1904(明治37) 年10月20日

早朝金次郎使に来る。八時より学校廻り三時半に解剖の講釈を済まし展覧会に立寄つた処、竹沢が丁度見物に来て居つたので暫く話し土曜日を期して分れた。今日は拙者の当番なれど湯浅に跡を托して帰り、通り掛に家に立寄り直様目黒へ出掛けた。恵比寿講で御馳走の使を受けたのである。お客は竹野の穏居と原未亡人とである。朝から来て居たのであつた。今日はよねの西洋料理のお浚へで西洋蒲鉾(斯く始めて名つけられたのである)キャベツ巻の二品に海老の半ぺんが出来た。ライスカレーは塩加減が過きた。林檎の菓子は中々の大出来、いろいろ引受けて空腹の処を中々詰め込んだ。両女客は八時の汽車で帰り跡少時話す。早稲田の支那処分論は愉快である。又謡曲研究が早稲田に始まるという話もある。彼是手間取る内雨が降り出し大に閉口、朝から催しかけている雨なれば急にやみそうでないと思ひ是非なく自転車を一泊させる事とし八時五十分新宿行の汽車に乗る。新宿よりは甲武鉄道の電車の初物をなし信濃町で下り青山御所前から人力で十時前に帰宅した。

1904(明治37) 年10月21日

今朝京都堀江氏へ松茸の礼状を出す。午後電車で一ツ橋に赴く。帰りはズツト三田まで乗り通し伊皿子にて降り人力で永峯に行つた。父上は佐野老人とよねとを連れてお出掛け、すみは独り残されて哀れな様子であつた。自転車を取り降らぬ先きと思ひて走り帰る。

1904(明治37) 年10月22日

朝は一ツ橋。午後小代の四男死去の事を聞き見舞に行く。竹沢小泉続いて来る。後一同我家に集る。例の大和田の丼、食後に佐野も来た。翁は相変らずの不結果で竹沢の勢当るべからず。休日をひかへて大分晩くなる。半夜過に及ぶ。

1904(明治37) 年10月23日

終日小代の処で暮す。墓標を頼まれたが出来て来ないので段々引張られた。午後には佐野も見へた。三時過に黒田を一寸尋ね白滝へ送金の件を相談し、帰りに小代の処に立寄り墓標を書いた。

1904(明治37) 年10月27日

学校の帰りに展覧会に立寄る。今日は集金掛りを勤めた。帰宅後入浴中田中三郎に来襲された。青年会の寄附金ねだりであつた。一円だけ投ず。其内小代来り又先日ファルデルに稽古の事を頼んだ中野道明が来る。彼是で八時頃まで飯を喰へず後佐野に使を出したが昨夜出産の為め来られぬという事であつた。

1904(明治37) 年10月28日

今日は秋の好天気で散歩をするには申分なき日であるが別に何もせずにしまひ午後一橋校に稽古をなす。生徒の欠席多い無理もない事である。退校後目黒に行ふとしたがやめた。夕方露艦北海暴行事件に付英国人の怒気極端に達し頗る危急なる由号外に出る。つまりは泣き寝入りか波羅的艦隊廻航中止位な事になりそうである。夜食こまと久し振りで京橋まで散歩、買物色々なす。帰りは愛宕下で電車を下り桜川町で鍋類購入、秋の日和で定めなくボツボツやつて来たので急き帰宅した。

1904(明治37) 年10月29日

人力で一つ橋に赴き、夫から上野に廻り長原より会の予備金三百円受取る。午後三田松下に自転車弾機直しを頼む。夜六時過小泉翁佐野と同時に来る。小代も後に会す。今夜は珍しく翁の勝利となつた。小代佐野不出来。佐野に三〇用立つ。

1904(明治37) 年10月30日

午後より目黒に出掛る。父上無事、よねがシュウクリーム菓子製造で大騒きであつたが中々甘く出来た。其他に変つた話もない、四時頃に帰る。尾竹竹坡前田青村というのが来て美術院二十日会の講話の事を請求する。其内にやろうといつて一先づ断はつた。小代が来てどこかに食事に行こうというのでこまをつれて出掛ける。橋善へいつたが満員で天金に廻る。単調で感心せず。帰りに新橋勧工場に入り買物をなし、夫から大門で車を下り、小泉の家に立寄つたが不在であつた。

1904(明治37) 年10月31日

一ツ橋では明日の大会で生徒は落附かず早く切上げる。夫より正金銀行にまわり白滝へ二百円為替券を取組み又茅場町今村銀行に於て九鉄新株払込を済まし丁酉銀行に立寄。帰途日吉町共存同衆にて小泉氏を尋ねシンガア軍用自転車というを見る。十一時過に帰宅す。夕五時半過に黒田来る。白滝への為替券を渡す。〔欄外に「今日の新聞では英露事件も大して物になりそうでない様子である。」〕十月の月も是で尽きた。此月は沙河会戦の好成績ありしが奉天の進軍にはまだ渉らぬ。旅順の攻囲は二十六日より総攻撃を開始せりとの確報あるも、是又全部の陥落には猶時日を要するが如し。バルチック艦隊は今や地中海口に達したるも英国漁船の撃沈事件のため其一部は西班牙海港に淹留したり。此際一般の人気は極めて沈静にして第三回の国庫債権の如きも十分の成功を見んとするなり。秋季の市況は思ひ外に活気あり、団子坂の戦争人形は繁昌を極むというが如き実に予想の外なりというべし。

1904(明治37) 年11月1日

本日高等商業学校にては第三回一橋会大会のため授業を休む。同会へは風邪により出席を断はる。午後は上野の学校、課業を終りて後鶯谷長光亭に開ける校友会月報打合せ会に出席、高村黒岩其他十名計集る。七時過に散会、夫より溜池の牛どん会に赴く。今夜は非常に出席者多く新会員の撰定其他議事多し、十時頃に終り佐野小代と一緒に帰る。

1904(明治37) 年11月2日

高商学校に出掛けたるも大会の余波にて生徒解散授業出来ず止むを得ず休講せり。午後は美術学校で遅くなる。今日は天長節前で是非共旅順の快報が来ねばならぬやうに思ひ込み、学校で久一どんの如き大に力んで居たが遂に何も出ず。

1904(明治37) 年11月3日

天長節で例年より優つた日本晴れで景気がいゝ。今朝八時に支度をして霊南坂下に御通輦を見に行つた。九時少し前に通御を拝す。本年第五十三回の御誕辰といふが中々老年の様子は少しも見へさせられぬ。身体愈肥壮なるを拝するは頼母敷心地す。何れかにブラつく積りであつたがやめにして西の久保を一ト廻りして帰宅す。十一時過に小代来る。豚にじめを一緒に食した。夫から自転車で佐野を訪ふに不在。小泉の方に廻つたが是もお留守仕方がなく日影町をブラツキ芝の苔香園にはいる。彼是して帰つて来る内に紅葉館前で小泉翁にブッツカリ共に帰宅した。夕方になり三人で松金に食事に出掛る。おきよさんという細目白膚の女中のお酌で大分飲む。大串三切れでウンザリする。割り前が一七五は余りお安くもないが天長節の事で仕方がない。何しろ料理屋を見たやうな処で食事をするのは実に久し振りである。夫から一同再び片町に集る。佐野も狸穴坂で出つこわして後に一緒になつた。今日は小泉翁又々大不景気であつた。十一時過散ず。

1904(明治37) 年11月4日

こまは朝から歯痛に悩んで臥した。家内は極めてトリストである。黒田から旅行差支への通知をよこす。午後一時頃号外の声あり。午後出発の積りで仕度をして居る処に小父さんが来て黒田の差支へのために延期の事を報じたので大に失望した。四時過に佐野菊地等も集り十番の三ツ星で会食帰りに皆一緒に来る。高樹は例の酒調子で挑戦の結果矢張損失に畢る。又今夜相談にて明土曜の午後出発の事に極る。

1904(明治37) 年11月5日

今朝こまを一の井へ療治にやる。十一時に中丸来大会補助の件話す。十二時半に家を出で小代を誘ひて信濃町停車場に行けば菊地は既に一ト足先きに来て居る。猿橋までの切符を求めて一時三十九分発の列車に乗込。佐野は四ッ谷から乗りて来て一緒になつた。新宿からは非常な乗人があつて車中は大混雑を極める。其中に丸髷に吾妻コートの女が拙者の側に割り込んだ。年はやゝふけて居るがまんざらでない面相であるのはいゝが、式部的の雄弁家で車中で連れになつたらしい横浜の生糸商らしい色の黒い三十男を相手にして漢語交りの弁舌をシャガレ声で滔々と振ふのである。以前はえらい豪家であつたのが「零落の極」に及んだというやうな訳で今は何か沢山な女を監督して大なる責任ある身分らしい。神奈川の神風が売り物となつた事につき種々の計画談など聞く。此女傑のお陰で八王子までは一向退屈をせずに過し同処より中央線の汽車に乗換へ間もなく出発する。小仏の隧道を出入する内日は没した。上野原にて三十分余待ち、夫がために延着、六時頃猿橋駅に下車す。もふ四方は全く見へぬ頃で、投宿には恰好の刻限である。途中で如何にも見事な柿があつて皆んなで頬張る。中々甘い。それが一銭五厘とは馬鹿に安いという評判。十町余も跡戻りして橋畔の大黒屋に入る。以前トロンコアと二人で泊つた家で、しかも同じ二階坐敷にはいつた。部屋は汚ないが気持のいゝ家である。入浴後夜食には鯵の塩焼随分新鮮である。こんな処に生の肴があるのは鉄道のお蔭であろふ。食后佐野の蝉丸が始まり夫から無茶にうなりやがて寝に就く。

1904(明治37) 年11月6日

朝陽光に催されて七時頃一同起きる。山地の割合には一向寒くない。朝飯に鋳さんが一杯やるといつて命じた処が昨日の通り二本つけて来たので逆鱗したが別に仕方がない。朝飯が済んで間もなく勘定を命じた。泊りは五拾銭皆で一円の茶代をおごつた。九時前に宿を出で菊地に猿橋の様子を見せて橋を渡り鳥沢に向ふ。空合ひが大分怪しくなつて一時ポツリやつて来たが、少しの間で止み又日が照る。此途中別段出来事もない。唯中学生徒の修学旅行の一群に出逢つた。先生連の中に拙者の面を知つた者があつたと後から聞いて少々驚いた。夫れは菊地の知人で日本中学の遠足である由。鳥沢へは一里弱でぢきに着いた。竹沢の消息を探るために、住吉屋という宿屋で聞いたところが三日の日に帰つたといつた。停車場にて時計を見れば十時十分前で上りの汽車までは二時間程の間があるので町をブラツク。何も見るべきものなし。菊地は角の家の前で水画をやつて居る。我々は停車場前の垣根の芝の上で日向ぶつくをして中々心地よし。十一時四十何分に汽車に乗り、多くの隧道を出入し与瀬で下りる。此処で昼の支度をして小仏にかゝろうというのだが思ふやうな喰物屋を見出さない。小代と佐野とは停車場前の宿屋に跡戻りしたが、予と菊地は町の方にそばやを探したが相当な処を見出さず遂に町外れの怪し気な飲食店にはいつた。婆さんが居て大に歓迎し牛鍋が出来るというので裏坐敷に通る。使を走らして肉を買ひに行くという訳であるから中々急には間に合はない。七輪の火が漸くおこつて牛鍋を載せた時に小代佐野はもう飯をすましてやつて来た。さんまのおかずで十四銭で喰つたとの事で少々へこみの体である。其中婆さんは裏の畑から葱を沢山取つて来る。肉も煮へ大急きで食事を済す勘定は二人前六拾銭は止むを得ない。平素は此家は白首屋である事は此汚ない部屋に三味線が掛けてあるので分る(後に聞けば駕籠吉といつて与瀬で有名な婆さんという事)。空合が愈々悪るくなつてどうでも雨との説で荒物屋て呉座を一枚づゝ買入れて与瀬を発した。もふ十一時半頃である。山路にかゝるまでは処々に村落が続いて居る。紅葉は今が最も見頃て山頂の重なつた景色は気持がいゝ併し画にしたい処は余りない。旧道の山径に入るつもりであつたが茅があつて歩き悪いという里人の語に従つて新道を取つた。十年前から見ると道路は立派になつた。併し鉄道が出来たためか通行人は殆んどない位である。峠の頂上に達した時は日は大分低くなつた。雨は遂に降らず、ゴザはお伴になつた。菊地は雨傘を背負ひ大得意である。下り坂になり七八町歩いてから左の方の小さな山道に入る。是から又高雄山の方に登つて行くのである。葛の沢山に生へた枯れ竹の山路を伝つて急勾配の絶頂を登りつめると向は高雄山で此処には大木が茂つて居る。日没時に寺の門に達した。温泉宿見たやうな大きな二階屋が建つて居る。本堂も中々盛んである。此山中にこんな立派な寺があるのは何となく幽邃な趣味を感する。夫より本道を下りて両側七八町が間に塀のやうに建つて居るのは杉苗寄進の標札で色々な悪る口が出る。其中に日は段々暮れて来る。足元が最早明らかに見へないという時に円形のフラツトフォルムに出で、是から先きは路が細くなつて谷間に降りるやうな嶮岨な処になつて来た。サア大変是は違つたに相違ないと跡戻りをしても外に行くべき路はなく勇を鼓して岩角を足捜りで下つて来るが何しろ暗黒なので見当はつかず燐寸の火を点じて行く。其内に杉の枯葉を拾ひそれを炬火として路を照した。段々道もよくなり色々苦心の末に暫く本街道に出で先々無事で面白い紀念となつたのは上出来。浅川で兼て小父さんの知つて居る花屋という宿屋に入る。奥坐敷の立派な処に案内されて入浴後一杯やつて直に休む。

1904(明治37) 年11月7日

今朝は一度目を覚して菊地と暫らく話をしたが佐野と小父さんが応じないから又一ト休みして八時過縁側に日が当つて来たとき一同と共に起き出てた。昨日とは違つて申分のない天気、朝飯は玉子焼にあんかけ豆腐で一寸喰へる。勘定を見ると泊り五十銭で昨日と同様茶代をおごる。又来てもいゝ家だと思つた。昨日から給仕をやつて居るのは宿の娘で此土地の事色々話を聞いた。支度をして立出てたのは丁度十時で八王子へは二里あるというので十二時には着く勘定でツイツイ歩く。景色は浅川を眺めた処丈は実に見事であるが跡は桑畑のみでつまらない。併し今日のやうな秋晴で新鮮な空気を呼吸して行くのだから溜らない、好い気持になる。連中が連中だから馬鹿話しは大してはづまない。唯時々小代菊地の衝突が起る位なもんだ。足並みが揃つて進行した故が存外早くはかどり十一時には既に八王子の町にはいつてしまつた。追分の足袋屋で土産の紺足袋を買ふ。夫から八王子の大通りで大火後大分様子が変つたやうである。十年前にあつたボルデルは裏通りに放逐されたと見へて一軒もなく、大店や銀行が此大通りを占めて居る。今日は大掃除をやつて往来に道具を持ち出し、ひやかすには都合がわるい。朝食が遅いので腹はいゝし昼は蕎麦でこまかすという事になり停車場附近のある蕎麦屋に入る。玉子とじにかしわ南蛮で中々お安く揚る。さすが都会の地丈ある。それから直く停車場にかけつけて十二時四十分の汽車に乗込む。車中は来る時と違つて乗客少なく楽に一ト息き寝る事が出来た。何も変つた事もなく、佐野丈は新宿で分れ残りは暫らく待つて信濃町まで行く。茲に着いたのは三時頃でもあつたか是から小父さんと人力を価をつけて無事に帰宅す。家に帰れば顔を見知らない下女が出て来て門口をあけた。聞けば先のは留守中に暇を乞ふたという事余り惜しい方でもない。今度のは越後のもんだそうだ。

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