1904(明治37) 年11月1日

本日高等商業学校にては第三回一橋会大会のため授業を休む。同会へは風邪により出席を断はる。午後は上野の学校、課業を終りて後鶯谷長光亭に開ける校友会月報打合せ会に出席、高村黒岩其他十名計集る。七時過に散会、夫より溜池の牛どん会に赴く。今夜は非常に出席者多く新会員の撰定其他議事多し、十時頃に終り佐野小代と一緒に帰る。

1904(明治37) 年11月2日

高商学校に出掛けたるも大会の余波にて生徒解散授業出来ず止むを得ず休講せり。午後は美術学校で遅くなる。今日は天長節前で是非共旅順の快報が来ねばならぬやうに思ひ込み、学校で久一どんの如き大に力んで居たが遂に何も出ず。

1904(明治37) 年11月3日

天長節で例年より優つた日本晴れで景気がいゝ。今朝八時に支度をして霊南坂下に御通輦を見に行つた。九時少し前に通御を拝す。本年第五十三回の御誕辰といふが中々老年の様子は少しも見へさせられぬ。身体愈肥壮なるを拝するは頼母敷心地す。何れかにブラつく積りであつたがやめにして西の久保を一ト廻りして帰宅す。十一時過に小代来る。豚にじめを一緒に食した。夫から自転車で佐野を訪ふに不在。小泉の方に廻つたが是もお留守仕方がなく日影町をブラツキ芝の苔香園にはいる。彼是して帰つて来る内に紅葉館前で小泉翁にブッツカリ共に帰宅した。夕方になり三人で松金に食事に出掛る。おきよさんという細目白膚の女中のお酌で大分飲む。大串三切れでウンザリする。割り前が一七五は余りお安くもないが天長節の事で仕方がない。何しろ料理屋を見たやうな処で食事をするのは実に久し振りである。夫から一同再び片町に集る。佐野も狸穴坂で出つこわして後に一緒になつた。今日は小泉翁又々大不景気であつた。十一時過散ず。

1904(明治37) 年11月4日

こまは朝から歯痛に悩んで臥した。家内は極めてトリストである。黒田から旅行差支への通知をよこす。午後一時頃号外の声あり。午後出発の積りで仕度をして居る処に小父さんが来て黒田の差支へのために延期の事を報じたので大に失望した。四時過に佐野菊地等も集り十番の三ツ星で会食帰りに皆一緒に来る。高樹は例の酒調子で挑戦の結果矢張損失に畢る。又今夜相談にて明土曜の午後出発の事に極る。

1904(明治37) 年11月5日

今朝こまを一の井へ療治にやる。十一時に中丸来大会補助の件話す。十二時半に家を出で小代を誘ひて信濃町停車場に行けば菊地は既に一ト足先きに来て居る。猿橋までの切符を求めて一時三十九分発の列車に乗込。佐野は四ッ谷から乗りて来て一緒になつた。新宿からは非常な乗人があつて車中は大混雑を極める。其中に丸髷に吾妻コートの女が拙者の側に割り込んだ。年はやゝふけて居るがまんざらでない面相であるのはいゝが、式部的の雄弁家で車中で連れになつたらしい横浜の生糸商らしい色の黒い三十男を相手にして漢語交りの弁舌をシャガレ声で滔々と振ふのである。以前はえらい豪家であつたのが「零落の極」に及んだというやうな訳で今は何か沢山な女を監督して大なる責任ある身分らしい。神奈川の神風が売り物となつた事につき種々の計画談など聞く。此女傑のお陰で八王子までは一向退屈をせずに過し同処より中央線の汽車に乗換へ間もなく出発する。小仏の隧道を出入する内日は没した。上野原にて三十分余待ち、夫がために延着、六時頃猿橋駅に下車す。もふ四方は全く見へぬ頃で、投宿には恰好の刻限である。途中で如何にも見事な柿があつて皆んなで頬張る。中々甘い。それが一銭五厘とは馬鹿に安いという評判。十町余も跡戻りして橋畔の大黒屋に入る。以前トロンコアと二人で泊つた家で、しかも同じ二階坐敷にはいつた。部屋は汚ないが気持のいゝ家である。入浴後夜食には鯵の塩焼随分新鮮である。こんな処に生の肴があるのは鉄道のお蔭であろふ。食后佐野の蝉丸が始まり夫から無茶にうなりやがて寝に就く。

1904(明治37) 年11月6日

朝陽光に催されて七時頃一同起きる。山地の割合には一向寒くない。朝飯に鋳さんが一杯やるといつて命じた処が昨日の通り二本つけて来たので逆鱗したが別に仕方がない。朝飯が済んで間もなく勘定を命じた。泊りは五拾銭皆で一円の茶代をおごつた。九時前に宿を出で菊地に猿橋の様子を見せて橋を渡り鳥沢に向ふ。空合ひが大分怪しくなつて一時ポツリやつて来たが、少しの間で止み又日が照る。此途中別段出来事もない。唯中学生徒の修学旅行の一群に出逢つた。先生連の中に拙者の面を知つた者があつたと後から聞いて少々驚いた。夫れは菊地の知人で日本中学の遠足である由。鳥沢へは一里弱でぢきに着いた。竹沢の消息を探るために、住吉屋という宿屋で聞いたところが三日の日に帰つたといつた。停車場にて時計を見れば十時十分前で上りの汽車までは二時間程の間があるので町をブラツク。何も見るべきものなし。菊地は角の家の前で水画をやつて居る。我々は停車場前の垣根の芝の上で日向ぶつくをして中々心地よし。十一時四十何分に汽車に乗り、多くの隧道を出入し与瀬で下りる。此処で昼の支度をして小仏にかゝろうというのだが思ふやうな喰物屋を見出さない。小代と佐野とは停車場前の宿屋に跡戻りしたが、予と菊地は町の方にそばやを探したが相当な処を見出さず遂に町外れの怪し気な飲食店にはいつた。婆さんが居て大に歓迎し牛鍋が出来るというので裏坐敷に通る。使を走らして肉を買ひに行くという訳であるから中々急には間に合はない。七輪の火が漸くおこつて牛鍋を載せた時に小代佐野はもう飯をすましてやつて来た。さんまのおかずで十四銭で喰つたとの事で少々へこみの体である。其中婆さんは裏の畑から葱を沢山取つて来る。肉も煮へ大急きで食事を済す勘定は二人前六拾銭は止むを得ない。平素は此家は白首屋である事は此汚ない部屋に三味線が掛けてあるので分る(後に聞けば駕籠吉といつて与瀬で有名な婆さんという事)。空合が愈々悪るくなつてどうでも雨との説で荒物屋て呉座を一枚づゝ買入れて与瀬を発した。もふ十一時半頃である。山路にかゝるまでは処々に村落が続いて居る。紅葉は今が最も見頃て山頂の重なつた景色は気持がいゝ併し画にしたい処は余りない。旧道の山径に入るつもりであつたが茅があつて歩き悪いという里人の語に従つて新道を取つた。十年前から見ると道路は立派になつた。併し鉄道が出来たためか通行人は殆んどない位である。峠の頂上に達した時は日は大分低くなつた。雨は遂に降らず、ゴザはお伴になつた。菊地は雨傘を背負ひ大得意である。下り坂になり七八町歩いてから左の方の小さな山道に入る。是から又高雄山の方に登つて行くのである。葛の沢山に生へた枯れ竹の山路を伝つて急勾配の絶頂を登りつめると向は高雄山で此処には大木が茂つて居る。日没時に寺の門に達した。温泉宿見たやうな大きな二階屋が建つて居る。本堂も中々盛んである。此山中にこんな立派な寺があるのは何となく幽邃な趣味を感する。夫より本道を下りて両側七八町が間に塀のやうに建つて居るのは杉苗寄進の標札で色々な悪る口が出る。其中に日は段々暮れて来る。足元が最早明らかに見へないという時に円形のフラツトフォルムに出で、是から先きは路が細くなつて谷間に降りるやうな嶮岨な処になつて来た。サア大変是は違つたに相違ないと跡戻りをしても外に行くべき路はなく勇を鼓して岩角を足捜りで下つて来るが何しろ暗黒なので見当はつかず燐寸の火を点じて行く。其内に杉の枯葉を拾ひそれを炬火として路を照した。段々道もよくなり色々苦心の末に暫く本街道に出で先々無事で面白い紀念となつたのは上出来。浅川で兼て小父さんの知つて居る花屋という宿屋に入る。奥坐敷の立派な処に案内されて入浴後一杯やつて直に休む。

1904(明治37) 年11月7日

今朝は一度目を覚して菊地と暫らく話をしたが佐野と小父さんが応じないから又一ト休みして八時過縁側に日が当つて来たとき一同と共に起き出てた。昨日とは違つて申分のない天気、朝飯は玉子焼にあんかけ豆腐で一寸喰へる。勘定を見ると泊り五十銭で昨日と同様茶代をおごる。又来てもいゝ家だと思つた。昨日から給仕をやつて居るのは宿の娘で此土地の事色々話を聞いた。支度をして立出てたのは丁度十時で八王子へは二里あるというので十二時には着く勘定でツイツイ歩く。景色は浅川を眺めた処丈は実に見事であるが跡は桑畑のみでつまらない。併し今日のやうな秋晴で新鮮な空気を呼吸して行くのだから溜らない、好い気持になる。連中が連中だから馬鹿話しは大してはづまない。唯時々小代菊地の衝突が起る位なもんだ。足並みが揃つて進行した故が存外早くはかどり十一時には既に八王子の町にはいつてしまつた。追分の足袋屋で土産の紺足袋を買ふ。夫から八王子の大通りで大火後大分様子が変つたやうである。十年前にあつたボルデルは裏通りに放逐されたと見へて一軒もなく、大店や銀行が此大通りを占めて居る。今日は大掃除をやつて往来に道具を持ち出し、ひやかすには都合がわるい。朝食が遅いので腹はいゝし昼は蕎麦でこまかすという事になり停車場附近のある蕎麦屋に入る。玉子とじにかしわ南蛮で中々お安く揚る。さすが都会の地丈ある。それから直く停車場にかけつけて十二時四十分の汽車に乗込む。車中は来る時と違つて乗客少なく楽に一ト息き寝る事が出来た。何も変つた事もなく、佐野丈は新宿で分れ残りは暫らく待つて信濃町まで行く。茲に着いたのは三時頃でもあつたか是から小父さんと人力を価をつけて無事に帰宅す。家に帰れば顔を見知らない下女が出て来て門口をあけた。聞けば先のは留守中に暇を乞ふたという事余り惜しい方でもない。今度のは越後のもんだそうだ。

1904(明治37) 年11月9日

八時に中丸が来て大会の一件を話す。九時半一ツ橋で専攻一年の稽古をやる。外のクラッスでは遠足の惰力で欠席が多い。午後上野から会へは寄らすに帰る。

1904(明治37) 年11月10日

学校の帰り展覧会に立寄り今日の収入を受取る。夫から三宅と同行日本橋倶楽部に催せる白馬会大会に赴く。出席者は昨年より多数な位である。和田と中丸とが大に働いた。食事は弁松の弁当は大当りであつた。五時過から会食を始めて暫時にて済む。夫からは余興が始まつた。今年のは元手が掛らないので淋しく且幕合ひの長いので退屈させたやうである。大出来なのは正木の狂言に矢田部の人形で大喝采。芝居は練習の不足が目立つた。併し和田三造の老父橋本邦助のお乳女及び正木の医者など甘かつた。十時に終り自転車にて帰宅す。

1904(明治37) 年11月11日

明日大掃除の通告が昨日来たので、今朝永峯に赴き金次郎に大工を呼びにやる事を頼んだ。又よねは早稲田中野氏に児を連れて行くやうに命ず。石井八万次郎漢口よりの手紙を見る。支那内地大旅行は壮快である。十時過に帰宅す。糸川正鉄前約に依り来訪。上海にて油絵展覧会設計のため近日同地に渡航する由話す。午後一ツ橋授業帰りに宗十郎町散髪屋に立寄る。明日大掃除のため今夜早寝で皆休んだ時に黒田から使が来た。事件は展覧会賞与の事であつた。

1904(明治37) 年11月12日

今朝は女共は三時半から起きて片附けにかゝつた。目黒から金次郎と大工が六時過になりやつて来る。夫から規則の明文通りに建具を取外し、畳を外に出す。引越しよりも騒動ははげしい。八時より一橋に赴き十一時に帰れば最早検査は済んだ処で天井板の掃除をやつて居る。昼飯は外に畳をひいて食した。一寸焼出されのやうな風情である。近所の様子ではこんな騒きをせずにもよかつたのであるが、併しとこからとこまで掃除をして清々したには違ひない。昼後になつて漸く畳を入れたという時に、静岡の徳田の妻君がやつて来た。おこまのごみをかぶつた姿には驚いたろう。風呂をわかしたが火がおこり損なつていつまでも暖まらず大難儀。夫から夕食がとうやらこうやら出来た。七時過からこまは徳田氏と新橋辺に同道した。此夜我家に宿泊した。

1904(明治37) 年11月13日

徳田の妻君は朝食後間もなく辞し去る。こまは昨夜の食物不消化で病気発熱診察にいつた。過激の運動で不消化を起したのかも知れぬ。午後黒田を尋ね後上野に赴き中村と学校買上品の撰定をなす。会場には三時頃大に人出があつた。四時過に帰宅す。今日は畳屋に六畳間の畳替へをなさしめ大工は棚を釣りに来た。こまは四畳半に臥して居る。

1904(明治37) 年11月14日

一ツ橋後上野展覧会に廻る。昨日限りにて閉会。今日は跡片附けのため会員を集めた。黒田は十二時頃になり漸く見へた。糸川の事及岡田の借金整理の事など相談する。昼後になりて会場は荒増し片ついた。和田が請求者となり茶菓子を買ひにやる。三時過から帰る。

1904(明治37) 年11月15日

今日は一ツ橋に自転車を置去りにして本郷廻りの街鉄に乗り辛ふじて上野の時刻に間に合ふた。帰りにも切通し四ツ角から街鉄三田行に乗り三銭で山内まで乗る。夜小泉翁葡萄牙製の鑵詰を持参した。間もなく偶然ながら小父さんも来会久し振での会合であつた。翁は相変らずの不景気。併し秘露開拓事業は隈伯の賛成を得たというで大に悦んで居た。如何にも隈伯の賛成しそうな事柄である。

1904(明治37) 年11月16日

今日は天気であつたから一ツ橋から上野への掛持は甘く行つた。併し昨夜全く下た見をする暇がなかつたから前膊骨の講義は大にまづかつた。今日合田の話で校長が帰つた事を知つた。一昨日かに横浜に着いたという事なり。三時半過一寸逢つた。帰宅後入浴して居ると佐野と小代がやつて来て三田に喰ひに行こうというので余儀なく支度をして出掛る。暫くして菊地も来る。珍らしく三人分の肉を平らげた。割り前は六拾一銭五厘なり。帰りは皆んなで集る。菊地は例のアルコール元気で開戦を促したが今夜は少しでも割増しでおとつさんの声も出なかつたのは先々大出来。

1904(明治37) 年11月17日

昨日から今朝にかけて号外の声が聞えた。籬の残菊という風で、余り景気のいゝ呼び声でもない。事件は旅順から駆逐艇が一艘芝〓へ逃げ出した事でそれが自ら爆沈したという丈である。何しろ旅順の長引くには大に一般の人気に関するやうである。其割に株はまだ辛じて直段を維持して居るやうなり。

1904(明治37) 年11月18日

午前は髯そりをやる。午後一ツ橋のお勤めを済し直さま帰り入浴。夜竹野老人来る。中野の妹婚礼の一件を話す。此間静岡のお客で三、〇〇やられて又々こんな余計な事が出来て大弱りなれば是が所謂Nuなものか先日早稲田の園遊会での話など聞く、世の中は実に余計な苦労で成り立つて居るものヂヤ。

1904(明治37) 年11月19日

今朝一ツ橋授業後松崎校長に面会して改革云々の話をする。又手当金交付の時期を尋ねたが年末であるというので安心した。思へば此頃のやうに金にがつがつした事は今までにないのである。午後目黒に参る。父上は在宅、石井八万より送つて来た地形図につき色々支那開拓談が出で糸川の上海開発談などやる。又醋酸は好況の由にて今や唯一の待望は此会社の運命に依つて繋がれたる有様である。よねに中野祝ひの品買入のため二円渡した。三時過に目黒から出て札の辻に中丸精十を訪ふた。是は此間から小泉に頼まれて居る自転車売買の一件で、昨日小泉が態々人力で中丸との相談が出来たというやうな事であつたから其後の様子を聞くためであつたが中々とうも甘く運ばない。差当り是非共入用であるのは僅か百円の金の出来難いのは実に意想外である。夫れがために夜食後は小父さんを尋ねよふとして居る処に小泉来り共に三河台に出掛けた。其結果今一度小代が中丸の処へ談判に向ふ事となる。後両人我家に来る。

1904(明治37) 年11月20日

此頃は実に不思議な天気続きで畠なんかは既に雨を祈つて居るそうであるがこうなると中々降らない。今日又取り分け好晴で前週よりの約束によりこま及彬を連れて紅葉見に出掛ける。九時少し前に家を出で山内より街鉄の電車で上野に至り停車場で少時待合せて十時廿五分の汽車に乗込む。三等車中々の雑踏である。十一時前に王子で降り稲荷社を経て滝の川に向ふ。もう十余年前に来たのだから此辺の様子は全く違つて居る。滝の川で茶屋に休む。日曜であるから人出は多いが制服を着た学校の生徒が大多数で余り有福な方は少ないやうである。夫から途中滝不動というのを一寸見物し飛鳥山を下りて停車場に近つくと丁度汽車が来たので之に乗り上野に一時に着き電車で新橋まで走り、橋善で昼飯。今日は奥座敷の奇麗な室に始めてはいつた。夫から日影町を歩いて切通しを昇り三時に帰宅。今夜は早寝で九時にはおひけにした。夜中猫から騒動が始まる。追記、王子よりの帰途飯倉で大植木鉢を買つて来てゼラニオムの根分けをした。

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