1904(明治37) 年11月6日 Sunday


十一月六日 曇

朝陽光に催されて七時頃一同起きる。山地の割合には一向寒くない。朝飯に鋳さんが一杯やるといつて命じた処が昨日の通り二本つけて来たので逆鱗したが別に仕方がない。朝飯が済んで間もなく勘定を命じた。泊りは五拾銭皆で一円の茶代をおごつた。九時前に宿を出で菊地に猿橋の様子を見せて橋を渡り鳥沢に向ふ。空合ひが大分怪しくなつて一時ポツリやつて来たが、少しの間で止み又日が照る。此途中別段出来事もない。唯中学生徒の修学旅行の一群に出逢つた。先生連の中に拙者の面を知つた者があつたと後から聞いて少々驚いた。夫れは菊地の知人で日本中学の遠足である由。鳥沢へは一里弱でぢきに着いた。竹沢の消息を探るために、住吉屋という宿屋で聞いたところが三日の日に帰つたといつた。停車場にて時計を見れば十時十分前で上りの汽車までは二時間程の間があるので町をブラツク。何も見るべきものなし。菊地は角の家の前で水画をやつて居る。我々は停車場前の垣根の芝の上で日向ぶつくをして中々心地よし。十一時四十何分に汽車に乗り、多くの隧道を出入し与瀬で下りる。此処で昼の支度をして小仏にかゝろうというのだが思ふやうな喰物屋を見出さない。小代と佐野とは停車場前の宿屋に跡戻りしたが、予と菊地は町の方にそばやを探したが相当な処を見出さず遂に町外れの怪し気な飲食店にはいつた。婆さんが居て大に歓迎し牛鍋が出来るというので裏坐敷に通る。使を走らして肉を買ひに行くという訳であるから中々急には間に合はない。七輪の火が漸くおこつて牛鍋を載せた時に小代佐野はもう飯をすましてやつて来た。さんまのおかずで十四銭で喰つたとの事で少々へこみの体である。其中婆さんは裏の畑から葱を沢山取つて来る。肉も煮へ大急きで食事を済す勘定は二人前六拾銭は止むを得ない。平素は此家は白首屋である事は此汚ない部屋に三味線が掛けてあるので分る(後に聞けば駕籠吉といつて与瀬で有名な婆さんという事)。空合が愈々悪るくなつてどうでも雨との説で荒物屋て呉座を一枚づゝ買入れて与瀬を発した。もふ十一時半頃である。山路にかゝるまでは処々に村落が続いて居る。紅葉は今が最も見頃て山頂の重なつた景色は気持がいゝ併し画にしたい処は余りない。旧道の山径に入るつもりであつたが茅があつて歩き悪いという里人の語に従つて新道を取つた。十年前から見ると道路は立派になつた。併し鉄道が出来たためか通行人は殆んどない位である。峠の頂上に達した時は日は大分低くなつた。雨は遂に降らず、ゴザはお伴になつた。菊地は雨傘を背負ひ大得意である。下り坂になり七八町歩いてから左の方の小さな山道に入る。是から又高雄山の方に登つて行くのである。葛の沢山に生へた枯れ竹の山路を伝つて急勾配の絶頂を登りつめると向は高雄山で此処には大木が茂つて居る。日没時に寺の門に達した。温泉宿見たやうな大きな二階屋が建つて居る。本堂も中々盛んである。此山中にこんな立派な寺があるのは何となく幽邃な趣味を感する。夫より本道を下りて両側七八町が間に塀のやうに建つて居るのは杉苗寄進の標札で色々な悪る口が出る。其中に日は段々暮れて来る。足元が最早明らかに見へないという時に円形のフラツトフォルムに出で、是から先きは路が細くなつて谷間に降りるやうな嶮岨な処になつて来た。サア大変是は違つたに相違ないと跡戻りをしても外に行くべき路はなく勇を鼓して岩角を足捜りで下つて来るが何しろ暗黒なので見当はつかず燐寸の火を点じて行く。其内に杉の枯葉を拾ひそれを炬火として路を照した。段々道もよくなり色々苦心の末に暫く本街道に出で先々無事で面白い紀念となつたのは上出来。浅川で兼て小父さんの知つて居る花屋という宿屋に入る。奥坐敷の立派な処に案内されて入浴後一杯やつて直に休む。

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例)「1904/11/06 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/872156.html(閲覧日 2024-05-19)