんとするも睡られずウトウトとして一夜を過した。唯人ごみのために暖かであるのと海が至極静穏なるとは大に仕合せであつた。

1904(明治37) 年12月30日

未明に熱海に着。はしけを待ち一時間余浪にゆられて待つて居るのは余りいゝ心持ではなかつた。六時間半頃に漸く発船し網代にて又々手間取り八時半頃に伊東に着いた。松原行のはしけに乗り無事着岸、佐野が聞いて来た元猪々戸の武智という温泉宿を尋ねて行き此家に投宿。至極古ぼけた汚ない処であるが相客の少ないのは先々仕合せ。早速入浴したが湯場は広くてこみ合はないから極上等である。食事後小父さんが早速近処を探検に出懸けるというので一同之に随行する。前の田圃で忽ち鶉が一羽飛び出したのを仕留めたのは中々のお手際であつた。河岸の辺を歩して新道を昇り山手の方を一ト廻りしたが別に獲物はなく蜜柑畑のある暖かな処まで行つて引返し下たの道に出る処で第二の鶉が取れた。是れ丈の散歩に二ツの鳥が取れたのは先々上首尾と祝して二時頃に宿に帰る。工学士の滋賀という人が同じ家に泊つて居て佐野に挨拶に来り後にも時々話しに来た。同氏は工業学校に出て居るとの事。同行の筈であつた菊地は昨日小代に手紙をやつて今日汽車で来るというので国府津の船の来るのを待つために、四時頃から磯的及佐野と共に伊東の船著場に迎へに行つた処が中々船は見へない。五時過になつても来ないので事務所に手紙を残して引返す。西風がビユービユー吹いて溜らない。駆け足で帰つて来た。宿で晩飯をしまつた頃に菊地が着いて来た。今日は歳暮で荷物が多いので二時間程遅くなつたという事。併し先々是れで約束の人数が揃つて大に勢が出る。食後少々話して後今朝の疲労があるので九時過に寝る。

1904(明治37) 年12月31日

小父さんは早飯で狩に出掛ける。跡は四人。朝飯後厄払ひを始める。直の厄払ひは菊地一人であつた。午後皆んなが写生に出掛けるというので一緒に出て見たが西風が吹いて落附けるやうな場処を見出さず、裏の山脇をあちこちさまよひ遂に少々雨が落ちて来たので、其儘に宿に戻つた。佐野は河の辺にて我慢をしてかきかけたが、それも成功せずしてふるへて帰つて来た。五時過に小代雉一羽と小鳥を少々担いて帰つて来た。夜食後小父さんは疲れて早く寝てしまひ、跡は四人でブツ叩く。鋳さんは不相変敗北である。十一時頃入浴暖まつて休む。今日の新聞で松樹山占領の報を見る。又東京では昨日東郷大将の凱旋で大騒ぎであつたという。某新聞の如きは此日を東郷デーと名附けて居る。〔欄外に「夜食には牛肉を注文して大失敗であつた。」〕 明治三十七年は斯の如くにして終つた。六月以来今にも落ちると信じて居た旅順は遂に落ちる斗りになつても全く落ちるに至らず年は暮れてしまつた。勿論歳月は人為の目割りであつて何も新年となつて改まる事はない。人の生活に境目のあるべき筈はなければ此日記も紙数の残る限り続けるのである。そこで是からは、

1905(明治38) 年1月1日

昨夜は雨空になつたが今朝の風で雨は散じ晴天になつた。小父さんも宵の空相が悪かつたので早出は断念して一同と共に雑煮を喰べて九時頃から狸と命名された猟師を連れて出掛けた。朝の風は止んで誠に朗らかになつた。丁度一昨年興津でやつた元旦のやうであるが、宿屋がお粗末であるからあれ程いゝ気持はしない。午前は滋賀君が話しに来て明日出発するといつた。正月で国府津行の船は出ないから東京行の船で熱海まで行くといつて居る。午後は窓より見た景色を水彩で写生した。菊地は浜辺に行つて船の画をかいて来た。さて小代の帰りが遅いから今日は風もなし大猟に相違ないと噂をしたが五時過に帰つて来て大に不満足の姿で雉子を二羽に小鳥を幾つか提げて来た。此処は愈だめであるという事に極つた。夜食には烏賊の酢味噌が出た。一体海辺の地でありながら肴のない事は船原よりも甚だしい位である。それも家によるのかも知れない。食後は大なる勝敗を決する筈であつたが滋賀氏が話しに来り磯谷が得意の話となつて埒が明かないから島油を買ふといつて菊地、佐野と三人で外に出て船場まで歩し、明日出船の時刻を確かめたる、十二時であるといつた。夫から橋の側まで行つて島宿を尋ねたるに油はないと聞いて引返し、宿屋の近所の林屋という処で油及ふのりを買入れ七時半頃宿に帰り、夫から今夜は総勢五人で団坐をなす。菊地は相分らず不印で全体では大分の背負ひ込みとなる。一時頃までかゝつて夫から入浴して臥す。

1905(明治38) 年1月2日

今朝は八時に一同起き立つ。船の都合がわるくて明日此処を立つては冲も東京まで帰り着く事は六ケ敷というので今日の船に乗る事にした。滋賀先生は船では覚束ないから陸を大仁に山越する由。兎に角帰りの支度を整へ勘定も済した。六人の総勘定僅かに十四円八十何銭というのであつた。茶代は積金にて家に三円女中に一円やつた。十一時餅で腹をこしらへやがて宿を出る。船場に至りて聞けば今日は船が損じたとかで出ないというのである。案の如く予定のプログラムは一変せざるを得ない。そこで断然熱海まで陸行する事に一同賛成し茶屋で人足を雇ひ、荷物をかつがせる。熱海まで一円の約束である。若し余り骨が折れるやうなら網代で泊るというので其支度をなし、磯谷兄弟に分れて十二時に歩き出した。小父さんは銃を肩にして途中を打ちながら歩こうという訳で出発する。海辺の眺望の良い暖かい道を尻端折りして歩く心地は中々わるくない。意外な事で此愉快な気持を儲け得たのである。伊東から一里で宇佐美という村は伊東よりも却て面白い処である。此村の鎮守の森で小父さんは小鳥を二羽射留めた。夫より山道にかゝつてだんだん登つて行く途中には裏白の沢山生へた藪を通る。峠の上の茶屋にて一ト休みする。亭主は猟師て今も兎を料理して居るのであつた。小父さんが此辺に鳥は沢山出るかと問ふにそれは一日に十五や二十は見つかるのだが取れると取れないとは腕前の如何にありとの返事は大に小父さんのアムール・プロプルに反動を起して生意気な奴といつたが是はいつも聞く至当の返事である。此茶屋を出ると直くに降り坂にかゝり瞬間に急路を下る途中海の見ゆる処より近路らしい径路に入る。傾斜が急で霜解けのために表面のみグチヤグチヤてあるから滑る事一ト通り、遂にエキリーブルを失つて尻餅をつき羽織も着物も泥だらけになる。中頃に至りて小父さんは鶉が居そうだといつて左の畑にはいつて行つたが間もなく雌雉子が一つバタバタと飛び出したのを連発て射て落たはもうけものであつた。山路を下つてしまへば網代港である。荷かつぎの爺は跡になつたであらうといつて探して居るうち奴さんは如才なくチヤンと清水屋という宿屋にはいつて待つて居たので、まだ時間はあるが誰も熱海まで進行せんというものはない。宿屋の様子も鳥渡気に入つたから裏二階に上る。荷物かつぎには八貫やつて返した。二階坐敷の眺望は中々妙である。前は松の大木を隔てゝ箱根足柄の山々が海面に聳へて居る。今や温かき光を送つて来る夕陽は港口の人家に当つて潮に耀いて見へる。一寸中国あたりの景色に似た所がある。菊地は早速ブツクを出して写生を始める。小代は台所へいつて鳥汁を命した。熱海から来た十人斗の鉄砲連は宿屋で一杯やつて前岸に繋いた船に乗つて帰つて行く。此際椽側に写生をして居た菊地の耳に誰かの声で旅順が落ちたというのを聞いたといつた。何んだか分らないが或は事実かも知れないと思つたか、是ころ都では既に今朝来知れ渡つた事で其反響が今斯る僻地の浦頭に居る我々の耳に入るとは割合に迅速なもんである。夜食は久し振で人間らしい飯を食つた。甘鯛の煮肴いかの酢の物で一杯やり、小鳥の汁は誠によい味に出来た。菊地は酒が利いて直に寝てしまひ跡は三人で十時頃まで遊んだ。是れが即ち旅順開城規約成立の当日の日暮しであつた。

1905(明治38) 年1月3日

七時半頃に起き出で朝飯は小鯛の塩焼に玉子の汁、雑煮の餅も至極加減がいゝ。此清水屋という宿屋は是までの処では申分のない評判であつた処で愈出掛けるといく段になり、又荷物担きの人足を頼まうとするとくや昨夜お注文の船が出来てチヤンと待つて居るとの事、なにそれは直段を聞いた丈で注文はせぬと争ふたが亭主が出て来て折角支度をしたのと正月の事であるから御無理でも乗つて戴きたいといつて止まない。昨夜からの待遇は申分なかつたが此一事で大に感しを悪くした。熱海に昼前に着くだろうかといつたら昼前ところではなく十一時には旅順陥落の籏行列があるから其前に帰つて来る積りだという。是で陥落も愈確実となつた。船に乗る事は小父さんと佐野とは第一に賛成したのであるが、拙者は此暖かい天気に二里の山越へをして此辺の風景を眺めながらブラブラ歩きをするのを楽しみにして居たのだから失望せざるを得なかつた。併しモー仕方がない、宿屋の前から船に乗込正九時に出発した。漕き出して見ると静かな海風に浴する気持決して悪くはない。船は四丁櫓で押すのであるから中々よく走る。船中で生じた一事件はヂョンの病気で、元来腹具合のわるい所を船に揺られたのだから忽ち腹痛を感じたと見へて艫先に出てビリビリ始めた。臭い臭い一ト通りてない。小父さんは立つて行つて介抱する。トート着岸するまで抱へ通しであつた。其内船は熱海湾に入り市中では祝捷の旗がひらめくを見る。海岸には白衣の負傷兵があちこちに散歩するのを見る。丁度十時に着船する。船賃一円六十銭の外に酒代を要求したが与へなかつた。熱海では直様山手に登り人車鉄道のステーシヨンに向ふ。樋口の裏門を通り過きた横町で如何にも豪義な金持の家族らしい女連に逢つたが小代は其中の一婦人に対して挨拶をして居るから我々は一ト足先きに停車場に行つて待つて居ると、何そ図らんそれは小泉翁の一行であつて間もなく翁もやつて来て此奇遇を喜び遂に我々と同車して三等車を一台買ひ切りにして十時半に出た。随分甘い都合に行つたものである。こうなつて見ると網代で船に乗つたのも損はなかつた訳で若し陸を来たならば或は最終の人車に間に合はなかつたかも知れない。左なくとも東京帰着の時間は非常に後れたに相違ない。車中で小泉氏が持つて居た今日の日々を見て、元日にステッセルより開城の申込があつて二日の午後日露両軍の委員が会見するという事を知つた。途中は色々な話で四時間の箱詰めも大して退屈せずに二時少し過きに小田原に着車、小泉氏と別れて電車停車場に向ふ。此処ても正月と祝捷とで大賑ひ、狭い町で紙旗の続いたのを軒から軒に掛け渡したのは中々奇麗であつた。停車場では少し待ち合せ其間に菊地と小代とは塩からの桶詰を買つた。二時四十五分の電車に乗り国府津に着。まだ一時間斗間があるというので蔦屋本店にはいり昼食をやる。此時に朝日新聞号外旅順開城談判結了の公報が来た。やがて発車時間になりて車に乗込み四時半に発す。途中は無事到る処に軒提灯を見るのである。殊更横浜はイルュミネーシヨンをやつて市中は賑ひの様子である。七時半品川にて佐野と二人で下車、始めて通行税を払つて電車に乗り札の辻で下り今福で晩飯をやり、おひろひで家に帰つたのは九時少し過きで昨日陥落の報で大賑はひの様子を聞いた。

1905(明治38) 年1月4日

昼前は年始はがきの認め方で暮す。午後彬を連れて賢崇寺に墓参する兵隊の宿舎になつて大混雑の様子である。閑叟公墓の前で伊東祐穀に出つこわした。夜祝捷の様子を見ながら新橋辺まで歩し色々買物をした。

1905(明治38) 年1月6日

午前散歩小舟町安田銀行に赴き債券の引換へをなし、帰りに中通りをひやかしドテラ地を買ひ入れる。大に堀出し物であつたとの評判。昼頃にこまの友達である菊坂町のきいチヤンという人が来た。雨に降られて夕方帰る。

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